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「はい、お茶どうぞ」
「ありがとうございます」
 とりあえず立ち話もなんだから、上がって話さないかという真吾の言葉に、雅人と綾乃は今リビングで向かい合って座っていた。
 けれど、綾乃は顔を上げる事が出来なくて、手に持ったホットミルクを揺らしながらじっと見つめていた。
 "帰らない"
 そうはっきりと言い切ってしまったことで、役目を終えたようにホッとした思いと、強い焦りにも似た様な思いが交錯していた。 
「綾乃は、ずっとここに?」
 雅人はとりあえず真吾に顔を向けて尋ねる。
「たぶん、ね。5日前やったかなぁ・・・・駅前の公園で寝てるとこをマメが見つけて」
「そうでしかた。本当にお世話になりありがとうございました。・・・えっと、お一人ですか?」
 案内された場所が一軒家だったので、てっきり家族がいるものと雅人は想像していたのだが、人の気配がまったくしない。
「いや、奥さんがおるけど陶芸家でね、明け方まで起きてたみたいやから今は寝てはる」
「ああ、そうでしたか」
 やはり、男の一人住まいというよりは夫婦の家に居たのだという方がホッとしてしまう自分に、雅人は内心苦く笑ってしまう。
 そんな些細な事を気にしてしまうくらい好きなのに、どうして――――そんな思いが沸いてきて、握り締めた拳に思わず力が入る。
「じゃぁ・・・俺は自分の部屋に行ってるし、話すんだら声かけて」
「わかりました。本当にありがとうございます」
 真吾は真吾なりに雅人を観察して、暴力を振るったりするような輩でもないようだと判断して、とりあえず部外者の自分が席を外す事にしたのだ。
 その真意をわかっているのか、雅人は頭を下げた。
 ――――そして。
「いい人みたいで、良かったです」
「あ・・・・・・うん。真吾さんも今日子さんもいい人だよ」
 綾乃は相変わらず顔を上げれない。
「ちゃんと雨風もしのげていたみたいですね、ホッとしました」
「うん。大丈夫」
 だから、雅人がどんな顔で綾乃を見つめているかも気付けない。
「―――・・・綾乃。・・・ねぇ、どうして出て行ってしまったんですか?」
 雅人が1番聞きたかったその核心に触れる質問に、綾乃の身体がピクリと反応を示した。
「叔母さんと会ったんですよね?」
 その言葉に綾乃ははじかれる様に顔を上げた。
「叔母さん・・・・雅人さんに何か言ったりした?」
 自分がいないにもかかわらず、叔母は何か雅人に迷惑をかけるようなことをしてきたのかと、綾乃の顔が少し青くなった。
「いいえ。そうじゃありませんよ。そういう報告があがってきただけで、私は直接会ってはいないのですが――――やはり何か言われたんですね。話してください」
「・・・・・・え、っと・・・・・・」
 何かは言われた。その言われたことを、やはりちゃんと伝えておいた方がいいのだろうかと綾乃はしばし雅人の顔を見つめて逡巡して。
 思い切って口を開いた。
「叔母さんは、自分の子供を桐乃華に入れたいって。――――文化祭に顔を出すからって。その時、雅人さんに紹介してって言われて」
「そんな事を・・・」
「すいません」
 忌々しそうに顔を歪める雅人に、綾乃は申し訳ない思いで謝罪の言葉を口にした。
「どうして綾乃が謝るんです?綾乃は何も悪くないですよ」
「でも・・・・・僕が南條家にいたから、叔母さんもそんな事言い出したんだし。雅人さんにも迷惑かける事になるかもしれないから」
 綾乃は、自分が南條家に来なければ、桐乃華に進学しなければ、きっと叔母だってこんなことを言い出さなかっただろうし、忙しい雅人にわずらわしい思いをさせる事はなかったと思うのだ。
 全ては自分が身分に合わない待遇を受けたから。
 だから、叔母にもあんな顔をさせてしまう。
「そんな事気にしてたんですか?・・・・綾乃、貴方が気にする様なことじゃありませんよ」
 まさかそんな事が理由で家を出たのだろうかと、雅人が目を見張る。
「ううん。――――僕がいなければ・・・・」
「綾乃っ」
 ・・・・・こんな面倒にはならなかったのに。そう続く言葉は、雅人によってさえぎられて。雅人はたまらず綾乃の側へと駆け寄った。
 足のないタイプのソファに座る綾乃の前に、雅人はそのまま膝を着いて綾乃を見つめる。
「綾乃がいないなんて生活、考えられません。だから、そんな事言わないでください」
 ――――え・・・?
 雅人の手が恐々に伸びて、そっと綾乃の頬に触れる。
「帰ってきてください。叔母さんのことなら何も心配はいりませんよ?」
 俯く綾乃の顔をのぞきこむ様にして雅人が見つめる。
「明々後日には文化祭ですよ?樋口君から衣装が出来てるって聞きましたけど」
 体調を壊して休んでいる事になっている綾乃をいぶかしんで、薫は一人南條家を訪れたのが月曜日の事。
「薫が?」
 不在だった雅人を夜中まで待ち続けていた。
「ええ。綾乃は今体調を壊して休んでいる事になっているんですけど、とても心配していました」
 その時の薫の瞳には、はっきりとした後悔の思いが浮かんでいて、体調不良なんかじゃない、何かがある事は薫には察していた。
 だって、南條家に綾乃がいないのだから。
「衣装はオリジナルチャイナ服らしいですね。どんな物か見せてもらえなかったんですけど」
 綾乃は文化祭には来ますよね?そう、問われて、初めてみた薫のあんな歪んだ顔に、雅人は頷く事が出来なかった。
「どんなデザインなんですか?」
 この際それがどんなものでも文句は言わないから、着て欲しい。
 帰ってきて、文化祭の日にはそれを着ていつもの様に笑っていて欲しい。
「・・・・僕には・・・もう、関係ない事だから」
 小さくか細い声で発せられる言葉に、雅人の願いは届かないと拒絶されてしまう。
「帰って来ては、くれないんですか?」
 よく考えれば、綾乃が初めて、人からの願いを拒否したのではないだろうか?
 いつも、何かを頼めば笑って了承してくれた。
 嫌だ。
 そんな風に口にした事はなかった。
 もっと我侭になってくれたらいいのにと。
 もっと自我を出して、好きに行動して欲しいのにとずっと願ってはいたけれど、その願いがこんな形で実るのはあまりに苦しい。
 それなのに、そう思うのに、綾乃ははっきりと頷いてしまう。
 帰らないと。
 一瞬、雅人の顔が奇妙に歪んだ。それはまるで、行き先を失った子供のように。雅人に訪れた、絶望の瞬間。
 雅人は目の前が真っ暗になる思いがした。
 本当に、生まれて初めて感じた絶望感だった。
 母が死んだとき。
 あの陽子という女と再婚した時。
 どちらもやりきれない思いと、くやしさと、悲しさに襲われたけれど。それとはまったく違う。覆いかぶさってくるような絶望感だった。
「もう・・・・・・私の事は嫌いですか?」
 情けないくらいに震えた声で問うた言葉に、綾乃の身体が初めてビクリとした。ビクリとして、恐る恐る雅人の顔を見つめ返して。
 その瞳がみるみるうちに涙で濡れた。
「綾乃っ」
 雅人は考えるより先にその腕を伸ばして綾乃を抱き締めた。
 ――――ああっ
 ――――ああ・・・・っ。神よ―――――
 言葉よりも雄弁に綾乃の涙は語っていた。
 好き。
 好き。
 好き。
 好き。
 隠しようのない思い。
 それを見て取って、込み上げる安堵とうれしさにより一層力強く綾乃の身体を抱き締めた。
 それは本当にいつぶりだろうかと思う綾乃の温もり。柔らかさ。そして、その香り。雅人はぎゅっと綾乃を腕の中に閉じ込めて、長い空白を埋めるようにその全てを感じた。
「――――綾乃・・・愛してます」
 その言葉に綾乃の瞳から涙が零れ落ちた。
「帰りましょう?あの家へ」
 きっと頷いてくれる、そう確信して放った言葉に、雅人は信じられないものを目にする。―――――綾乃は無言で首を横に振ったのだ。
「何故!?何故ですか!!」
 雅人には、その意味がわからない。
 愛しているのに。
 好きでいてくれているなら。
 どうして出て行こうとするのか。何故帰って来てはくれないのか、雅人にはまったく理解できなかった。
 もう好きではないのだろうか。さっき感じた思いは勘違いだったのだろうかと不安に駆られてもう1度瞳を覗き込むと、やはり間違いない。
 それなら何故?
 わけもわからないで、もう1度抱き締めようと腕を伸ばすと、今度は綾乃がその腕を突っぱねて身体を離した。
「もう・・・9時だよ?雅人さん、仕事行かなきゃ」
 無理矢理作ろうとする笑顔が、痛々しい。
「僕は、ここにいる。帰らない。今ね、バイトも探してるんだ。面接も受けたし、たぶん受かると思う。バイトしてお金溜めて、ちゃんと一人でやってくから」
 震える声で、そんな必死で涙を堪えている顔で言われて、はいそうですかなんて言えるはずもない。
 けれど、どうしていいのかもわからない。
「仕事、行って。もう、帰って」
 言葉が伝わらないのがもどかしい。その心が読めたらいいのに。
「わかりました」
「・・・・・・え・・・」
「私もここに厄介になります」
「・・・・・・・・・えっ!?」
「綾乃と一緒にいたいし帰ってきて欲しいんですが、嫌みたいなので、私がここにいる事にします」
「ちょ、ちょっと待って。そんな、ここは真吾さんのお家だし、そんな勝手な・・・」
 いきなり何を言い出すのかと綾乃が慌てて腰を浮かすと、のんびりとした声が聞こえてきた。
「俺はええよ?」
「真吾さん!?」
「柴崎さん」
「ごめんなぁ。立ち聞きする気なかってんけど、さすがに腹減ってきてちょっと覗きに来たんよ。あ、聞いた言うても、"もう9時だよ〜"ってくだりからだけやから安心して」
 真吾はのんきにそう言うと、キッチンに立ち。
「で、南條さんは朝飯食べます?」
「出来ればいただきたいです。朝から何も食べていないので」
「はいよっと。ほなちょっと待っててな」

 言うが早いか、真吾は手早く料理を作り出し、15分後には3人で食卓を囲んでいたのだった。











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