海の上の籠の中で 後編8








 お産も無事終わり、ジャシカは眠りにつき、トルタスはいつも通り店を開けるために階下で仕込みをしていたその時、アオイとデュークはキッチンテーブルに向かい合って座っていた。
「アオイ」
 まだ世間が寝静まっているままの静けさの中、囁く様な声もよく聞こえる。そのはずなのに、呼ばれたアオイは俯いたまま返事をしようとはしない。
「アオイ、顔を上げてくれ」
 懇願するようにさえ聞こえる声に、やはりアオイは顔を上げない。デュークはしょうがないと、小さく息を吐いた。さっきは会えて嬉涙を流してくれたと思ったのに、と思ってみてもしょうがない。
 こういう時、心臓は妙にどきどきすると思いながら言葉をアオイに向けた。
「・・・迎えに、来たんだが?」
 ヒクっとアオイの背中が震えた。
「帰って来てくれないか?」
 どこかで、鶏が鳴いた声が聞こえた。もう、夜明けの時刻の様だ。
「アオイ。――――― 一緒に、いてくれ」
 デュークの声に、アオイの肩が僅かに震えた。俯いた顔から、不意にぽとりと雫が落ちる。けれどアオイは顔を上げない。
 ただ静かな空気だけが流れ、空が少しずつ明るくなっていくのが窓から射す光でわかる。デュークは息を詰めて、アオイを見つめていた。
 否、と言われる事は想像していなかった。アオイの好意を知っていたから、傷つけたことへの謝罪の気持ちはあっても、断られるとは予想だにしていなかったのだ。
「・・・・・・アオイ、・・・?」
 それなのに、今目の前で、アオイは首を横に振った。ガタっと椅子が大きな音を立てて、デュークは思わず立ち上がった。
 何故?と言う言葉が無様に喉に絡んで音にならなかった。
「・・・け、ない」
 嗚咽にまみれたアオイの小さな声。しかし、はっきりとした否定の言葉。――――行けない、と。
「嘘だろう?」
 アオイは再び首を振る。それと同時に、ぼとぼとと涙が落ちた。それでも、首を横に振る。それを、デュークは信じられないものを見るように見つめていた。
 見ているのに、思考が付いていかない。
「なんでだ?」
「――――」
「なんでなんだ!?」
 思わず声を荒げた。焦りを、露呈するかのように。
「っめんなさいっ」
「アオイ!!」
「僕は、行けないっ」
 泣いているのに?
 待ってたくせに?
 デュークの中に、わけのわからない感情が渦巻いた。アオイの言っていることがわからない、気持ちがわからない。好かれていると思っていた事さえ、思い過ごしだったのか?
 今泣いている理由はなんだ?
 待っていたんじゃないのか?
「なぜだ?」
「デューク、こそ、・・・なんで?なんでさ!」
 声と同時に上げた顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。そんな顔で、アオイはデュークを見つめた。
「ミドリさんが好きなんでしょ?僕なんか、――――僕なんか好きじゃないくせに!!」
「――――」
「なんで来たりするんだよ!!」
 嬉しかった。
 本当は、ずっと待ってた。
 扉が開くたび、名前を呼ばれるたび、そこにいるんじゃないかと思った。けれど――――――――
「アオイっ」
 咄嗟に立ち上がって、何を思ったか自室へ戻ろうとするアオイをデュークが捕らえた。その手を振り払おうと暴れるアオイの身体をデュークが抱きしめる。
「痛っ」
 腕を噛み付かれて、デュークの口から思わず声が洩れた。きっと歯型はしっかりと食い込んで付いているだろう。それでもデュークはアオイの身体を離そうとはしなかった。
 今ここで、離しちゃいけないって事はわかっていたから。
 何があっても抱きしめていようと、必死で暴れる身体を抱きしめた。その、細い頼りない、小さな身体を目一杯の気持ちで抱きしめた。
「・・・アオイ」
 ごめんな。
「ごめんな――――おぉ!?」
 暴れたアオイが足を滑らして、その場に転げた。
「アオイ!?」
 そのまま床に這うようにして逃げようとする身体を、デュークはしっかり捕まえて自分も座り込んで抱きかかえた。
「うーっ」
「大丈夫か?」
「離して!!」
「嫌だ」
「なんだよっ、なんだよなんだよっ。デュークなんか僕の事好きじゃないくせに。あの人が好きなくせに。僕なんて、いらないくせに―――――っ!」
 口が、唇に塞がれた。
「・・・っ、うぅ・・・、やぁっ、・・・ふ・・・ューク!」
 泣き声が切れ切れに洩れた。
 あの人じゃない唇が、触れている。そのことの余韻に浸る余裕が、今はまだなくて見開かれたアオイの瞳からはやっぱり涙がこぼれた。
「好きだ」
 ぶんぶんとアオイの頭が振られる。
「好きだ」
 聞きたくないと、一層激しく。その頭を優しく押さえた。
「アオイ。俺はお前が好きだよ」
「ウソ!!」
「嘘じゃない。――――なかなか言えなくて、ごめんな。ミドリの事、自分でどうやってケジメつけていいかわかんなくて、お前を苦しめた」
「嘘だ!!」
「嘘じゃない!!」
 嫌々と暴れるアオイの身体を抱えなおして、なんとか額をくっつけて見つめた。互いの荒い息が、互いの頬を揺らす。
「でも、もう随分前からアオイが好きだった。だから、傍にいて欲しい」
 そう言ったデュークのその瞳をアオイはチラっと見て、ふっと外しまた戻して最後には視線を外した。そしてきゅっと唇を噛み締めた。
 どれくらいアオイは逡巡していたのだろう。最後は唇が切れるくらい強く噛んで、首を横に振った。
「アオイ!?」
「ダメ!ダメなのっ。・・・一緒にはいけない」
「アオイ!?」
 ここまで来て何故なんだ!という苛立ちにデュークの声が跳ね上がったその時、奥の扉がガチャリと開いた。
「ごめんねぇー」
 のんびりとした、欠伸まじりの声。
「――――っ」
「寝て様と思ったんだけどうるさくてねれないし?せめて話が終わるまで待っていようと思ったんだけど、全然終わらないし。私はお腹減ったし子供にも授乳しなきゃいけないしさぁ」
 思わず睨んだデュークの視線に弁解するような、それでいて面白がっているようなジャシカの口調。デュークの睨みをものともしないのは、母は強しという事なのだろうか。
「旦那にも朝ごはんの用意しなきゃいけないのよねぇ。まさか朝抜きで働かせるわけにはいかないでしょう?」
「あ、ごめんなさい僕っ」
「いいのいいの。それよりアオイちゃん寝てないの大丈夫?」
「へーき。なんか、手伝うよ。・・・デューク」
 腕、離してと小声で囁かれて、デュークは思いっきり不機嫌な顔をしながらもアオイを抱きしめていた腕を解いた。
「とりあえず、顔洗ってきます」
 アオイはそういうと、気恥ずかしいのかいつもよりバタバタした足取りで階下に下りていった。そのまるで逃げるような態度に、慌てて追いかけようとしたデュークをジェシカが呼び止めた。
「追いかけなくてもいいでしょうに。もう、いなくなったりしないわよ」
「何故わかる?」
 冷たい視線でデュークはジェシカを見つめた。もしかしたらこの隙に、それをデュークは危惧しているのだが。
「もう無理よ。あの子はずーっと、誰かを待ってた。・・・それは貴方でしょう?」
 ため息の様な、諦めの様な声だった。
「・・・・・・」
「あの子にもわかってるはずよ。それはね」
「しかし!」
 アオイは、首を立てには振らなかったじゃないか。
「何か、何かあるのね。それはきっと貴方の知らない事で、貴方に言いたくない事なのよ」
「言いたくない事?」
 デュークが不機嫌そうに眉を顰めると、ジェシカは寂しそうに笑った。その顔には、深い翳が見えた。
「好きな人には、知られたくない事ってあるのよ」
「――――」
「とりあえず、今はお腹一杯ご飯を食べましょう。人間、食べる事は基本よ」
 ジャシカは浮かべていた寂しそうな笑みを吹き飛ばし、にっこりと笑って台所に立った。

 しかしそれは真っ青になったトルタスにすぐ止められたのだが。









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