…5





 ――――どうしよう・・・・あのままじゃぁ絶対に持っていけない。不味すぎる。
 綾乃はベッドに仰向けになって天井を眺めながら考えていた。昨日から綾乃の思考は、ずっと同じところを堂々巡りしている。
『松岡に手伝ってもらえば良かったのに』
 雪人は軽くああいったが、なんだか綾乃にはその一言がどうしても言えなかった。
 ここにいてもいいって思えてる。
 みんなに優しくしてもらって、みんなを好きだって思えてる。
 凄い感謝している。
 雪人に何かをしてやることだって、役に立ててうれしいって思えてる。
 嫌われてる杉崎にだって、声をかける勇気はあるのに。

 綾乃は天井に向かってその手を伸ばし、手の甲を見つめる。

 どうしてなんだろう。

 その一歩が出ない。

「はぁ・・・・」

 その一言がどうしても喉にひっかかって口から出ない。

 今は嫌われていないから、ちゃんと認めてくれているから、だからもっと認められるようになりたい。
 面倒をかけて嫌われるようなことをしたくない。
 そんな思いが、日増しに綾乃の中でどんどん大きくなっていく。
 こんな風に思いだしたのは、いつ頃からだっただろうか。がんばらなきゃ、がんばらなきゃって意識しないうちに、自分に言い聞かせていた。

 やっとみつけた居場所。

 そこを失くしたくて。

「はぁ・・・」

 綾乃はまとまらない頭を抱えて、再度ため息をついて首をめぐらした。
 その時ふと、本棚に置かれた古びたアルバムが目に入る。

 ――――そうだ。

 去年の今頃、僕はどうしていいのかさえ分からないで、いつもこんな風にあの家の床に寝転んで天井を眺めていた。
 先の事が見えなくて。
 行き場がなくて。
 居場所がなくて。
 自分の存在がわかならなくて。
 どうしていいのかわからなくて、真っ暗な中にいた。

 寂しいとも、
 悲しいともわからならいで、
 そんな気持ちはどこかに置き忘れて、
 ただ不安だった。
 存在価値もわからなくて。
 生きていていいのかさえわからなくて。


 なんか、凄く凄く遠い事のように思えるけれど、あの日々からまだ1年もたっていないんだと、改めて思ってしまった。
 なんだかアッという間の日々で、なんだか遠い過去のようなきがしていたけれど。

 ――――ちょっと色んな事を望みすぎているのかもしれない。

 雅人との事だって本当は先に進みたかった。そうすれば、繋がっている細い糸がより確実になるような気さえして。そんな思いは、卑怯で汚かったのかもしれない。
 だから、拒否されたのかもしれない。

 届くと思っていたのに。

 ――――あ・・・・・届くと、思えてたんだ。

 自分で思って、綾乃はその出てきた言葉に驚いてしまった。いつの間にかどこからか、そんな自信が持てている自分に、綾乃はちょっとおかしくなってくる。

 1年前の今頃は、誰かに好きになってもらえるなんて想像もしていなかった。自分は一生、誰からも好きになってなんてもらえないんだろうと思っていた。
 何もかも、全てを全部諦めていたのに。
 僕には与えられないものだって。

 そうだ、ちょっと浮かれすぎているのかもしれない。
 そんなにたくさんのものが手に入るはずないのに。


 僕になんて、手に入るはずがないのに――――――





「綾乃?入るぜ?」
「・・・あっ、はい」
 天井を見上げてどれくらいボーっとしていたのだろうか。直人の強い声に我に返って、綾乃は慌てて上体を起した。
「なんだ、寝てたのか?」
「あ、ううん。ちょとぼーっとしてて・・・・・・」
「いいか?」
「もちろん。どうしたの?」
「いや、ケーキ失敗したって聞いて。落ち込んでんじゃねーかと思ったんだけど、当ったな?」
 直人は綾乃の顔をみて、苦笑を浮かべてその頭をくしゃくしゃとかき回す。
「・・・ん。ちょっとどうしようかと」
「すっごい不味かったらしいじゃん」
 直人はどっかりとベッドに腰をおろして面白そうに笑う。
「何、どうしても一人でやりたいのか?」
「え・・・・そういうわけじゃないけど」
「じゃぁ、なんで松岡にお願いしねーの?」
「え・・・・」
「そう言ってくれんの、待ってると思うぜ?」
 直人は目を細めて綾乃を優しくみつめる。
 ――――待ってる・・・・・?
 その言葉の意味がよくわからないと綾乃は困ったように笑って直人を見上げる。
「綾乃だって雪人に頼られるの、悪い気しないだろ?」
「うん」
「それと同じって事だろ」
 ――――同じ・・・・?
 同じって何だろう?だって雪人くんは子供で、回りが助けてあげるのは当然だし。
 僕とは立場が違うでしょう?
 綾乃は言われた言葉をなんども頭の中で繰り返しながら、その意味を知ろうと直人を真っ直ぐに見つめた。
 けれどうまい答えは出てこない。
「わからない」
 綾乃は呆然と言葉をつむいだ。
 僕はもう子供じゃなくて、なんでも与えてもらえる存在じゃない。
 わからないと呟く綾乃に、直人は困ったような顔を浮かべて綾乃を見るので、綾乃は余計に悲しくなってくる。
 ちゃんと出来ていないんだと思って、どうしていいのか余計にわからなくなってしまう。
 認められないと、きっとここにもいられなくなっちゃうのに。
 綾乃はなんだか凄く情けない気持ちになって、どうしていいのかわからなくて直人の視線を避けるように俯いてしまった。
 その綾乃の頭を抱え込むようにして、自分の胸へと引き寄せる。
「もっと、甘えろよ・・・・」
 なんと言っていいのかわからないもどかしい思いに、直人の不器用な言葉は小さな呟きになって口から洩れるけれど。
 きっと、甘えるなんて事、綾乃にはわからないに違いなかった。
 もっと上手い言葉があればいいのに、それをみつけられない直人は、何度か口を開きかけても言葉にはならず、ただ無言で抱き寄せるしかなかった。






・・・・・






 綾乃は2学期になっても相変わらず電車通学を好んでいた。
 その日ももちろんいつもと変わらない時間に南条家を出て、駅に向かいいつも乗り込む場所へとホームを歩き出す。が、その定位置まで3メートルほど残して、――――――ビクリとその足が止まった。
「おはよう」
「・・・・・・・」
 一瞬何かの冗談かと綾乃は思った。
 電車の喧騒もアナウンスも何も耳に入ってこなくなって、頭が真っ白になっていく。鞄を落とさなかった自分を褒めてあげたいほどに、身体が震えていた。
「綾乃くん?おはよう」
「・・・・・・・おはよう、ございます。――――叔母様」
 もうきっと会う事なんてないだろうと綾乃はどこかで思っていた。何故、そんな風に思えていたのかすらわからないけれど、どこかで確信めいたものだったのに。
 それはもろくも崩れ落ちた。
「そんなに吃驚することないじゃないの?貴方が元気にやっているか少し見に来ただけなのに」
 叔母がゆっくりと笑った。
 その顔を見ていたくないのに、綾乃は目を離す事が出来ない。喉が急速に渇いていくのがわかる。
「・・・・僕に・・・なにか?」
 擦れた声でそういうのが精一杯だった。おかしいくらい、声が震えている。
「何っていうほどの事もないんだけど。今度文化祭があるのよね?」
「・・・・はい」
「体育祭には何故か行く事が出来なかったけれど、今回は是非行かせてもらうわ」
 叔母は座っていた椅子からゆっくり立ち上がって、綾乃の正面に立つ。そして、真っ直ぐに綾乃に視線を向ける。
 その視線にさらされて、綾乃はこの顔が嫌いだったことを急速に思い出した。
 いつも、こんな風に見られていた。
 見下すように。
 哀れむように。
 さげすむ様に。
 この視線にさらされるだけで、頭の片隅に無理矢理押し込めていた記憶が、まざまざと蘇ってくる。
「うちの子達もね、是非桐乃華を見たいって言ってるのよ」
「・・・はい」
「上の子もね、来年受験なの。是非桐乃華に行かせたいと思ってるわ」
「・・・・・」
 綾乃が知る限り、長男は決して勉強をする方ではなかった。あのレベルでは桐乃華の受験に合格するのは難しいのではないだろうかという思いが綾乃の脳裏をよぎる。
 それが顔に出てしまったのだろうか?
「っ、ひぃっ・・・痛い」
 久々に思い出す痛みだった。
 まだ半袖の制服で、さらされた腕に思い切り爪を立てられた。その痛みに思わず綾乃の瞳に涙が浮かぶ。
 その小さな痣が、久しぶりだった。
 幸せすぎて、そんなものに悩まされていたことも忘れかけていたのに。
 1年もたたない過去は、完全に忘れるのは近すぎる。
「勉強はなんとかなっても、家柄はどうしようもないのよ?あなたみたいな子が桐乃華に通って、うちの子が通えないなんてあるはずがないでしょう」
「・・・・はい」
 テストの度に綾乃の方が成績がよくて。いつもそう言われていた。今考えるとそれでもがんばったのは、綾乃のわずかな意地だったのだろうか。
「文化祭には南條さんもいらっしゃるのよね?」
「・・・・たぶん」
 綾乃はじくじくと痛む腕を押さえて、もう顔を上げることも出来ない。
「そう。是非ご挨拶したいわ。もちろん紹介してくれるわよね?」
「・・・・・・イッ!」
 今度は押さえた手のひらに爪を立てられて、堪えきれない涙がぽたりと落ちた。
「返事もできないの?そんなんで南條さんにご迷惑かけてないでしょうね?」
「はい」 
「本当に、相変わらず愚図ねぇ」
「ひぃっ・・・」
 今度は、半袖のギリギリくらいの場所をつねられた。
「こっちはなんの義理もない貴方を育ててきたのよ。それくらいするのが、一般常識でしょう?」
「っ・・・痛」
「返事」
 さらに指に力を込める。
「・・・はい」
 震える声で返事をして、やっと納得したのか叔母の手が離れる。
「わかってくれて良かった。じゃぁ文化祭の日にね」
 叔母は満足したのか笑顔を浮かべて、すれ違いざまに綾乃の肩に手をポンと置いてホームの階段奥へと消えていった。
 綾乃がふと気付くと、ベンチに腰を下ろしていた。いつ、どうやって座ったのかまったく記憶にない。
 いったい何台の電車を見送ったのだろうか?それすらも、わからない。
 まったく回らない頭で、ただ機械仕掛けのように腕にはめられた時計に目をやると、1限目も終わろうとしている時間だった。
 それからようやく、学校へ行かなければと思って――――行きたくないと思って、また何台も電車を見送って。
 あまりに長い時間そこに座り続けていたので、とうとう駅員の人が不信に思ったのだろうか。その近づいてくる気配に綾乃は反射的にビクリと身体が震えて、考える前に、目の前に来た電車に飛び乗った。
 結局、登校したのは3限目が終わりを告げた時だった。
「どうしたの!?てっきり休みなのかと・・・」
 ふらりと現れた綾乃に、薫は驚いた顔をして近寄ってきた。
「あ・・・、なんか駅で急に気分が悪くなちゃって。ぼーっとしてた」
 上手く作ることも出来ないぎこちない笑顔を浮かべた綾乃に、思わず薫は不審気な視線を向けたのだが、口を開く前に4限目の始まりを告げるチャイムが鳴り響いた。
 けれど、そのすぐに始った4限目の内容は綾乃の頭には何一つ入ってはこなかった。
 別に何かを考えていたわけでもなかった。何も考えられなかった。
 頭は真っ白だった。
 ただザクザクと告げる腕が痛が、朝の出来事が夢ではなかったのだと知らしめてきて、綾乃は思わず自身を抱き締める。
 言いようのない不安が、綾乃ののしかかってきていた。
 南条家に来て、みんなに優しくされて受け入れられて、学校も順調で、居場所を見つけたように思っていた。
 けれど、全て幻想だった―――――?
 結局は受け入れられない。
 思い出される、あのホテルでの夜。
 そうして、やはり自分ではダメなんだと、そんな思いに納得している自分がいた。
 この9ヶ月は、信じられないくらいに幸せで優しい時間だった。―――――――いや、幸せ過ぎた。
 言われたのに。
 親に捨てられた子だと。
 引き取り手がないから、仕方がなかったと。
 誰も、望んでいないと。
 必要ないんだと。
 見えない物のように扱われて、
 そこに存在しなくていいものだとされて。
 どうして忘れていたんだろう。
 どうして、忘れようとなんてしてきたんだろう。
 それが事実なのに。
 踏み出せなかった一歩。
 届かなかった想い。
 そんなの、当たり前だったんだ。  











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