…13





 その腕はあたたかくて優しくて、すがってしまいたいと思うのに。綾乃は腕を突っぱねて、雅人の腕の中にいることを拒否した。
「・・・綾乃?」
「もう――――帰ってください」
 もう十分だから。そう思うのに。
「嫌です。あなたと一緒でないなら帰りません」
「なんで?」
 綾乃は俯いたまま、声を絞り出した。マメにつながるリードをぎゅっと握り締めて、爪が手のひらに突き刺さる。
「好きな人と一緒にいたいと思うのは、いけませんか?」
 ――――なんで・・・・・っ!!
「・・・・好きって、何?好きって――――」
 ――――僕の好きと、雅人さんの好きは違う。
「何って、私は綾乃のことを愛しています。・・・・そう、言いましたよね?」
 雅人が驚きをにじませた声で、思わず綾乃に手を伸ばそうとする。
「違うっ」
「違う?」
 雅人の目が大きく見開かれて、伸ばした手が綾乃の肩に触れる寸前でびくりと止まる。
「僕の好きと、雅人さんの好きは違うから・・・・・だから、僕は帰らない」
 ――――帰れない・・・・・・っ
 綾乃はそう告げると、逃げるように雅人の前から走り去った。
 雅人が綾乃の言葉に呆然としている間に、その背中は見る見るうちに雅人の視界の中で小さい後姿になって、道の向こうに消えてしまう。
 それでも、足は動くことを拒否しているかのように前へは進めない。
「・・・・違う?」
 雅人はポツリと、綾乃の言葉をつぶやき返した。

 ――――ああ・・・そうか。・・・・・そうだったのか。

 綾乃の言葉を何度も頭の中で反芻して、雅人の手が力なくだらりと垂れ下がり、雅人は天を仰いだ。









 こんこん。と、綾乃の部屋の扉がノックされた。
 走って家までたどり着いて、びっくりしている真吾をよそに綾乃は部屋に閉じこもってた。ノックの音を聞いて、鍵がかかっていない部屋の扉を押さえるために、慌てて扉に背をつける。
「・・・綾乃・・」
 響く声は予想通り雅人の声。
「・・・そうだったんですね。その事が綾乃を苦しめていたなんて思いもしませんでした。すいませんでした」
 雅人は廊下に立ち尽くし、反応の返らない扉に向かう。
 ――――私の気持ちを押し付けてしまっていたんですね?
 それを認めることは辛いことだけれど、まさかこんな結末が待っていたとは思いもよらなかったけれど仕方がない。
「だから帰らないって言っていたのですね?私があなたを傷つけていたなんて。本当にすいませんでした」
 ――――私は綾乃を愛しているけれど・・・・綾乃の好きはそうじゃなかったんですね?
 勘違いなのか思い込みなのか。きっと兄のように好きでいてくれた思いを勘違いしましたのだろうか。その事を言えなくて、苦しんでいたのだろうか?
 それを認めることに、雅人は苦しそうに唇をかみ締めた。それでも綾乃のために口を開く。
「一人で苦しめてすみませんでした」
 それでも綾乃の為になるならば仕方がない。
 ――――いつからか、そのことに気付いて悩んでいたのだろうか?
「何も気付けなくてすいませんでした」
 ――――叔母の事をきっかけに出て行く決心をさせてしまったのだろうか?
 雅人の顔が苦しそうに歪められて、やりきれない苦い思いがにじんで行く。
「・・・・ねぇ、違っていてもかまいません。それでもいいから、――――帰って来てもらえませんか?」
 それでも側で見守って行きたいから。関わっていきたいから、帰って欲しい。
 そう思うのに、扉の向こうからは綾乃の泣き声が聞こえてきた。必死で声を殺そうとしているのに、それが出来てないような苦しそうな嗚咽。
「綾乃・・・・」
 雅人は拳を握り締めて、開くことのない扉に押し付ける。
「帰れるわけないっ。・・・・・・・そんなの、無理だよ」
「・・・・・・あやの・・・・」
 泣きながら告げられる言葉に雅人はもう、続ける言葉が見つけられなくて、なすすべも解決策も見出せず扉に向かって立ち尽くす。
 泣いている綾乃を抱きしめることももう出来ないのだろうか?
 そんな思いに胸が締め付けられた。
 違っていてもいい。
 自分が綾乃を愛するように、綾乃にも愛してもらいたかったけれど、それが無理なら仕方がない。
 それでもいいから側にいて欲しいのに。側にいたいのに――――っ
「なぁ」
「・・・え?」
 突然かけられる声に雅人は弾かれるように顔を上げて振り返ると、スラリとした痩せ型の髪を無造作にくくりあげた女の人が立っていた。
「よくわからないんだが、あんたは綾乃が好きなのか?」
「え・・・ええ。もちろんです。愛しています」
 雅人はこの目の前の女性がたぶん今日子という人だろうとは想像がつくのだが、その男っぽいしゃべり方と雰囲気に、あまりに真吾の柔らかな物腰との違いに面食らってしまった。
「・・・・三角関係のもつれか?」
「はっ!?」
 雅人はびっくりしたような声を上げて目を大きく見張った。あまりの言葉に、何を言い返して良いのか言葉が出てこない。
「綾乃は好きな人がいると言っていた。片思いだ、と」
「・・・・・・・・・片思い?」
 何を言っているのだろうか?自分と綾乃は両思いのはずだ。いや、違う、両思いだと思いこんでいたのだけれど、それでも綾乃にほかに好きな人がいたなんて聞いていない。
「これ、綾乃が作ったんだ」
「え・・・綾乃が?」
 今日子は手に持っていたコーヒーカップを掲げて見せた。
 それは素焼きに少し上薬をたらしただけの素朴な物だった。素焼き部分は赤茶けた色で、上薬が深い瑠璃色をして、口から取っ手あたりにかかっている。
「ちょっと形が歪だけど、初めて作ったにしてはまぁまぁだろ」
「ええ」
「なんだか物凄く一生懸命に作っていたから、自分用か?って聞いたんだ。そしたら、あげたい人がいるって。もう会うことは出来ないけど、綺麗に出来たら、今までのお礼をこめて送ろうかなぁって言ってたな。まさか男と付き合ってるとは思わなかったから、コーヒー好きな彼女かって聞いたんだ」
「・・・・・」
「そしたら、彼女じゃない。ただの片思いだって」
「・・・・・そんな」
 雅人は今日子の言葉がにわかには信じられず首を横に振ってはみるものの、頭から冷水でも浴びたような思いに襲われた。
「もしそうじゃないのなら、あんたはそう思わせてたんだろ」
「そんなっ」
 雅人はその今日子の物言いにカチンと来たのかキツイ視線を今日子に浴びせた。雅人には、そんな言われ方をする様な事は思い当たらなかった。
 しかし今日子は顔色一つ変えないどころか、さらに辛らつな言葉を投げかけた。
「見たトコいいとこの人って感じだけ、遊びにしたら悪質だな」
「遊びじゃないっ!」
「本気にしたら、おそまつだな」
「――――っ!!」
 その言葉にはさすがも雅人は言葉に詰まったのか、ポーカーフェイスが常の雅人にしては珍しく顔を赤らめて、今日子を睨み付けるような視線を投げかけて。
「綾乃っ、開けますよ!!」
 押さえている綾乃の力など雅人にはたいした抵抗にもならず、がらりとその扉を開けた。
 扉をあけると、勢いに押されてついたのか、尻餅をついた格好で雅人を見上げる綾乃と雅人の視線がぶつかった。
「どういう事かちゃんと説明してくださいっ」
「え・・・・・」
「話が全然わかりません。そもそもどうして家出なんです!?」
 綾乃は始めてみる雅人の怒った顔とその迫力に飲み込まれるように口を開いた。
「え、っと・・・・南條家にはいれないって思って」
 抵抗するなんて怖くて出来そうにないというのもあるのだが。
「どうしていれないなんて思ったんです?叔母さんの事ですか?」
「・・・それも、あるけど」
「けど?」
「・・・・・」
「綾乃っ!!」
「はいっ・・・・あ。その、雅人さんの事好きだったから――――つらくて」
 綾乃も雅人の気持ちがさっぱりわからなくなっていた。
 好きなんて、てっきり嘘だと思っていた。好きの意味が自分とは違うのだろうと思っていた。違っててもいいと言われて、あんまりだと思って、悲鳴を上げそうなくらいにつらくなったのに。
「つらくて、とは?私は何かつらい思いを綾乃にさせてしまいましたか?」
 今聞いた扉の向こうの会話で、雅人は遊びじゃないとはっきり言わなかったか?
「雅人さんは・・・・その、そういう意味で僕を好きなんじゃないって気付いたから」
 こんなことを言ってもいいのかわからないけれど。
 綾乃は今持てる勇気を必死でかき集めて、両手を重ねてぎゅっと強く握り締めて、口を開いた。
「あの日、雅人さんは何もしなかった。・・・・ホテルまで行ったのに。その時からずっと考えていたんです。どうしてなんだろう、って」
 言葉にした途端綾乃の瞳から涙が零れ落ちた。
 その綾乃の告白に雅人は金槌で頭を殴られたような衝撃を受けた。
 てっきり気付かれていないと思っていた自分の中の迷い。思い。てっきり誤魔化せていると思っていたのに、聡い綾乃には気付かれていたのだ。
 その事実は、はっきりと雅人を打ちのめした。
「綾乃・・・っ」
 雅人は崩れるようにその場に膝をついた。
「雅人さん!?」
 綾乃は慌てて雅人の側にやってきて、心配そうに顔を覗き込んだ。
「すいませんでしたっ」
「え?」
「――――確かに、私はあの時・・・迷ってしまいました。怖かったんです」
 それを言いたくはないけれど、それでも今ここで黙っていられるわけもなかった。
「あの日、急に怖くなってしまった。綾乃を愛していないとかじゃないんです。ただ・・・・南條家の跡取りという地位も綾乃も両方手に入れたくて」
 ちらほらと耳に入ってきていた陽子の影。それに足元をすくわれるようなことになるのではないか、そんな思いが頭をよぎって。
 綾乃の為なら全てを捨ててもいいと思っていたのに。あまりにも醜いことをしてしまった。
「綾乃が家を出てしまって。側にいてくれないとわかって、初めてわかったんです。綾乃が側にいてくれないと、わたしが私でいられないって」
 東京から戻って、綾乃がいないなんて言葉は信じられなくて、綾乃の部屋に真っ先に駆けつけた。扉を開ければそこで笑って待っていてくれるような気がしていて。
 全部嘘だったのだと、いたずらだったと笑ってくれてるような気がして。
 けれど、その姿はどこにもなかった。
「綺麗に整えられた部屋が、全てを拒絶しているように思えて」
 頭が真っ白になってその場に座り込んだ。
「あの日から、仕事がまったく手に付かなくなりました」
 捜索の手はずは整っていますからと言われて出勤して行き、無理矢理に渡される書類に目を通しても、何も頭に入ってこなかった。何が正しい判断なのか、今最善として何をするべきなのか、そんなこともまったく判断できなくなっていた。
「ただ、綾乃に会いたかった」
 せめて夢の中ででもと思うのに、浅すぎる眠りに夢は霧散して。その姿を見ることもかなわなかった。
「ただ会って、抱きしめたかった」
 雅人の声が、少しかすれていた。
 だから仕事も放り出して、自分の足で綾乃を探して歩いた。結局綾乃を見つけたのは、プロの人間だったけれど。
「南條家は私がいなくても、回っていきますよ。でも、綾乃がいないと、私が私ですらいられない。その事にやっと気付いたんです」
 求めていた人がそばにいてくれて、安心してしまっていた。
 失うかもしれないなんてことすら考えていなかった。
「でも、・・・・・・・・もう、遅いですか?」
 傷つけてしまった。
 何よりも守りたいと思っていたその人を、自分の手で傷つけてしまったのだ。
 雅人は、綾乃の様に自信無げな表情を浮かべて、恐る恐る綾乃を見つめた。
「・・・・・・・じゃぁ・・・雅人さんは、今でも僕を好きでいてくれてるの?」
「愛しています」
 好きなんて言葉では足りない。
 愛しているという言葉でも、本当は足りない。
 この世の中で存在する言葉では言い表すことの出来ないくらいに愛している。
「僕は・・・・何もないよ?」
「え?」
 雅人の前に綾乃はぺたりと座り込んで、おどおどと伺うように雅人に言葉を投げかける。
「なんにも、持ってない・・・」
 直人に聞いた言葉。
  "兄貴は綾乃のためなら南条家捨ててもいいって思ってるんだぜ?"
 それは今でも綾乃の心に残っている。宝物だった。それだけでいいと思っていた。そう思ってくれていた瞬間があっただけでも良いと思っていた。
 それ以上なんて望むこともおこがましいと思っていた。
 だから大好きな人のために、最後に出来ることをしようと思った。邪魔にならないように。迷惑をかけないように。
 いなくなるだけ。

 そう思っていたのに―――――



 その先を期待しても、本当にいいのだろうか・・・・・・




 綾乃は、期待と不安を乗せた瞳で雅人を見つめた。











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