…12





 ――――どうして雅人さんはあんなことを言うのだろう・・・・
 綾乃は朝の出来事を思い返して、どうしても沸きあがってくる思いが頭を駆け巡っていた。

 午後になって、久保兄が慌てた様子で柴崎家を訪れた。
 今も外で雅人と2人何かを話している。
 仕事に行っていなかったので迎えに来たのだろうと綾乃はホッとため息をついた。ここに住むなんて土台無理な話なのだ。
 綾乃は縁側のいつもの定位置で、体育座りした自分の足先を見つめる。
 ―――――"好き"なんて、嘘はつらい・・・・
 雅人は気付いたはずだ。家と引き換えにするほど自分に価値はないって。そんなのダメだって。だからあの日だって・・・・・
 ―――――なのに、どうして・・・・?
 綾乃には雅人の考えがわからなかった。
 雅人には帰る場所があって、必要とされている場所があって、そこは日の当たる表舞台なのだ。自分とは違いすぎる。雅人自身もちゃんと身分の会った人と結婚しなければならないと分かっているからこそ、自分とは一線を越えなかったはずなのに。
 どうして迎えに来たりするのだろう。
 どうして期待させる様な事を言うのか。
 その答えがちっとも見つけられなくて、綾乃はきゅっと唇を噛んだ。
 するとその横に、よっこらしょっと真吾が座ってきた。
「あ・・・・・すいません、なんだかご迷惑をおかけしてしまって」
「ええよええよ。いつもは静かな今日子との二人暮しやし、たまにはこんなにぎやかなんも何やうれしいわ」
「はぁ・・・・」
 からからと笑う真吾の横顔を、綾乃は困った顔をして見上げた。
「それよりさ、綾ちゃんがずっと待ってた人ってあの人やろ?」
「え!?・・・・・いいえ、僕は誰も待ってないですっ」
 真吾の言葉に、綾乃は慌てたように首を横に振って否定したのだが。
「嘘嘘。綾ちゃんはずっーと誰かを待ってたよ。玄関で物音がするたびに視線を向けてたし、チャイムが鳴ったらいつもビクってしてた。散歩かて、道の向こうをぼーって見つめてる時あったで」
「・・・・・・・・っ」
 ―――――・・・っ・・
 綾乃は真吾に今言われるまで、それらの行為にまったくの自覚がなかった。そんな行動を取っていたなんて。
 ――――待っていた・・・?
 確かに、自分は心の奥底のどこかで待っていた。
 もう1度会いたくて。
 ただもう一度会いたくて。
 今朝だって、本当は何度このまま頷いて帰ってしまおうかと思った。雅人の身体にしがみついて泣いてしまおうかと思った。
 そう出来たらどんなにか良いだろうかと。
「素直になりや」
「―――っ!」
 静かに発せられた言葉が、綾乃の心を突き刺した。
 素直?
 素直になんてなれない。
 なれるはずもない。
 素直になんて、今までなったこともない。なり方もわかんない。
 自分の気持ちなんて一番最後。いつもそうだった。
 お父さんの顔色を見て。叔母さんの、叔父さんの顔色を見て。回りの顔色を見て。いつも1番良い答えを探して来た。
 南條家に行って、初めてそうしなくてもいいよって言ってもらえた。それは僕の宝物だよ。
 でもね、やっぱりそれじゃぁダメなんだと思う。
 きっとこのまま南條家にいれば、叔母の事で迷惑をかける事になるのはわかりきっているし。
 それに、雅人の言葉も嘘だから。
 好きなんて、嘘だから。
 それにね、今回はいつもと違う。
 だって、好きな人の為だもん。
 大好きな人の為だから。
 素直じゃないけど、心のままではないけれど、それでもこれは大好きな人のためだから。その人の事を考えて探した答えだから。
「俺、綾ちゃんの笑った顔、見たことないねん」
「・・・・え?」
 真吾の言葉に、綾乃はゆるく首を振る。そんなはずはない。ちゃんと笑っていたはずだから。
「心の底からの笑顔。見たいわ」
 真吾は笑ってそう言うと、綾乃の頭をぽんぽんと優しく叩いて立ち上がって、戻って来た雅人のために場所を空けた。
「あ・・・・・・・お出かけ?」
 雅人の顔を見て、綾乃は機械的に口を開いたけれど、心の中は真吾の言葉がぐるぐると回っていた。
「いいえ」
「え、・・・仕事は?」
「さぁ」
 雅人はわからないと笑顔を浮かべて綾乃の横に腰を下ろした。
「そんなことより、もう2週間以上もちゃんとこうやって話してなかったんですよ。さっき思い出してみたんです。だから、その2週間分の話をしてください」
 ―――――なんで?
「仕事、行ってくださいっ」
「嫌です」
 綾乃は堪らずに、つい強い口調で言うけれど、雅人の方もはっきりと言い切った。
 ―――――なんで・・・っ
「文化祭の話も、ケーキ作りの話も、衣装の話も、ここに来てからの話もなにも聞いてないんですよ?さ、どれから話してくれますか?」
 拳一つ分開けた、それが今綾乃と雅人の距離なのか。雅人は優しい微笑を浮かべて。そうやって縁側に並ぶけれど。
 ―――――わからない・・・・雅人さんの考えてること、全然わからないよ。
 これ以上優しくしないで?

 優しい嘘をつかないで。


 わかってるのに。
 わかってるのに。



 期待してしまうから・・・・・・・


 心のどこかで、期待してしまうから・・・・・・・・












 次の日の朝、綾乃が目が覚めた時に雅人は柴崎家にはいなかった。代わりの、珍しく今日子がリビングでお茶を飲んでいた。
「おはようございます」
「おう」
「珍しいですね、こんな時間に」
「ああ、さっき焼きあがったんだ」
「へぇー・・・・あ、じゃぁあの、後で見せてもらってもいいですか?」
「ああ、明日には整理もついてると思うし、その頃にでも見においで」
「はい。ありがとうございます。じゃぁ散歩に行ってきます」
「おう」
 今日子は真吾にくらべてそっけないというかなんだか男っぽい。本当に変わったカップルだと思うのだけれど、そんな2人を綾乃はなんだかお似合いだなぁと思っていた。
 二人の間に流れる穏やかな空気が羨ましかった。いつかあんなふうに自分もなれたら・・・そんな、あり得ない幻想を抱いてしまう。
 マメのリードをいつものように握って、ふと家を振り返った。
 ――――もう、来ないのかな?
 姿の見えない雅人。やはりここに厄介になるなんて嘘だったんだ。
 その事にホッとしなければいけないのに、寂しさの方が悲しさの方が先に来てしまう。
 ――――また、来るかな?
 愚かにもそんな風に期待してしまっている。側にいたらいたで辛いくせに、ダメだってわかっているのに、それでも期待している自分に嫌気がさす。
 それでも会いたい気持ちが隠せない。
 どうせ一緒にはいられない。
 ならせめて今日だけでも、今だけでも。そんな風にずるずると思ってしまう。
 あと1度。あと1度。そんな風に。
 ―――――ばかだな・・・・
 綾乃が家の前でリードを握り締めたまましばらく立ち尽くしていると、マメが催促するように綾乃の足に鼻をすり寄せてくる。
「ああ、ごめんごめん。行こう、ね」
 ――――雪人くんがマメを見たら、きっとにっこり笑ってほお擦りするんだろうな。
 お許しが出たのが分かるのか、マメが元気いっぱい綾乃を引っ張って歩き出す。尻尾をふりふりと振って、ご機嫌よく歩くその姿を眺めていると、なんだか雪人の後姿が重なった。
 夏の日、2人で色々出かけた。その時、雪人はいつもうれしそうに跳ねるように歩いていた。
 時々振り返って、にっこり笑って。
 ワンっ。
 ほら、振り返って。やっぱりそっくりだね。
 直人さんはどうしてるのかな?怒ってるかな?――――怒ってそうだよね。
 翔はこないだの数学の再テスト受かったかなぁ?全然出来てなかったけど、大丈夫かなぁ。あれ出来ないと居残り学習させられるって言ってたけど。薫がきっとイライラしながら教えたかな。
 薫もきっと、怒ってるかな。ずっとずっと心配して、見ていてくれたのに。
 ごめんね?
 こんな僕にみんな優しくしてくれたのにね。
 迷惑かけて振り回しただけで終わっちゃったね。
 ごめんね。
 こんな僕で、ごめんね。


 でもね。僕ね・・・・・・・・


 本当は僕だって、もっともっと一緒にいたかった。
 きっと一緒に笑っていられるのは高校3年間だけだろうって思ってたけど。卒業したら、ずっと遠い世界の人になっちゃうだろうなって思ってたけど。
 それでも、3年間は薫や翔と一緒に笑っていたかった。
 夢だった。
 そして。
 あそこに。
 あの家にいたかった。
 あの場所から、学校へ毎日通って、雅人さんの横でずっと雅人さんを見ていたかった。


 けど。


 これ以上、甘えられないよね?


 僕にはそんな価値ないから・・・・・・・・・仕方ないよね。


 もう、十分すぎるよね。



 クゥ〜ン・・・
 マメが足を止めて綾乃を振り返って見上げた。
「え・・・あ、ごめんごめん。考え事してたね」
 クゥ・・・
「どうしたの?マメ、ほら歩いて」
 急に止まってしまったマメに綾乃が視線を向けると、そのマメの身体に何かの影が大きく映って。
 なんだろうと、綾乃が顔を上げると。
「雅人さん・・・・」
 今日もやっぱりスーツ姿じゃない雅人が、顔を曇らせて立っていた。
「・・・また一人で泣いていたんですか?」
 ―――・・・泣いて?
 雅人の言葉に綾乃が自分の頬に手をやると、そこにはい幾筋もの濡れた跡があって、今もまた新しい雫が綾乃の頬を流れ落ちた。
「あの時言いましたよね?一人では泣かないでって」
 南條家に来て、初めてクリスマスを一緒に祝った夜。
 プレゼントがうれしくて。
 何も用意していない事に気付いて、嫌われると怯えた夜。
 それでもいいと、側にいてくれればいいと涙をすくってくれた。
「「泣くときは、私の前で泣いてください。決して一人では泣かないで」 ―――そう言いましたよね?」
 今でもはっきりと覚えているあの夜のこと。
 ここにいても良いのだと。
 ちゃんと受け入れてくれるのだと思えたあの日。
 あの約束は今でも有効なのだろうか?
「綾乃」
 雅人の手がゆっくり伸びて、綾乃の身体を包み込んだ。懐かしい、焦がれるようなふわりとした温かみと雅人の香りの間から微かに匂う――――
「甘い・・・・」
「え?」
「あ、いや・・・・なんか、甘い匂いがして」
 何を言ってるのだと、綾乃はぽつりと呟いてしまった言葉に顔を赤らめら。
「ああ。はい。さっきまでケーキを持っていたんですよ。たぶんその匂いですね」
「ケーキ?」
 その言葉に綾乃は雅人の胸から顔を上げる。
「ええ。松岡からの預かり物です。小豆のミルクレープ」
「あ・・・・・・・」
「それと松岡からの伝言も」
「伝言?」
「すいませんでした、と」
「え!?・・・なんで?僕、謝れるようなこと何も―――」
 綾乃が首をゆっくり横に振る。思い当たることなどなにもない。
「意地悪をしたからだそうですよ」
「意地悪?」
「綾乃が始めてケーキを作った時。直人からは手伝ってやってくれって言われていたのに。松岡は綾乃から"手伝って欲しい"って甘えてほしくて、綾乃が言い出すまで待っていたそうです」
「・・・・・・・・・」
「綾乃がそう思ってるのはわかっていて、でも、その言葉が欲しくて。意地悪をしてしまいましたって。だからね、今度は一緒に、雪人も交えて3人で作りましょうね、って」
 ――――そんな・・・・・・
 直人さんがそんな風に言ってくれてたなんて。
 松岡さんがそんな風に思っていってくれてたなんて。
 全然考えもしなかった。
 でも、よく考えたら松岡さんはすぐそこのテーブルからずっと見ていてくれて、呼べばすぐに手助けしてくれた。
 もっと、ちゃんとその意味を考えれば良かった。
 僕が、臆病で、弱かったから。
 そんな風に思わせてしまった・・・・
「雪人も楽しみにしてます」
「・・・・・・・・」
「今回もね、松岡が雪人の分も作ろうかってって聞いたんですけど、綾乃と一緒に作るのを食べるからいらないって」
 どうして・・・・・?
 どうして――――そんなに優しいんですか?
 綾乃の瞳から新しい涙がぽろぽろと零れ落ちた。
 切なくて、やるせなくて、どうしていいのかわからない。
 好き。
 松岡も。
 直人も。
 雪人も。
 ――――雅人も。
 みんな大好き。好きだよぉ―――・・・・
 立ち尽くして泣く綾乃を、雅人は目を細めた。
「すいません・・・・」
「え?」
「卑怯ですね。松岡や雪人の話を出して訴えるのは・・・・・・」
 それでも、帰ってきて欲しくて、また泣かせてしまいましたね。苦しげに呟かれる言葉と同時に雅人は再び綾乃をきつく抱き締めた。












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