朝8時にまだならない時間。今日は学園ではなく本社に立ち寄った雅人に、朝1番待ちうけていたのは、ニューヨークからの国際電話だった。 まさか無視するわけにもいかない相手に、電話に出た雅人の顔にははっきりと不快感が滲み出ていた。 『そちらは順調そうですねぇ?』 「はい。問題なく進んでおります―――ところで、今朝は何か問題でも?」 しばらく続く時候の挨拶に、早々に電話を切り上げた雅人から口を切る。 『いえ、夏休みも終わって実力テストの時期でしょう?結果はどうだったのかと思って』 「テストの結果ですか?・・・・雪人は確か、48番だったと思います」 雪人は小学生なので、特に学期末に大きなテストなどがあるわけではないのだが、休み明けには学年一斉にテストが行われている。 『そう・・・、上がりも下がりもしないって感じねぇ。やはり家庭教師でもつけようかしら』 「50番以内なのですし、まだ問題ないと思いますが?」 『綾乃さんはどうだったのかしら?』 雅人の答えに不満なのか、声が僅かにとがったように聞こえる。 「綾乃は19番でした」 そして返って来た返事に不満なのかなんなのか、しばらくの沈黙が流れた。 自分の息子よりも、綾乃の方が良い成績だったのが、内心おもしろくないのだろう。 『・・・・・ふ、ん。綾乃サンは勉強が出来るみたいですもんねぇ。――――大学は、どうされるのかしら?そんな話はしているの?』 「まさか。まだ綾乃は高1ですし。そんな話はまったくしませんよ」 そこまで話して、室内に秘書の久保兄が入ってきたのだが、雅人のあまりに不機嫌そうな顔に思わず目を見開いてしまう。 『そうなの?』 「はい。――――あの、それだけでしたら・・・・」 もう切ってもいいかと尋ねようとした途端、それをさえぎるように義母が再び口を開いた。 『まだ用件は済んでいないわ。雅人さん、今度大阪の方でもなにか専門学校をするとか聞いたのですが?』 「はい。そうです」 そこが本題なのかと悟って。さっそくさぐりの電話だったのかと、苛立つ雅人は手に持っていたボールペンをギシリと音がするほどに強く握り締める。 『どうなのかしら?順調に進んでいて?』 「はい。予定通りです」 『そうなの?あらぁ・・・・今度フランスでホテルを作る話が持ち上がっているのは知っているでしょう?』 「はい、聞いております」 『そこを雅人さんに任せれたら安心だわぁ、って思っていたのに』 「ホテルは直人の管轄でしょう。私はこの桐乃華をどう盛り立てていくかを考えたいと思っていますので、その為に全力を尽くしたいと思っています」 絡み付くような義母の物言いに、とうとう雅人の手に握られていたボールペンがバキっと音をたてて折れる。 『もちろんよ。でもねぇ、そのためにも1度離れて世界に出て違うことを体験するのもきっと無駄ではないと思うのよねぇ』 「そのお考えは考えとして、今はこの新しい事業に全力で向かいたいと思っていますので、フランスには違う人材を起用ください」 『そうねぇ・・・、まぁ、この話もすぐにというわけでもありませんからね、そちらが片付いた頃にまたお話しましょう』 「――――記憶には、とどめておきます」 『ありがとう。――――では、もう出かけなくてはいけないので失礼するわね』 そこまで話して、義母は言う事だけ言ったとばかりに一方的にカチャンと電話を切った。 そしてその直後、雅人もイライラに任せて受話器を思い切り叩き付けた。 「っ、雅人様っ」 その仕草にじっと見守っていた久保兄も、思わず声を上げてしまう。 しかし、雅人の顔を見ては次の言葉を告げることもできなかった。それほどに雅人は激しい苛立ちのオーラを漲らせていたからだ。その迫力に、とても口など開けなかった。ただ、呆然と見つめていることしか出来ない。 すると、雅人が搾り出すように、呟いた。 「――――っ、あの女」 「・・・・陽子様ですよね?」 久保兄は、喉の渇きを猛烈に感じながらなんとか口を開く。 「ああ。さっそく探りを入れてきた。大阪の事と――――それと、けん制だな」 「けん制?」 「どうしても私をどこか遠くへ追いやりたいらしい。まだ何も決まってもいないフランスの話まで持ち出してきた」 雅人はそこでようやく椅子にもたれかかって、余裕を取り戻したのか冷静な瞳を久保兄に向けた。 「フランスって例のホテルのですか?」 「ああ。――――私が日本で足場を固めているのが不安で仕方ないらしいな」 「陽子様はやはり雪人様を南条家跡取りに据えたいと思っていらっしゃるんですね」 こんな風に探りを入れられるのは初めてではない。もっと、露骨に妨害されたこともあった。 そして、陽子が後継には雪人をと望んでいるのはもはや衆知の事実だった。 「まぁ、当然といえば当然だろう。血の分けた子供なんだからな」 「しかし・・・」 雅人が後を継ぐのだろうというのもまた、暗黙の了解として回りには認知されてしまっているのだ。 それを今更覆すのは、中々容易ではなかった。 「とにかく、大阪の件を成功させなければ」 今のところ自分が後継者であるという立場は揺らぎようがないと、雅人には確信がある。けれど、何で足元をすくわれるのかわからないのもまた、こういう世界だ。 だからこそ、目の前のこの事業は何がなんでも成功させなければならない。 あの義母の思い通りにだけはなってたまるかと、雅人は自分に言い聞かせるように呟いて、すっかり冷えたコーヒーのおかわりの久保兄に頼んだのだった。 ・・・・・ 日曜の繁華街は本当にどこからこんなに人が溢れてくるのだろうかとげっそりとした気分にさせられる。 もちろん他の人たちはまた回りをみて同じように思っているのだろうが。 しかもなんだか今いる店は変な空間で、余計げんなりさせられるのだ。 「なぁどれがいいと思う?」 意外な事に長谷川はうれしそうに並んでいる服を選んでいる。一緒にいるのはクラスメイトの矢口。そして今から選ぶ服を文化祭で着る事になる綾乃と翔の4人で、コスプレ衣装の並ぶ店へとやってきていた。他の面々は面倒くさがってこなかったのだ。 「全部やだ」 「翔っ」 結局綾乃と翔は女装させられるのだ。そんな衣装を選んでも楽しいはずのない翔はものすごくふてくされ顔をしている。自分が女役なのはどうしても納得出来ないらしい。 「夏川君は?」 「う・・・ん。大人しめなのが・・・」 本当は翔だってこんなところに来たくはなかったのだが、勝手に変なものを選ばれては困ると嫌々ながらもやってきて、綾乃はその翔に付き合わされたのだ。 「これなんかどうだ?」 翔を、そして綾乃の僅かな自己主張さえまったく無視して長谷川が選び出した服は、どこぞのファミレスよりもラブリーなもの。ピンクのビラビラシャツにミニスカート。スカートINには白のこれまたレースビラビラのもので、上からも白のフリルビラビラのエプロン。 「それは、ちょっと・・・・」 綾乃は思わず顔をしかめてしまう。 「アジアカフェなんだったら、衣装もそういうのを意識した方がよくない?」 「あー確かにそうか」 意外な助け舟を出してくれたのは矢口。もともとこの、コスプレ服の店に綾乃たちを連れてきたのはこの矢口なのだ。 全然知らなかったが、アニメ大好きのコスプレマニアだったらしいのだ。服も自分で作ると聞いてびっくりした。そんな才能があったなんて聞いてみないとわからないものだと、綾乃は感心したのだが、こんな機会で知るのではなかったらもっと良かったのにとも思わずにもいられなかった。 「でも矢口が直せるものじゃないとなぁ」 「うん」 そうなのだ。ここでとりあえず服を買って、サイズの微調整は矢口がやるという事になっている。 「そうだ!?チャイナは、チャイナ!!これとかいいじゃん」 長谷川がひっぱりだしたのは、今度はミニのチャイナ服。 「だから・・・・ミニは嫌だってば」 綾乃がげんなり気味に言うと、今度は矢口が口を開いた。 「じゃぁこれは?これで編みタイツでもはいて、メイクしたら結構みれると思うよ」 「え!?」 メイク!? 「お、いいかもなぁ〜色はどうする?合わせるか・・・ばらすか」 「バラしたほうがいいんじゃないかな?タイプも何点か選んで個性を出した方がおもしろいと思うよ?」 「え!?おい??」 どうやら長谷川と矢口の意見が一致してしまったらしい。綾乃と翔の声にはまったく耳をかす事無く、2人は着々とミニからロングまでデザインも色々な6点のチャイナを選び出して、さっさとお会計をしてしまったのだった。 その間、翔と綾乃が口を挟む余地はまったくなくて、結局ついてきた意味はなかったのではと二人は深いため息をつくしかなかった。 月曜日の放課後、綾乃は初めて生徒会室を訪れていた。昼休みに薫から声をかけられて、暇なら手伝って欲しいといわれていたのだ。 初めて入る生徒会室は以外に広くて、正面に生徒会長の座る机が置かれ、その前に長い8人はゆうに座れるテーブルが置いてある。室内の端には応接セットも置かれていて。理事長室もこんな感じだろうかと思うほどの立派な作りになっていた。 「ごめんね、こんなことさせて」 「いえ、全然」 綾乃はその長いテーブルに座って、透から渡された文化祭の入場券チケットの裏に延々生徒会印のはんこを押していた。 「これを入場者に配るんですか?」 綾乃は判を押しながら透に尋ねた。 「配るというか、売るんです」 「え!?売るんですか?」 「はい1枚1000円で」 1枚1000円が高いのか安いないまいちわからない綾乃なのだが、学校の行事の入場でお金を取るという事に純粋に驚いていた。 「買う人いるんですか?」 綾乃にはかなり素朴な疑問だったのだが、透には愚問だったらしい。さも当然のような返事が帰って来る。 「もちろん。近隣の女生徒はみなこの機会を狙っていますからね」 「え?」 「彼氏だよ。みんなこの機会に金持ちのいい男ゲットしようって思ってるんだ」 横で当日構内に貼るポスターの作成のためにパソコンとにらみ合っていた薫が口を挟んだ。 「そ、けっこう携帯番号をもらえるよ。これがまた、みんな自分がいくつもらったかって、その数を競ってたりするんだけどね」 「へぇ・・・・」 ある意味バレンタインチョコの数を競うのと同じようなものだろうかと思い、なんだかまた凄いなと綾乃はひたすら感心してしまう。 「中学ん時は500円だったよな。それもやっぱり寄付?」 こちらは出来たチケットを封筒にいれて宛名シールを貼っている翔。 文化祭のチケットは9月の頭からインターネット上で売りに出しを開始し、それがかなりの申し込みがあり郵送分は昨日締め切ったのだ。 「もちろん。いつも近隣の福祉施設に寄付してるよ」 「へぇ・・・・」 「ところで衣装はもう出来たのかい?」 その透の言葉に綾乃と翔の顔がいっせいに曇る。先日買った衣装を知っているだけにげんなりなのだが、なんだか矢口が燃えてしまいアレンジすると言い出しているのだ。 その最初の衣装合わせが明日なのだ。 そこでもう一度微調整してくるらしいのだが、あれがどんな風にアレンジされているのかと考えるだけでやる気が失せる。 「時間もそんなねーのに、よくやるよなぁ・・・・」 「言えてる。文化祭まで日も少ないし、お互いギリギリだね」 透が苦笑交じりに言った、その時、生徒会室の扉がノックされる。 「はい?」 誰かくる予定だったかと記憶を探りながら透が返事をすると、開けられた扉からは意外な人物が姿を現した。 「理事長」 「あ・・・・」 そこには、雅人の姿があった。 「綾乃―――何してるんです?」 そこに綾乃の姿があったことも雅人には意外だったのか、思わず声をあげる。 「あ・・・、お手伝いです」 「ちょっと人手が足りなくて、いつもの様に樋口君に声をかけたら連れてきてくれたんですよ。文化祭は体育祭ほど準備期間がないので、大変なので」 すかさず透がフォローに入る。 「ああ、確かにそうですね。――――その仕事を増やすようで悪いのですが、予算分配などを書いた書類です」 雅人はなるほどと頷いて、手に持っていた書類を透に渡した。 その動きを、綾乃はなんとなく目で追ってしまう。というのも、同じ屋根の下で暮らしているにもかかわらず、雅人の顔を見たのが随分久しぶりだったのだ。 綾乃は知らなかったのだが、雅人は今大阪に新しく創設する専門学校の準備に追われていて、かなり多忙な毎日を送っていた。 朝は知らない間に出かけていたりする事も多く、夜はいつ帰ってきたのかもわからない、そんなすれ違いの日々。ゆっくり話をしたのはいつだったのか。それすらも遠い過去になってしまっている。 だから、居座り続ける不安感もなかなか拭えなくて。 いつもよりも、感じてしまう距離に、自分からは口を開く事はなんだか躊躇われて。 縋るように見つめてしまっている事さえ、綾乃には自覚はない。 そんな綾乃の視線に、雅人が綾乃の方へと視線を向ける。 「何をしてるんですか?」 いつもの様に優しい笑顔を向けられて、なぜだがホッとする。 「えっと、チケットに判を押してます」 「そこにあるの、全部押すんですか?」 偽物が出回らないよう、この印は毎年新しいのに変えてこうやって手で押されていくのが慣わしなのだが、その量もかなりある。 「はい。で、僕が押したのを翔が封するんです」 学校という場所の所為か、他に人がいる所為なのか、せっかく話をしているのに綾乃は少し緊張気味に言葉を選んでいた。 「なるほど。――――綾乃のクラスは、アジアカフェでしたっけ?そちらの準備はどうですか?」 「はい、順調みたいです」 実際は衣装係が大変なのであって、綾乃は特にすることもなく進み具合もよくわかっていない。 ただ、しゃべるだけで、久々すぎてドキドキしてしまう自分に戸惑うばかりで、どうしていいのかわからなくて、上手く言葉が出てこない。 「明日衣装合わせがあるらしいですよ」 そんな綾乃の気持ちが分かるのか、透が口を挟むと、雅人の眉が器用に持ち上がる。 「衣装合わせ?衣装など着るんですか?」 「はい。あの、チャイナ服を」 綾乃がそう告げた時、今度は雅人の顔が不愉快気にしかめられる。 ――――え・・・・? チャイナ服はまずいのだろうかと、綾乃が不安に駆られてしまうのだが、雅人は特になにも言うことはなく。 「そうですか。当日は私も覗かせてもらいますね。――――では、失礼します」 後半はみなに向けて言って、雅人はそのまま部屋を出て行った。 綾乃はその閉まる扉に目を向けて、追いかけて行こうかと少し逡巡したのだが、目の前にあるチケットはまだ山積みで、しかもここは学校内だ。 何度か視線をさまよわせはしたが、結局綾乃は立ち上がる事はなかった。 |