…10





「はぁ・・・・」
疲れた。
綾乃は、直人のホテルのバイト募集の記事を目にしただけで、ひとしきり泣いて。泣いて。洗面所で見た顔は、まぶたが赤くはれ上がっていて吃驚するくらい不細工だった。
 あまりに不細工で、思わず自分で自分の顔に笑ってしまった綾乃は、冷たい水でパシャパシャと顔を洗って。
 このままじゃいけないと、思い切ってレンタルショップに電話をしたのが昨日の午後。
 そして、今日の今さっきレンタルショップのバイトの面接に行ってきたのだ。
 真吾に履歴書の書き方を教えてもらって、面接の受け答えもちゃんと教えてもらって行ってきたのに。緊張してしまってうまくしゃべれなかった。
 相手の店長の反応も正直今ひとつで、綾乃は緊張と落胆からぐったりと疲れて、帰るなりリビングにぐったりと座り込んだ。
「お疲れ様」
「あ、ありがとうございます」
 9月ももう終わりという今頃になって、ようやく少し肌寒くなってきた。そんな気候の先取りなのか、疲れた身体にもいいようになのか、真吾はあったかくて甘いココアを入れてくれた。
 最近定位置になりつつある縁側の柱に背をもたれかけさせて、綾乃はホットココアをふうふうさましながらすすった。
 合格なら明日の夜に電話がかかるといっていたけれど、たぶん電話はないだろう。
 綾乃はもう1度、アルバイトを捜すべく雑誌に手を伸ばす。
 ――――次を考えないといけない。
 そう思うのに、引き寄せた雑誌のページをめくる事が出来なくて、ただ表紙をじっと眺めていた。
 あったかいココアは、隙間風の吹く心にも優しく染み渡る。
 けれど、それはなんだか優しすぎて。
 綾乃の心を、弱くしていたのかもしれない。
 結局雑誌のページをめくることは諦めて、膝とココアを抱えるようにして、雲のかかった空を見上げていた。


 次の日も、綾乃はいつもの様にマメと一緒に散歩に出た。
 ここ2,3日、綾乃は夜よく眠れなくなっていた。暗闇に包まれた部屋で、目を閉じると現れる『それ』を恐れるように、すぐにまぶたを開いて天井を見つめて。
 眠りたいのに、眠る事が恐くて。
 だから今朝も顔は腫れぼったく、頭も半分動いてないような状態でマメに引きずられるようにしていつもの散歩コースを歩いた。
 そんな状態だから、途中なんども転びそうにもなって。それでもなんとか散歩を終えてもうすぐ家だというところまでやってきた時、視界の向こうに人影が写った。
 まだ半分くらいしか起きていない頭で、その視界の先に現れたシルエットを漠然と見つめた。

 なんだろう・・・と、一度ゆっくりと綾乃はまばたきをして、そしてもう1度同じ事を繰り返す。けれど、その影は大きさを変える事無くそこにある。
 どうやらその人影は動いていないようだ。
 だからといってどうという事もないし、関係もないと綾乃はマメに連れられて帰宅すべくそちらへと進んでいく。
 当然ながら、一歩一歩と近づくにつれてその姿がはっきりと浮かび上がってくる。





 ―――――え・・・・・・・・・・・





「――――・・・・・雅人さん」





 予想も、考えもしていなかったその人影の正体に、綾乃は考えるよりも先にその名が口から滑り落ちた。
大きく目を見開いたままに呆然と立ち尽くす。
 会いたい。
 会いたい、と願い続け。
 会えないと、諦めようとしていたその本人が綾乃の目の前、2メートルほど先に変わらぬ笑顔を浮かべて立っていた。
 ちゃんと最後にその姿を見たのは一体いつだっただろうか。南條家を出る何日か前から雅人とは顔を合わしていなかったので、こんな風にちゃんと見つめるのはかなり久しぶりになるはずだ。
「捜しましたよ」
 スーツではない普段着姿の雅人は、心の底からホッとしたように笑った。その顔色は少し疲れて見えて、少し痩せたような気もする。
「・・・・・あ・・」
 その笑顔に、その声に、この突然に、綾乃はなんて言っていいのかわからなくて、意味のある言葉をつむぎ出せない。
 ただ呆然と見上げることしか出来ない。
 本当に、頭の中が真っ白になってしまっている。
「その犬は?」
 前と変わらない、雅人の穏やかな声色。
「・・・マメ」
「マメ?」
「・・・・・僕が今お世話になっている人が飼ってて――――散歩が僕の仕事だから」
「柴崎さん?」
「あ・・・・・うん」
 上手く言葉を続けられない。というよりも、こんな風にのんきに会話なんてしていていいのだろうかと、思うのだけれど、足は地面に根が生えたように動かない。
「そうですか。犬を飼っているとは知りませんでした。雪人が羨ましがりますね」
「・・・・」
 そう、雪人はだいぶ前に犬が飼いたいとか言っていた。
「――――綾乃・・」
「・・・・はい」
「挨拶しないといけませんね?」
「・・・・・・・え?」
「柴崎さんに」
「・・・・・・」
 あいさつ?
「私はまだ、綾乃の後見人ですよ」
 どうしてだろう。雅人の声が泣きそうに響いた。
 その顔を、ただ呆然と見つめていた綾乃の視界が歪んでいく。
 どういう涙かわからない。
 何故こんなにも込み上げてくるのか、何に対しての涙なのか理由もわからないけれど、綾乃の瞳にはみるみるうちに涙が溜まって視界がさえぎられて。
 雅人の顔をちゃんと見ることが出来なくなった。
 言葉はうまく見つけられない。
 会いたくて。
 会えなくて。
 もう会ってはいけないはずの人。
 本当は、振り切って無視して通り過ぎなくてはいけないはずなのに、それも出来なくて。
 けれど、その胸に飛び込んでいくには、2メートルはあまりに遠かった。
 必死でつけた決心も、固くて。
「綾乃・・・・泣かないで」
 雅人もまた、一歩が踏み出せないでいた。
 一歩踏み出せば、綾乃が一歩引いてしまうような気がして。そしてそのまま走り去ってしまうような気がして。恐くて。
 手を伸ばしても届かない2メートルの距離。
 その距離を――――雅人もまた埋めれない。
 切ない距離を間に挟んで、綾乃と雅人はただ静かに向かい合って。たぶんそれは1、2分程度のものだけれど、永遠にも感じられた時。
「綾ちゃん?」
 切ない空気を切り裂いて、雅人の背後から真吾の声が聞こえた。
「綾ちゃん。―――どうしたん!?」
 綾乃の姿を認めて、真吾の声が慌てたものへと変わる。
 いつもよりも帰りが遅い事が気になって、真吾は綾乃を迎えにきたのだが、見つけた綾乃は見知らぬ男と向かい合い立ち尽くし、そして泣いている。
「誰や、あんた」
 真吾は不審気に雅人に視線を投げつける。
「もしかして、柴崎真吾さんですか?私は南條雅人と言います」
「ああ、柴崎真吾は俺やけど・・・」
 いきなり自分の名前を言い当てられて、真吾は一掃不審気に雅人をじろりと見つめる。
「ああ、やはりそうでしたか。綾乃がお世話になって、ありがとうございます」
「あんた綾ちゃんの・・・」
 お兄さん、にしては雰囲気が違いすぎるがまさか父親でもないだろうと、真吾は2人の関係を表す言葉を見つけられずに言葉を切った。
「後見人です」
「・・・・はぁ」
 後見人といわれても、一体どういう関係なのかいまひとつわからない。しかも綾乃は今泣いていて、しかも出会いも家出だった。
 それだけを見ても、あまり良い後見人ではないと判断してもいいはずなのだが、雅人本人からはそういう嫌な印象は伝わってこない。
 どうにも状況が真吾には諮りかねて首をひねる。
「綾乃を迎えにきました」
 雅人は当然そのつもりだった。
 ついさっき綾乃を見つけたと報告が入って、取るものもとりあえずここに駆けつけた。報告などではなく、自分のその目で綾乃の姿をちゃんと捉えたかったからだ。
 そして連れ帰るために。
「綾乃―――帰りましょう?」
 雅人の瞳が、不安げに揺れ動く。
「――――僕は・・・」
 ――――帰りたい。
 ――――側にいたい。
 だって大好きだから。
 大好きだから・・・・・
 だから・・・・・・・
「帰りません」
 大好きだから、帰れない。  
 綾乃はきっぱりと言い切った。











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