…14





 雅人は少し笑顔を浮かべて綾乃を見つめた。
「何もって、綾乃はたくさんのものを持っていますよ。いつもひたむきで一生懸命で、優しくて。いつも相手を気遣ってくれる。・・・・たまにはもっとわがままを言って欲しいとは思いますが」
 そう言う雅人の言葉に、綾乃はそうじゃないと首を横に振った。
「僕は雅人さんには見合わない・・・・」
「綾乃!?」
 雅人は思わず何を言い出すのかと声を乱れさせた。
「雅人さんだってそれがわかったから、何もしなかったんじゃないの?・・・・僕には何もないから、役に立つような家も後ろ盾も何もないから」
 ポロポロと新しい涙で頬を濡らしながら、綾乃がとつとつと尋ねてくる言葉に雅人は胸を鷲づかみにされたように苦しくなった。
 何を悩んだのか、何を考えていたのか、今になってようやくわかった気がした。
「綾乃・・・・綾乃っ」
 何も言えなかった。言葉など意味もなくて、最適な言葉を見つけることも出来なかった。
 自分が追い込んでしまったに違いない綾乃の心を、雅人は自分自身が見失っていたのだと気付かされて、拒絶されても良いとその手を伸ばして綾乃の身体を、腕の中に閉じ込めた。
 何度も何度も抱きしめた身体。それがこんなにも小さくて頼りない物だったんだと、改めて知らされた。
 こんなにも不安に揺れさせてしまったのだと。
「側にいてください。それだけでいいっ。――――今度こそ、今度こそ守っていきますからっ」
 二度と不安な思いになどさせない。何に変えても、絶対にこの小さな体を守ってみせる。
「ほんとに、・・・・ほんとにそれだけでいいの?・・・・・きっと、叔母さんがまた迷惑かけたりするかもしれない」
「そんなこと」
 取るに足らないことなのに。
「それにっ。・・・・・・・・・やっぱりいらないって思うかもしれないよ?」
「綾乃っ!?」
 閉じ込めた綾乃の身体が小さく震えているのが雅人には伝わっていた。抱きしめていてなお、それが収まらないことがこんなにも悲しい。
 その顔をそっと上げさせて、雅人は濡れる瞳を見つめかえすのに。
「もしそうなったら、そのときは・・・・」
 どうしたらいいの?
 また諦めなきゃいけないの?
 そんな綾乃の思いをその瞳は語っていて、雅人に訴えかけていて。その切なさに雅人の心が締め付けられて、痛んだ。
 この痛みを、きっと一生忘れることは出来ないだろうと、雅人感じていた。それぐらいに、悲しくて。
「私が綾乃をいらなくなる事なんてありません。絶対です」
 ずっと一人ぼっちで育った綾乃に、きっと言葉なんてどれだけ尽くしても安心なんてしない。ずっとずっと、態度で語りかけていくしかなかったのに。
 どこかで大丈夫なんて気楽に考えていたバカな思いが、自分の愚かさが、綾乃を不用意に傷つけて苦しめてしまったのだ。
「信じてもらえませんか?もう、私なんて信じられない・・・?」
 ――――頷かないで
 そう切実に思いながら問うた言葉は綾乃に想いが届いたのか、綾乃は静かに首を横に振った。
「良かった」
 全身の力が抜けるくらい、ホッとした。
 雅人はそっと身体を離して、緊張で震える両手で綾乃の頬を包んで顔を合わせる。まっすぐにその瞳を見つめて。
「綾乃を失いたくないんです。これからも、側にいてくれますか?」
 ゆっくりと問われる言葉が、綾乃の頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。
 たくさんの言葉をもらって。
 雅人の思いを知って。
 綾乃の思いはずっとずっと一緒だった。最初から決まっていた。
 あそこにいたい。
 あの家にいたい。
 薫や翔と笑っていたい。
 そして、なにより雅人の側にいたい。
 側にいて。
 大好きって言いたい。
 大好きって言って欲しい。
 でも、
 本当に、本当に良いのだろうか?
 迎えに来てくれたその手を取っていいのだろうか?
 自分の思うように返事を返してもいいのだろうか?
 それは間違った答えじゃないのだろうか?
 ちゃんと正しい、みんなの望む答えと一致しているのか・・・・疑問は後から後から頭の中に湧き上がってくるのに、たった一つ、答えだけが見つけられない。
「綾乃」
 名前を呼ばれて、いつの間にか俯いてしまっていた顔を上げると、そこに大好きな雅人の優しい笑顔を見えた。
 ―――――すき・・・・・っ
 顔を見つめてるだけで思わずこみ上げてくる本当の想いに、きゅっと唇をかみ締めて、また溢れてきそうな涙をなんとか堪える。
 ―――――許されるの・・・・?
「帰りましょう?」
 言葉で心が締付けられた。
 緊張に息もうまく出来なくなる。
 ・・・・・・・・・・いい、よね?
 怖くて、怖くて、頭が真っ白になる。
 手先が冷たくなってしまう。
 ・・・・・・・・・笑っていてくれるのかな?
 本当に、いいのかな?
 綾乃は、緊張にうまく息が出来なくて、ひゅっと喉を鳴らしながら息を吸い込んだ。
 ぎゅ――っっと唇をかみ締めて。
 小さく、小さく――――――――――――頷いた。
「良かった・・・っ!」
 その直後、雅人のホッとしたような呟きが聞こえて。
 まだ笑っていてくれているのか雅人の顔を恐々確認するために綾乃が顔をあげようとするよりも先に、雅人の腕が綾乃の身体を再びぎゅっと抱きしめた。
「ほんとに、よかったぁ・・・・」
 ――――・・・ああ・・・・よかった・・・良かったんだ
 綾乃の肩から力がふっと抜けて、また泣きそうになって涙がこみ上げる。
 ――――間違ってなかった。笑ってくれてる・・・・・
 綾乃はそのときになって初めて雅人の背中に、腕を回した。それでも恐々で、ドキドキしながらぎゅっとすると、それよりもずっと強い力で抱き締め返されて。
 また涙が瞳から零れ落ちて、頬を伝う。


「いやぁ〜良かったっ!!」
 突如いきなり場違いな明るい声を上げて、一部始終をリビングから聞いていたらしい真吾がうれしそうにドアのところに立って笑顔を向けていた。
 拍手までしている。
「あ・・・・・真吾さん。あっ!」
 綾乃が顔をあげると真吾と目が合って、綾乃は思わず恥ずかしくて雅人の腕の中から逃れようと身体をひねる。
 ひねるのだが、雅人の腕は全然解けなくて、綾乃を抱きしめたままに雅人は振り返える。
「・・・・邪魔しないでください」
「ま、雅人さんっ!?」
 まさかそういう言葉が出るとは思っていなかった綾乃は、真っ赤になってさらに腕の中で暴れだす。
「いや〜そんなこと言うたって、さっきから玄関で秘書の人お待ちやし?」
 真吾が親指を立てて玄関のほうを指差すと、雅人はいっそう不機嫌そうな顔をして、その姿を確認するべく廊下へと顔をだす。
「雅人様っ」
 想像通り久保兄だ。
 その顔に不機嫌さを隠す気もない雅人はより一層仏頂面になる。
「何の用です?」
「もう、失礼しますっ」
 綾乃の側を離れる気のないらしい雅人は久保兄に歩みよるそぶりもないので、仕方なく久保兄が真吾に一礼して室内に上がりこんだ。
「お話は無事済んだようですし、もうお戻りくださいっ。既にお昼ですが今からでもいいですから」
 久保兄は膝を折って雅人に詰め寄った。その手にはしっかりと書類とスケジュール帳が握られている。
「嫌です」
 必死の顔に久保兄に雅人は冷たい一瞥をくれただけで言い捨てた。
「雅人様っ!?」
「雅人さん?」
 その珍しく子供のような物言いに、久保兄も綾乃も驚いた視線を向けた。綾乃を抱きかかえるそのしぐさまでもが子供っぽい。
「私は今からゆっくり昼食を食べて、松岡お手製のミルクレープを綾乃と一緒に頂いて、のんびりとした午後を過ごすのです」
 きっぱりはっきりと言い切る雅人に、久保兄は歯噛みするように見つめてみるのだが雅人はまったく無視してしまっている。
「・・・いつ、お戻りいただけるのですか?」
 すでに諦めまじりに問いかける。
「さぁ・・・とりあえず文化祭が終わるまでは、それ以外の仕事はする気にはなりません」
「あ・・・文化祭」
 雅人の言葉に綾乃がピクリと反応を返す。
「参加してくれますか?」
 かなり雅人がうれしそうに見えるのは、きっと錯覚ではないだろう。
「でも、明日だし。もう無理なんじゃないかな・・・」
 行けないものと思って諦めていたのに、行けるらしいとわかると綾乃は途端に行きたくなった。もっとも、もとから参加したかったのだからそれは当然といえば当然なのだが。
「大丈夫ですよ。綾乃が行くのでしたら樋口君に伝えておきますし、ケーキもちゃんと用意させますよ」
「・・・・でも、そこまで甘えちゃってもいいのかなぁ・・・・」
 本当は自分が作らなければならなかったケーキ。
 まったく準備を手伝っていない文化祭。
 それなのにそこへ自分が出向いていっても果たして良いのだろうかと、急に不安に襲われて綾乃は眉をひそめた。
「松岡の心配でしたら大丈夫ですよ。あれはそういう事が趣味なんですから。学校の方は、そうですねぇ。もちろん綾乃に対しておもいろくないって思う人もいるかもしれません。でも、樋口君と朝比奈君は絶対に待っていると思いますよ」
「・・・・・・」
「全ての人に望まれるなんて事ありえません。でもね、たった二人でも心の底から綾乃が学校へ行くことを喜んでくれる人がいるんです。それだけじゃだめですか?」
 優しく問いかける雅人の言葉に、綾乃はハッとさせられた。
「――――ううん・・・・ううん。それだけでいいっ」
 綾乃は目を見開いて首を横に振った。
 いつもいつも皆に悪く言われないように意識してきたけれど。それでもそんな事は全然うまくなんていかなかった。
 きっとそんなこと無理なんだ。
 そうじゃなくて。
「・・・・・たからもの、だ・・・・」
 きっと学校へ行けば、笑顔で迎えてくれる人がいる。駆け寄って来てくれるに違いない。
 それだけでいい。
 それが、1番凄い事なのに。
「綾乃は私の宝物ですよ」
 雅人が、優しい笑顔でそう呟いた。
 その笑顔に、綾乃は胸が締付けられる。
 信じられない。
 こんなこと、怖くなってしまう。
 こんなに幸せでいいのだろうか?
 いつか大きな落とし穴に落ちてしまうんじゃないかって、不安がすぐに頭をもたげてくるけれど。
 やっぱりまだ、不安と心配が交互に綾乃の心を襲ってくるけれど。
 でもね、負けないでがんばりたい。
 好きって言ってくれたから。
 宝物って言ってもらえたから。

 それに見合う自分でいられるようになりたい。
 それで、いいんだよね?

 だって、
 松岡もさんも。
 雪人くんも。
 直人さんも。
 雅人さんも。
 みんなみんな。
「大好き」
 大好き。
「はい。私も大好きです」
 綾乃は、勇気を持ってその手を伸ばして、雅人を抱きしめた。











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