海の上の籠の中で 後編30





「ナナ、俺だ。開けてくれ」
 暗闇の中、扉に向かって声を発した。反応は、直ぐだった。
「ケイト!?」
「ああ」
 ガチャっと鍵の音がして、扉がゆっくり開かれて。そこには、想像通りにナナとアオイが心配そうな顔で立っていた。
「大丈夫、なのね?」
「まだだ。まだ、終わってない」
「え?」
 ナナのその声には答えず、ケイトはアオイに目を向けた。
「デュークが呼んでる」
「どう・・・いうこと?」
「アイディーニという男と、」
「―――――っ!!!」
 反応は顕著だった。
「その執事が上にいる」
 アオイが息を飲んで、思わず後ろに一歩下がって首を横に振った。
「アオイ」
「いやだ・・・、嫌だ!!」
 喘ぐような声に続いて、悲鳴の様な声だった。
 決めた心なんて、脆くも砕けた。
 その名を、聞くだけで。
「会いたくない!!嫌だ。なんで!?なんで――――――っ」
 思い出すだけで。
 背中を寒気が駆け抜けて、立っている膝も今に砕けてしまいそうだ。
「これはアオイの問題でもなるから、ちゃんと見届けに来いと。アオイ―――――逃げるな」
 ケイトがぐっとアオイの腕を掴んだ。その身体が震えていた事はケイトにも伝わった。
 可愛そうだ、と純粋に思う。けれど―――――――
「大丈夫だ。何があっても守ってみせる。わかってるだろう?」
 ケイトにはそう言うしか無かったし、それが全てだった。
 これは誰でもない、アオイの問題であり、アオイが乗り越えていかなければならない問題なのだ。
 助けてはあげられる。持てる全部の力で守ってもやれても、変わってはやれないから。
 不気味なほど静かな沈黙が流れた。
 アオイの吐く、荒い息だけがナナにもケイトにも聞こえていた。
 それはきっと、数秒の事。
「―――――」
「アオイ、行きましょう」
「ナナっ」
「大丈夫!私たちがついてるわ。そうでしょう?」
 ナナはアオイを勇気づけるように、にっこりと笑った。それは何の迷いも無く、そして強い意志に満ちていた。
「でも・・・」
「アオイ、逃げるな」
 ケイトの声は非情だった。
 けれど、優しかった。
 だから。
 アオイは思わず唇を噛んで、恐怖に溢れそうな涙を必死で堪えて。
 ―――――意を決したように小さく頷いた。





 ざわっと空気が揺れたような気がした。
 デュークがゆっくり振り返える。
 ケイトが、姿を現して。
「――――アオイ」
 アオイがゆっくり、ケイトの陰に隠れるようにその姿を現した。
「ユリアス様っ」
 執事がハッと息を飲んで呟くと、アイディーニ伯がその身を乗り出した。
「ユーリ!!」
 アオイの身体がビクっと震えた。その身体を支えるようにしてケイトは、アオイをデュークの傍まで導いた。その間、アオイは一度も視線を横に向ける事は無かった。
 青い顔で、どこを見ているのか1点を凝視している。
 そしてデュークまで手が届くほどの距離になると、腕を伸ばしてデュークの腕を取った。
「ユーリ!!」
「間違いありません。あの方こそ、アイディーニ家の正当な当主となられるお方です!」
「アオイ。彼らはああ言ってるが」
「知らない!!僕は―――――っ」
「だそうですよ?」
「うるさいっ!!――――ユーリ!!こんな事をしてお前、わかっているのか!!」
 威圧的な、大声が海をこだました。
 アオイの身体がビクッとして、身体が小刻みに揺れる。それはどれほどの、緊張なのだろう。
 デュークの顔が、一切の表情を消していく。
「旦那様!?」
「待ってろ!!今俺がわからせやる!!」
 アイディーニ伯はラチがあかないと思ったのか痺れを切らしたのか、船の縁に手をかけてこちらの船に乗り移ろうとしている。
 執事は慌ててそこにあった渡し板をかけた。どうやら止める気は無いらしい。
 アオイのデュークを掴む指に力がこもる。
「ユーリ、帰るぞ」
 アイディーニはふらつく足で甲板に降り立つ。
「今ならまだ、軽いお仕置きで済ませてやろう」
 苛立ちを精一杯取り繕った顔で言う。
「お前が嫌いなのは、―――――そう、鞭だ」
 ビクっと身体が揺れた。それでも、アオイは一歩たりとも動こうとはしない。
「ユーリ!!」
 アイディーニは郷を煮やし、アオイの方へ歩いていく。
「やはりお前は悪い子だな。その背中に鞭を入れなければいけないな?その肌に傷をつけるのは私も忍びないんだが」
 それはもう、人とは違うものになったのではないかと思うほどの顔つきだった。
「罰は必要だ」
 爛々と光る瞳はいったい何に執着しているのか。
 そして、腕を伸ばしてアオイに迫った。
「ユーリ!!」
 先ほどよりだいぶ近くで呼ばれた声に、アオイは反射的にその顔を見て。
 ハッとしたように息を飲む。驚愕に、アオイはその瞳さえ大きく見開いた。
「――――」
 一瞬、分からないほど見違えたのだ。
 アオイの知っている顔は、こんな顔つきじゃなかった。もっと逞しく、精力に満ちて慇懃とした、のしかかるような威圧感のある男性だったのに。
 強い力で引っ張られ、嫌がる腕さえ軽くはらって、おおいかぶさってきた。
 上げた悲鳴など、平手1回で消し飛んだのに。
 そこには、アオイが怯えていた男の屈強さはもう無かった。
 何故?と考える余裕は無い。
 彼の荒い息も。
 痩せた体躯も。
 ふらつく足取りの意味も。
 ―――――これなら・・・・・・
 アオイの喉が小さく鳴った。
 その足が、デュークから小さく一歩離れた。
「ユーリ」
 アオイの態度に嬉しそうに目を細める。
 アオイはもう1歩小さく足を踏み出した。
 その瞳は、見る影も無くやつれた男を凝視したまま。
 ―――――これなら、やれるっ
 アオイの右手がそっと後ろに回る。
 こっそり背に入れておいた、ナナの小剣。
 心臓が、ドクドクと鳴っていた。
 握り締めた左手の平はじっとりと汗ばんでいた。
 ゆっくり、右手を自身の衣服の間に滑り込ませる。
 ほんの数分が、随分と長い時間に感じられた。
 魚の跳ねる音さえしない静寂。
 鳥の鳴き声も、しない。
 大丈夫、やれる。
 やれる。
「ユーリ」
 うわごとの様に繰り返すその瞳は、もう狂気に彩られていた。
 アオイはゆっくりと、それを掴んだ。
 ―――――ボクハ・・・・・・
 緊張に浅い息を繰り返す。
 けれど、止めようとは思わなかった。
 ―――――コロス。
 もうすぐ、互いの距離が腕1本分になる。
 アオイはゆっくりと、柄から引き抜いていく。
 その時だった。
「―――――っ!!」
 一瞬の、風が吹いた。
「ガッ!!」
 アイディーニ伯の胸に、剣が突き刺ささる。
 瞳が見開かれた。
 アオイの身体は、デュークの左腕にぎゅっと抱かれて身動きが出来ない。
 抜かれるはずだった小剣は中途半端な状態で、自分の背中とデュークの腹の間に収まったまま。
 アオイの口が、驚きに半開きにったまま固まっている。
「な、ぜ・・・だっ」
 まだ柄には指が絡まっていた。
 バクバク跳ね上がる心臓。
「何故?決まっている。それがお前の運命だ」
 デュークの声が、耳を掠めた。
「ちがっ―――ッ!!」
 ゲホっと血を吐いたが、アイディーニはそれでも足を一歩進めた。しかし、アオイには僅かばかり手が届かない。
「見たところ、病に冒されてる様だな」
 ポタポタと傷から血が落ちて床を汚す。
 ―――――えっ!?
 アオイの瞳が一層驚きに彩られる。
「もう、終わりだ。お前の望みなど――――――叶うはずがないだろう」
 デュークの言葉にアイディーニ伯は執念に犯された瞳で睨みあげた。
 ―――――のぞみ・・・?
「き、さ・・・ま・・・・・・っ」
「―――――」
「キサマ、などに――――っ」
 地を這う怨念の声だったが。
 デュークが剣を抜くと同時にその場に膝を付いて、アイディーニは崩れ落ちた。
「旦那様!」
 執事が慌てて駆け寄ってくる。
 その首にデュークの剣先が躊躇う事無く突きつけられた。
「デューク!!」
 アオイの左手が、デュークの手にかかる。
 何故咄嗟に止めたのか。
 アオイさえもわからなかった。
「ユリアス様」
 何を勘違いしたのか、少し感涙を織り交ぜた声。
 助けられたと思ったのか。
 それが、この上なく耳障りだとアオイは思った。
 でも。
「ユリアス様」
 駆け寄ったアイディーニから、アオイに向かって頭を垂れるその人を見る。
 この人が死のうが生きようが、どうでもいい。
 なんだかとても冷静にそう思ってる自分にアオイは気づいていた。
 けれど。
「もう、止めて。もう、いい」
「ユリアス様っ」
「勘違いするな。僕はただ、―――――」
 そう―――――そうなんだ。
「僕は、デュークの手をお前達なんかの血で汚したく無いだけだっ」
「・・・・・・っ」
 止めたのは、助けたかったわけじゃない。
 血が見たくなかったわけじゃない。
 デュークを、守りたいだけ。
 ただそれだけだ。
「貴方達みたいな人たちに、汚されたくないっ!!」
 そう言い放ち執事を睨みつけたアオイの髪を、デュークの左手がくしゃりと撫でた。
「俺もだ」
「え?」
 小さく呟かれた意味を一瞬分かり損ねて、アオイは思わずデュークの顔を見た。しかし、デュークはもう何も言わなかった。
 その瞳は少し穏やかさを取り戻していたか。
「さて、俺達は引き上げるか」
 そう言ってケイトに視線を向けると、ケイトは自分達の船の上で小さく笑った。
 きっとデュークが刺さなかったら、投げていたであろうナイフを右手に隠して。
「じゃあそうしますか」
 ヒデローは軽く肩を竦め、軽やかな足取りで船へと渡る。
「アオイ、行こう」
「お待ち下さい!!それは、それは困ります!!」
 執事が顔を上げて、アオイの足元ににじり寄ってきた。
 その顔に浮かぶ、深い皺。
「それではアイディーニ家はどうなります!?脈々と続いてきた名家でございますっ。先祖は先の戦でその命と引き換えに国を守った勇士も多数いらっしゃるのですぞ!!」
 この人はこんな顔だったのかと、今更ながらに思った。
「それをこんなに軽率に絶やしてしまわれるおつもりですか!?お国屈指の名家なのですよ。その価値がおわかりですか!?」
 そう言われても、アオイにはそんな家に生まれたんだという気持ちが無い。
「その家を絶やすなど、こんな事が許されるはずがございません!!お父様やお母様のお気持ちをお考えください」
「貴方にっ、そんな事を言われる筋合いはないっ」
「ユリアス様」
「―――――貴方は――――っ!!」
「仕方が無かったのでございます。あの時はこの方こそが当主でいらっしゃいました。私は代々、アイディーニ家当主の仕える者でございますから。逆らうなんて出来ません」
 その言いように、アオイは一瞬言葉を失って、次の瞬間情け無さそうに笑った。
 家、なんてものがちっともピンと来ないアオイにはそれは、空しくも滑稽にしか思えなくて。
「家?」
 そして、理解出来なかった。
「じゃあ貴方が優しかったのは、僕がそういう地位にいたからなんだね」
 幼い日々、ただ優しさとその暖かい瞳が嬉しいと思っていたのに。
 どんなに恨もうと、それだけは。
 そう、思っていたのに。
「ユリアス様?」
「もうそんな名前の人はこの世にいません。1年も前に、死にました」
「貴方様はっ」
「僕はっ!―――僕はただのアオイです。海賊見習いです―――――――さようなら」
「お待ち下さい」
 踵を返したアオイの足に、執事がすがり付こうと手を伸ばした。その手をデュークが蹴り払う。
「ぎゃっ!!」
 執事が上げた悲鳴にアオイは振り向かなかった。
 ただ真っ直ぐ、ケイトやナナやミヤやトウヤやヒデローが笑って待ってる船に向かって、そして乗り込んだ。
 もう、何もいらない。
 何も無い。
 重たかった心も背中も、なんだか急に軽くなって上手くバランスが取れない。
 甲板で、ヒデローの笑みとケイトの気遣う視線が横目に見えたけど、アオイはそれに振り返る余裕は無かった。
 なんだろう。
 一体なんだったのだろうかと、わけもなく空しい気持ちだけが込み上げてきて。
 アオイは唇を噛み締めて、逃げるように部屋を返った。
 終わった。
 全部、終わった。
 アオイはただ床にへたりこんで、その顔をベッドに押し付けて。
 ただ、嗚咽をかみ殺した。

 その涙の意味を知るのは、きっともっと先だけど。今はただ、泣きたかった――――――――――  












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