海の上の籠の中で 後編9








 カランと扉の開く音とともにアオイは扉に視線を向けた。
「いらっしゃ―――――っ、・・・ケイト」
「どうも」
 軽く笑みを浮かべてこちらへ向かってくるその姿を、ああ変わってないなと当たり前なんだけれどアオイはこの時思った。デュークも全然変わっていなかったけれど。まぁ、一ヶ月程度で変わりようもないが。
 思わず浮かせた腰は反射的に逃げ腰になったからだろうか。
「パン、買う?」
 そして出た言葉は、そんなもの。
「残念だが、そういう用で来たんじゃない」
「そー、だよね」
 ははっと、間抜けな笑い声をたててみた。それから、どんな顔をしていいのかわからなくてアオイはしばらく視線をさ迷わせてたっぷり逡巡させてから、観念したように再びケイトを見た。
「帰らないって?」
「――――っ」
「俺が虐めたからか?」
「違う!そんなっ、・・・そんなんじゃないよ。違う」
 ハッと顔を上げて、そして直ぐにアオイは力なく首を振ってうな垂れた様に俯いた。
「ヒデローは自分を責めてる」
「え?」
「最後に会ったの、ヒデローだろう?どうして一緒にいなかったんだろうって。どうしてアオイの気持ちに気づいてやれなかったんだろうって」
「そんなの!」
 全然、違うよとアオイは首を振って縋るようにケイトを見つめた。別に誰の所為でもないし、誰も苦しんで欲しくない。そんなために、出て来たんじゃないのだ。誰にも迷惑かけたくないから、出てきたのに。
「なら、そう言ってやってくれるか?」
「え・・・」
「戻らないならそれでもいい。ただ、ちゃんと自分の口でヒデローやナナやトウヤやミヤに説明してくれ。そうじゃなければ、ヒデローはずっと苦しむだろうし、俺もナナも、ミヤもトウヤも引きずっていかなきゃいけないんだ」
「・・・・・・」
 自分の口で言え、それは随分辛い事のように思えて出来ないと思った。
「仲間だと思っていたから、―――――頼ってもらえない理由を知りたい」
「!!」
 その言葉に、ハッとアオイは目を見開いた。
 今、なんて言った?仲間だと、そう思っていたとケイトは言わなかったか?
「僕は・・・」
 僕は、仲間だったの?ちゃんと?
 見開いた瞳が、驚きと期待と、喜びと不安にゆらゆらと揺れていた。その視線を、ケイトはただ黙って受け止めていた。
「俺は、アオイが何者か分からないのが、不安だった」
「?」
「デュークがアオイに惹かれていくのを見ながら、もしアオイがデュークを裏切るような事をするために船に乗り込んできていたら、そうなってしまったらデュークはどうなってしまうだろうと想像すると恐かった。ミドリを亡くした時のあいつを、知っていただけにね」
「ぁ・・・」
「でも、アオイはちゃんとデュークを愛してくれていたんだよな。デュークの元を去ったのは、違う理由があるんだよな?」
 ケイトの気持ちが、ストレートな物言いに込められた想いがひしひしと伝わってきた。痛かった。
 ケイトの後悔と期待と、優しすぎる思いとそして願いが伝わってきた。不器用な言葉で、帰って来いと言ってくれているんだとわかった。
 それを自分は、無下にしようとしているのだろうか?そんな不安がアオイの心に渦巻いてくる。
 もしかしたら、傷つけたのだろうか?と。
 ケイトを、―――――――みんなを。
「アオイ」
「はい」
「待ってる」
「・・・ぇ」
「―――――――船で、待ってる」
「・・・・・・っ」
 ―――――行けない・・・・・・
「俺達の家で、待ってる」
 ぼとりと零れ落ちる涙を、止められなかった。最近勝手に泣き出す瞳はどうやら涙腺が壊れたらしいと、思った。けれど、止める事が出来るはずがない。
 その言葉が、どれほど嬉しいか。心が震えるか、ケイトにはきっとわからないと思った。どれほどそれを渇望していたのか、きっと知らないと思った。
 ケイトは、泣き崩れようとしているアオイを抱きしめるでも無くただ見つめて、そのまま黙って出て行った。出て行き際、奥で話を聞いていたトルタスに微かに会釈を忘れなかった。慰めるのは自分の役目じゃない、そう自分に言い聞かせたのだ。
 泣いている自分だけが辛いんじゃない事に、アオイは考えを馳せる余裕は無かった。
 トルタスはアオイにそっとタオルを差し出すと、裏から静かに出て行った。トルタスはトルタスなりに何も聞けないと思っていたし、自分の知る範囲にはないのだろうとわかっていたから、ただ黙々と午後の配達をした。




 それから1時間ほどした時だろうか。アオイが鼻をぐずぐず言わせているとカウンターにことんと音がして、顔を上げてみると、湯気の立ったカップが置かれていた。
「ココア、甘いの好きでしょ?」
「・・・ジェシカさん」
 ズズズっと、鼻をすする。そんなアオイにジェシカは苦笑を浮かべて、隣に腰を下ろした。
「赤ちゃんは?」
「上で寝てるわ。彼に見てもらってるし大丈夫よ」
「って、・・・デューク?」
「ええ」
「そ、っか」
 ―――――デューク。どんな気持ちで赤ちゃん、見てるんだろ・・・・・・
 それを思うと少しアオイの胸がチクチク痛んだ。もしかしたら、自分の子供がやっぱり欲しくなってるかもしれない。
「彼、自分の子供を亡くしたんですってね」
「デュークが言ったの!?」
「ええ。・・・人を失うのはもうそれで懲りたのに、また失くしそうになったって、ちょっと悲しそうだったな」
「・・・・・・」
「彼には、内緒にしておくわね。あなたが海に沈もうとした事」
 ハッとして思わず見つめたジャシカの瞳は、笑っても怒ってもいなかった。ただただ悲しそうな深い色をしていた。
 そうだ、自分は――――――――
 でもね。
 それがいけないことだったかどうか、わからないんだ。
「・・・あの海でね」
「え?」
「あの海で、人を助けるの、彼にとっては2回目なのよ。でも、1度目は助からなかった」
 今度はジェシカが、ふっと視線を外してどこか遠くを見つめていた。それは、少し遡った過去を見つめていたのかもしれない。
「昔ね、身分違いの女に惚れて身を焦がした男がいたのよ。けれど結局は女の方の親にバレて、激怒されて会う事を禁じられて。そして女性は、親の言いなりに身分にあった男性の下へ嫁いでいった」
「――――」
「男は、世を儚んで海に身を投げた」
 ジェシカの瞳に、涙が浮かぶのをアオイは見つけて思わず目を伏せた。気丈なジェシカのその涙は、なぜか見てはいけない気がしたのだ。
「馬鹿よ。・・・・・・死ぬって勇気のいる事だって言う人もいるけど、それなら私は意気地無しでいい。そんな勇気なら、持っていなくていい。どうしてもっと、死ぬ前に、相談してくれなかったのって何度ももういない相手をなじって、相談さえしてもらえなかった自分の不甲斐なさを呪ったわ。きっと彼にとって、私は相談できるほどの相手じゃなかった、そう自分を責めた」
「そんなのっ、そんな事ないよ!」
 そうじゃない。好きだから、大好きだから言えない事もある。守りたいから―――――――――
 死んだ方がいいって、思ったんだ。
 あの時。
 迷惑かからないには、これが1番良い方法なのかもしれないって思った。
 僕の為にも。
「そうじゃないよ。絶対、違う」
 ジェシカは、少し笑った。
「死ぬって・・・・・・」
 なんだろう。
 生きるって、なんだろう。
「私はね、あなたを救えて良かったって思ってる。――――あの子の変わりにするわけじゃないけど、でも私は救われたわ、勝手だけど」
「・・・」
 救われた?
「あたなが幸せになってくれたら、もっと救われる気がする」
「――――、・・・」
 ジェシカの瞳が、涙で濡れて揺らいで見えた。けれど、精一杯強がって涙は見せまいとしている姿が、アオイの胸を揺さぶっていた。
 アオイがそこに何かを見つけようとしたように、ジェシカはアオイに何かを見つけようとしたのだろうか。
「私、アオイの事勝手に弟みたいに、思ってるのよ」
「え?」
「もう一人の、弟。だからここも、貴方の家になればいいって思ってる。迷惑かしら?」
「ううん、・・・ううん!!」
 アオイは目一杯首を横に振った。迷惑なんかじゃない、全然そんなはずもない。それを必死で伝えようとした。
 ここで、ずっと生きていけたらって思った。
 二人の幸せそうなのが悔しくて、ちょっと嫌だなって思ったこと謝りたいと思った。
 そんな風に言われて、自分がどれだけ嬉しいって思ってるか。でもきっと、ダメなんだ。
 僕はきっと。
 逃れられないんだ、あの人から――――――――――
「良かった」
 ジェシカの声が、少し涙混じりだった。
「ん・・・」
「あのね、あの子の名前はもう決まってるんだけど、もし二人目が授かったら、アオイの名前を貰ってもいい?」
「え・・・」
「ダメ?」
「全然!全然ダメじゃないよっ。でも、僕なんかの名前でいいの?」
「ええ。それから、"僕なんか"なんて言い方しないのっ。いい?」
 メっと怒る顔が、ぐっと近寄ってきてアオイは思わず笑ってしまった。なんだかこの台詞、前にも言われた事があるような気がした。それが、こしょばかった。
「うん」
「よろしい」
「ねぇ、決まった名前って何?」
「ケリーよ」
「ケリーか。いい名前だね!」
 にっこり笑ってアオイが言うと、ジェシカは少し驚いた顔の後満面の笑みを浮かべた。それは本当に嬉しそうな顔だった。
「ありがとう。さ、私はじゃあ上に授乳してくるから、店番お願いね」
「うん」
 ジェシカは少しダルそうな身体を持ち上げると、階段に足をかけた。その時、ゆっくりとアオイを振り返った。
「?」
「彼、待ってるわよ」
 何を、かは言わなくてもわかった。これはアオイが決めなきゃいけない事。そしてアオイに決心させるために、ジェシカは自分の話をしてくれたのだと、アオイにも分かっていた。
 今度はあなたの番よ、ジェシカはそう言っているのだ。
 飛び込んでいきなさい、と。
「うん」
 アオイは、ただそれだけ言って小さく頷いた。

 ―――――嫌われてもいい、ちゃんと話そう。

 そう、思った。
 そして。
 自分は嫌われたくなくて、綺麗に終わりたくて、何も言わず船を降りたのだと、初めて悟った。

 傷つきたくなかったのだ、自分が――――――――――――









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