海の上の籠の中で 後編7








 早朝というか夜中というかという時間の山間に、けたたましいとも言える蹄の音が響いて人々の眠りに割って入った。しかし馬を駆った張本人はそんな事を気にする気は無いらしい。すぐに慌しく石畳を踏む音が響いて、そしてすぐさま街中へと遠ざかった。
 人々は邪魔なその音が遠ざかるにつれて、呼び戻された意識をまた眠りへと落としていき、日が昇り目が覚めるころにはそんな事があったことも夢うつつの出来事として忘れるだろう。
 しかし、足音を立てた当の本人は夢うつつではいられない。
 案内されるがままに道を下ってその姿を探す。カフェは当然閉まっていて、そこにその姿を見つける事は出来ない。しかしケイトが宿を取って休んでいるとも考えられない二人は、その周りをゆっくりと歩いた。
「デューク」
 声はすぐにかかった。
「ケイト、大丈夫か」
 馬を駆ってきた彼らは身体がほかほかと暖かいのだが、じっと座りカフェ閉店後はじっと立っていたケイトは寒そうに身を震わせていた。
 その身体を、デュークは気遣う声をかける。
「これくらいなんでもないさ。それよりも、アオイはあの店にいた。私も姿を確認したから間違いない」
「そうか」
 指差され、デュークはそちらに視線を向けた。そこは当然明かりもなく真っ暗で寝静まっている事を物語っている。
しかし、後1時間もしたらトルタスが仕込みの為に起き出すだろうが。
「少し聞いてみたのだが、アオイは約1ヶ月前からあそこに住み込みで働いているらしい。店自体は夫婦二人でやっている様なのだが、奥さんが出産間近という事で人手を探していたとの事だ」
「――――」
「夫婦の評判はすこぶる良いし、アオイの評判も良い。・・・・・・ここでも、アオイと名乗っているよ」
 その言葉に一瞬ハッとデュークは目を見張ってケイトと視線を交わした。
「そうか―――――・・・・・・そうか・・・」
 ケイトの言葉に、デュークはふと噛み締めるように二度呟いた。
 一度名を捨てたけれど、今度は名を捨てないでいてくれたのだなと思った。それだけで、心が随分救われた気持ちになるから人はなんて現金なんだろうか。
「ミヤ、ケイトを連れて、どこかあったかいものが食べれるか飲めるかするところに行ってくれ。俺はここで見張っているから」
「はい」
「デューク」
「大丈夫だ」
 残る、と態度で示すケイトにデュークはご苦労さんとばかりに肩をぽんぽんと叩くと、ミヤを視線で促した。ミヤは小さく頷いて、ケイトを促した。ふと触れたケイトの手を氷の様に冷たく冷えて、これは暖かい物が大至急必要だというのは誰でもわかる。
 それでも渋るケイトに、デュークは力強く言い切った。
「任せてくれ」
「・・・わかった」
 そう言われればケイトも引き下がらずをえない。ケイトは小さく頷いて、やっとミヤに促されるままに足を進め、まだ灯りの見える方へ坂を下った。あちらには明け方までやっているバーなどがあったのは昼の探索で承知済みだ。
 その後姿を見届けて、デュークは再び視線を戻した。
 その途端。
 胸が、ドキっと大きく跳ね上がった。
 視線が一点に集中する。
 あそこにいる、何故かわからない、けれど、あの部屋にいる。
 そう思った。
 一番上、小さな窓のあるあの部屋。アオイは間違いなくあそこにいると、何故だか確信出来た。
 そう思えば今すぐにでも扉をこじ開けて、中に入ってアオイに会いたいという衝動に駆られる。心が焦燥と焦りに焦れて、今にも足は駆け出しそうになったが、デュークはそれを必死で押し留めようと、自分で自分の気持ちを押さえつけていると。
「―――?」
 寝静まっているはずのその家から、何か物音が聞こえてきた。一瞬、泥棒かとも思ったがケイトが見張っていて今は自分が見ていて、泥棒の侵入を見逃すはずが無い。
 すると、今度はアオイがいるであろう部屋の明かりもついた。
 ―――――・・・・・・なんだ?
「――――!!」
 直後、何かが転げ落ちるような、激しい音がしたかと思うとバタンと扉が開く音がして一人のむさ苦しい男が転がるように出て来た。着衣は乱れひっかけた上着もズレたまま。そして、そのままの勢いで坂道を駆け下りていく。
 ―――――アオイ!?
「アオイ!」
 もう黙って見ていられるはずがなかった。
 デュークは男が出て来た、鍵もかけられていない扉を開けて中に上がりこんだ。
「アオイ!!」
 思わず声を上げる。
 なんだ、何があったんだ!?
 胸が焼け付くような焦りを感じる。泥棒なんて、強盗なんてそんなはずは無い。もしかしたら家人に暴力でも振るわれて!?――――そんな最悪な光景が脳裏に過ぎる。
 もし、もしそんな事になっていたら。
 いや、脳裏にはもっと最悪な状況が浮かんでしまう。
 ―――――どこだ!?アオイ!!!
 デュークは力任せに手当たり次第扉を開けて行く。
 階段を上がって、覗けばキッチンがあった。その廊下を挟んだ向こうから、僅かに光が洩れていた。
 デュークはスッと息を吸い込んで剣の柄に手をかけた。
 慎重に、足をすり足で進めていく。人の気配もある。
 間違いない、誰か―――――いる。
 今だ。
「アオイ!!」
 扉を開けて剣をかざした。
「――――っ、・・・」
 アオイの、顔から零れ落ちそうなくらいに大きく見開かれた瞳とぶつかった。
「アオイ・・・」
 素早く見渡しても、誰もいない。傍らに、苦しそうに横になる女以外。けれど、デュークはその姿を目にいれながらスルーした。
 敵でないのなら、今は目に入れる必要が無かった。どうみても、その女がアオイに何かしたようには見えないし、するようにも見えない。
 デュークの足が、ふらふらと、足が前に出る。
 久しぶりに見たアオイの顔は、少し痩せた様な気がした。
 けれど、間違いなくアオイだ。
「・・・ん、で?」
 少し青ざめたアオイの、小さな震えた声。その声に、思わず目尻が熱くなった。
「ん?」
 デュークはそっと手を伸ばし、指先でアオイの頬に触れた。
「なん、で?」
 ぽろっと、大粒の涙がアオイの瞳から零れ落ちてデュークの指も濡らした。
 デュークはその泣き顔に、何故か安堵の息が洩れた。この顔を知っていると思って、見覚えのあるこの顔を再び見る事の出来た嬉しさに肩の力が抜ける。
 張り詰めた心の糸が、少したわんだ。
 ―――――ああ、ここにいる――――――――アオイは、ここにいる。
「探した。――――家出なんか、すんじゃねーよ」
 もっと、かっこいい言葉を予定していたはずなのに。口から漏れた言葉はそんなものだった。情けないくらい、ほっとしていて声が震えないようにするのが精一杯だ。
 デュークはそのままアオイの頭を引き寄せて、胸に抱いてその身体をきつく抱きしめた。腕の中に閉じ込めるように。もうどこへもやらないと誓うように抱きよせた。そのかけがえの無い温もりを、逃さないように。
 緊張にわずかに震えているのを、出来れば悟られたくないと思ったけれどもしかしたらアオイは気づいたかもしれない。
「デュー・・・ク・・・」
「ああ」
 アオイも震わせていた身体。それを目一杯強く抱きしめて頭を優しく撫でた。泣いているらしい事は、肩の上下ですぐにわかった。
 その背中をゆっくりさすって宥めた。
 どれくらい、泣いたんだろう一人で。
 どれくらい、寂しい想いを抱いて一人過ごしてしいたのだろう。
 どれくらい、決心が必要で、どれくらい不安だったんだろう。そう思うと、愛しさと切なさに、胸が潰れそうに痛んだ。
 世間知らずな、真っ白な心は潰れなかっただろうか?
「アオイ・・・」
 デュークが甘い声を出したと同時に、うめき声が聞こえた。
「ううっ・・・!」
「あっ!ジャシカさん!!」
 途端にアオイは慌ててデュークの腕から抜け出して、傍らのジャシカの背中に手を回した。
 ―――――・・・なんだ?
 その仕草に、当然ムッとした面白くないという空気を隠しもしないで不機嫌な顔でデュークがジェシカを見ると、ジャシカはお腹を抱えて蹲り、アオイがその背中をさすりながらなんとか立とうとしていた。
「・・・どうしたんだ?」
 不本意ながら、デュークは聞かざるをえなかった。声は、地を這っていたとしても。その視線がその女を睨みつけているように見えたとしても。
「え!?あ、えっと、生まれるって。それで、ジャシカさんお腹痛くなって」
「・・・ああ」
「産婆さんがトルタスさんを呼びに、もうすぐ。だからベッドに」
「寝かせるのか?」
「うん」
「わかった。変わるよ」
 デュークは言うが早いか、ジャシカを軽々と抱え上げ、ベッドに寝かせた。
「ダメ、・・・っ、タオル・・・敷いて」
「タオル?分かった。取ってくるね」
 バタバタとアオイは駆けて行ったかと思うとすぐさまとって返して、大量のタオルを手にしていた。そしてそれをベッドの上に敷き詰めていく。
 デュークはしょうがないのでもう1度ジャシカを持ち上げてその間にタオルを敷いてもう1度横にさせると、今度は慌しい足音が階下から上がってきた。
「ジャシカ!大丈夫?ああ、マサ婆早く早く!!」
「うるさいよ、そんなに怒鳴らなくても聞こえるさ。ああ、男共は外へ出とくれ!」
「あ、え、でも!」
「でもじゃないよ。こんな時に男は役になんか立つ物か。それよりも湯を沸かしておいておくれ。沸騰させてから人肌に冷ますんだ。それ早く」
 マサ婆はそういうとデュークごと部屋から追い出した。慌ててアオイも出ようとすると。
「あーお前さんはこっちを手伝え」
「僕!?」
「そうじゃ」
「え、いや、僕」
 男なんだけど?そんな言葉を続ける間も持たせてくれない。
「いいから早く。手をぎゅっと握っておいてやるんじゃ!」
「あ、はい!!」
 シワシワの顔で怒鳴るその迫力にアオイが太刀打ち出来る筈も無い。言われるままに手を握り締めると、ジャシカの強い力で握り返された。
 ―――――いたーい!!
 思わずジャシカの顔を見るが、当のジャシカはそれどころではない。
 ―――――えぇえ!?
 するとアオイの目の前でジャシカの足がガバっと開かれる。もちろんアオイの場所からは見えるわけではないのだが、それでもアオイは顔を真っ赤に染めて俯いた。
 なんとなく、見てはいけない気がするのだ。
「うぅ!!」
「ジャシカさん!?」
 しかし、もじもじしている暇はアオイには無かった。
「手をぎゅっと握ってやれ。ジャシカ、ふっふっ、はーで力むんじゃ」
「ジャシカさん、頑張って」
 溜まらずアオイも声をかける。ジャシカの顔は苦しそうに歪められ、額からは玉の様な汗が流れ落ちいた。
「うぅ・・・っ」
「そうじゃ。ゆっくり・・・力んで」
「う―――っ、・・・はぁはぁはぁ・・・」
「そうじゃゆっくり。ええぞ、頭が見えてきた」
「頑張って。大丈夫だから」
「―――力んで!」
「う――――っ、う――――、はぁはぁはぁ」
「もう一息」
「頑張れ!」
「う――――!!」
「もうちょっとじゃ」
 凄い。アオイはそう思った。ぎゅーって握られる手は、物凄く痛かったけれど、たぶん今ジェシカはもっと痛くて苦しいんだと分かった。
「うぅ――――――!!」
 見たこと無いくらい必死の顔で、ぼろぼろ汗をかいて苦しそうで、なんだか凄いとアオイは思った。
 室内には荒い息遣いと、マサ婆の声が飛ぶ。少し寒かった室内が熱気で暑いくらいになっていく。
「がんばって!」
 声に思わず涙が滲んだ。子供生むって、こういうことなんだと思った。
 普段だってお腹が重そうでしんどそうで、でも笑顔でなんでもこなしてて、それだけで凄いなぁって思っていたのに、生むのにこんなに辛そうで、肌を拭われたタオルには血がいっぱいで。
 うんうん唸りながら、―――――――
「もうちょっと。・・・もうちょっと!!がんばれ!!」
 アオイは励ますようにぎゅっと強く手を握って祈った。
「これで最後じゃと思って、――――力んで!」
 ―――――神様――――!!
「ううう―――――!!!」
「おぎゃぁおぎゃあ!!」
 ―――――あ・・・
「やった!!やったよジャシカさん!!」
 振り向いて見たジャシカの顔は、汗と涙にぐちゃぐちゃに濡れながらも安堵の色を浮かべていた。そして何より、とても嬉しそうに笑っていた。
「ジャシカ!!」
 待ちきれなかったのであろう、トータスが勢いよく扉を開けると。
「湯を持って来い!」
「はい!!」
 また怒鳴られて逆戻り。そしてよたよたした足取りで湯を運び、あんまり綺麗じゃないなぁと思わずアオイが思ったその子を、綺麗にしていく。
 なんというか、子供ってあんまり可愛くないなぁって思ったのは賢明にも口にはしなかった。
「おお、男の子じゃな」
 元気に泣く子供のおちんちんを確認してマサ婆が言うと。
「そうか、男の子かぁー」
 トルタスが嬉しそうに言って思わず涙ぐんだ。そんな様子に、ジェシカはほっとしたように笑みを浮かべて目を閉じた。疲れたのだろう、直ぐに眠りに落ちて行った。
 その傍らで、アオイはデュークに視線を向けると、デュークもアオイを真っ直ぐに見つめていた。









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