…6





 コンコン。夜中になって小さくノックされる音に続いてそっと部屋の扉が開かれた。
「綾乃・・・。寝てしまいましたか」
 雅人が小さく綾乃を呼びかける。けれど、ベッドの上の膨らみは何の反応も示さない。
 それでも雅人はそっと室内に体を滑り込ませてベッドの傍らに膝を折る。そっと手を伸ばして布団の隙間から見える綾乃の髪に手を差し入れて、優しく撫でた。
「・・・・・何があったんです?――――今朝直人から電話があって、ケーキの事も聞きました。是非私も味見したかったです、雪人はずるいですね」
 雅人の目が切なそうに細められて、暗闇に浮かぶ綾乃のシルエットを見つめる。
 しばらく仕事に追われていて、ゆっくり話す事も出来ていなかった。それでも時折見る綾乃はいつも幸せそうに笑っていたから、安心していたのに。
 違ったのだろうかと、急に不安になってしまった。
「・・・・・・・・・・・おやすみなさい」
 何の反応も返さない綾乃に、それ以上の言葉を持っていなくて雅人は消え入るようにつぶやいて。
 早く帰って来る事も出来なかった事に落ち込んでしまう。義母との水面下の駆け引きは、雅人の神経を想像以上にすり減らされていて、回りを見回す余裕がなくなっている。
「そんな事、いいわけですね・・・・・」
 反応のない相手に言い訳を繰り返していても仕方がない。雅人は小さく息を吐いて、少し肩をおとしてまた静かに部屋を出て行った。
 カタンと扉の閉まる音が小さく響く。
 その音を綾乃は布団の中から聞いていた。
 ――――きっと、遅刻した事も聞いたんだろうな・・・
 綾乃は、小さく息を吐いた。息を詰めるようにして潜んでいたから。
 寝たふりを、気づかれなかっただろうか?心配にはなるけれど、今はうまい言い訳も誤魔化しもできそうになくて、今は雅人の顔を見るのが辛かった。
 恥ずかしかった。
 バカみたいに、身の程も知らない言葉を告げて。
 なんて愚かだろうと思われているに違いない。
 遅刻したことも、きっと怒ってる。
 連絡もしないで遅刻なんて、罰せられる事だから。
 布団の中で震えて一人泣くしか出来ない綾乃には、もう好きだと告げられた言葉も、優しかった時間も、遠く過ぎ去ってしまっていた。
 いや、すでにもう夢の出来事として、片付いてしまったのかもしれない。
 いい夢を見たんだ。
 そんな風に。
 目を瞑っても、浮かんでくるのは暗闇だけで。
 もう、夢の時間は終わったんだと、その暗闇が告げていた。
 生徒会長の話だとチケットは一般に売られている。叔母たちが文化祭に来ることを拒む事は出来ない。
 その日、確実に彼女らは学園に来るだろう。
 そこに自分がいる?
 そんな光景は、到底想像出来ない。
 絶えられない。
 そこで笑っていられるわけがない。
 回りはどんな瞳で見るだろう?
 あの人は、なんて言葉を投げかけるんだろう?
 恐くて。
 それを想像するだけで、吐きそうに胃がせりあがってくる。
 惨めな自分を、見られたくない。
 嘘だったけど。
 きっと学校での楽しかった時間も、嘘でしかなかったけれど。
 笑いあった時間も。
 友達として過ごした時間も。
 それでも、綺麗なままで。
 綺麗な嘘のままで、終わりたい。

 そして次の日、綾乃は学校へ行く事が出来なかった。

 日の光に照らされた自分の腕が数箇所、青黒く変色していた。
 その腕を見て。
 半袖が着れなかった昔が、鮮明に蘇って来て。
 駅に向かう事は、到底出来なかった。
 起き上がることすら、出来なかった。
 朝起しに来た松岡に、なんとか気分が悪いと誤魔化す事はできた。青い顔色と、昨日の遅刻の理由ももっともらしくなって。
「大丈夫ですか?お昼は粥にでもしましょうか?」
 寝込んでいる綾乃を気遣って松岡が尋ねてくれるのだが、綾乃は力なく首を振った。
「すいません。今は、何も食べれそうになくて」
 胃が痛くて。
「そうですか・・・しかし、朝も食べていませんし。何か一口だけでも――――果物でも剥きましょうか?」
「・・・いえ。本当に」
 そんな言葉にも綾乃は力なく首を振って申し訳なさそうな顔になった。今は何も口にしたくなかった。食べてもたぶん、吐いてしまうだろうから。
「熱はないようですし、どうしたんでしょうね。医者を呼びましょうか?」
 一向に顔色の良くならない綾乃に、松岡は心配そうな顔を向ける。
「いえ、寝てればよくなると思いますから・・・」
 そんな風に優しくしないで。
「そうですか?」
 どうしていいのかわからなくなるから。
「はい」
 僕にはそんな価値、ないのに。
「では・・・・、でももし何かあればすぐに呼んでくださいね?」
「わかりました」
 ごめんなさい。
 こんな僕で、ごめんなさい――――






・・・・






 がっゃん!!
 いきなり大きな音をたててコーヒーカップが砕け散った。雅人が伊藤から電話を受けて思わず床に投げつけたのだ。
 綺麗に敷き詰められた絨毯に、黒いシミがみるみるうちに広がっていく。
「何事ですか?」
 物音に驚いた久保兄が慌てて扉をあけて、その惨状に目を見開く。
 雅人は久保兄の目の前で、受話器を叩きつけ、また激しい音が室内に響く。
「伊藤はクビにして別の人間を差し向けてくれ」
 その言葉はまさに猛獣が唸るように、しぼり出された。
「何かあったんですか?」
 雅人とは長い付き合いでもあるのにかかわらず、久保兄はその様子に思わず顔を青ざめた。そして伊藤といえば、綾乃の叔母一家を見晴らすために回りの張り込ませていた者だ。
「黙って、もっと優秀な人間に変えればいいんだ!!」
 こんな風に頭ごなしに命令する事は、滅多にない事だった。それだけ、雅人が頭に来て苛立っている証拠だろう。
 雅人はまだ怒りが収まらないのか、机に思い切り拳を打ちつけた。
 鈍い音が、響く。
 昨日の朝、見張っていた本人の叔母の尾行に失敗してまかれていたのだ。しかも、バレないだろうとその報告もしてこなかった。今こちらから電話をかけてみて、問いただしてようやく報告してきたのだ。
 もし昨日の段階で報告があがっていたならば、昨夜無理矢理にでも起して話をしたのに。抱き締めてあげれたのに。
 息を殺して布団に包まる綾乃に―――――っ
 ガン!!―――ガンッ!!
 机に打ち付ける拳は、痛みを訴えてくるけれど、それでもきっとこの心の苦しさを慰めてはくれなかった。後悔の思いを拭い去ってはくれなかった。
 今更ながらに、あの夏の終わりに直人に言われた言葉が、胸を突く。
 あの後から、どうしても戸惑うようになったあと一歩。
 そして襲ってくる後悔の思い。
 昨日の朝、綾乃と叔母の間になんらかの接触があったのはもう間違いない。そしてそれが綾乃にとって最悪の精神状態にさせてしまったのだ。
 雅人は唇を噛み締めて空を睨み付けた。
 そして内線を押して久保兄を呼ぶ。
「なんでしょうか?」
「今日の出発をなんとか明日にできないか?」
 今度大阪で造る専門学校のことでトラブルがあり、午後の新幹線で急遽大阪出張が決まってしまったのだ。それをなんとか明日早朝出発にできないかと雅人は思ったのだが。
「無理です。今夜向こうの知事と会う約束を取り付けてあります。その前に向こうの責任者の話も聞かなければなりませんし」
「そこをなんとかするのがお前の仕事だろっ」
 食い下がる雅人に、久保兄の返事は冷静なものだった。
「雅人様。今が一番大事な時期なんです。ここさえ乗り切れれば軌道に乗せれます。今ここで頓挫すれば、喜ぶのはあの人だけですよ」
「―――」
「あの人に勝つことが、ひいては綾乃様を守る事にもなるのではありませんか?」
 その言葉に、しばらく久保兄を睨みつけていた雅人も、どうしようもない状況に奥歯を鳴らし、今度は電話をかけるためにその受話器をとった。

 その午後、雅人から電話をうけた直人が南条家に顔を出した。

「綾乃寝込んでるって?」
 その顔にも、忙しさからか多少の疲労の色は滲んでいる。
「はい。なんだか凄く顔色も悪いですし、朝から何も食べてません」
「まじで!?・・・・・・はぁ・・・」
 これは思っていたより重症らしいと直人は深いため息をついた。雅人が忙しすぎて、すれ違っているのは直人にも十分わかっている。
「昨日も駅で急に気分が悪くなったとかで大幅に遅刻されたようですし」
「・・・・・ああ」
「何かあったのでしょうか?」
 心配げに顔を曇らす松岡を、直人は真っ直ぐに見据えた。電話で、大体のことを直人も聞いていた事情は察している。もちろん義母と雅人の事も。
 直人が時折見せる、冷めた視線が松岡に向けられる。
「松岡はさ――――味方?」
 口元が、自嘲気味に歪む。
「私は、雅人様と直人様の味方ですよ。お2人には幸せになっていただきたい」
 直人の視線にも臆する事無く、いつもの穏やかな微笑を松岡は崩さなかった。
「へー・・・・俺も入ってるんだ?」
 けれど、言われた直人は一瞬顔が奇妙に歪んで。何故だろうか、その顔が泣き出すのを我慢している子供の様にも見えた。
「もちろんです」
 松岡は相変わらずの顔色だけれど。その頬が微かに揺れているように見えるのは気のせいだろうか?
 つむぎ出される言葉には、なんの迷いも見られないのに。
「じゃぁ綾乃の心配なんかしなくていいじゃん。それに―――――俺は、無理だろ?」
 直人に、珍しく自虐的な笑いを浮かべて、松岡の返事を待つ前に綾乃の様子をみていくべく廊下へと姿を消した。
 この思いは届かないことを知っているから。
 時々、気が狂いそうになるくらいに苦しくて、切ない。きっと兄貴が綾乃を思う気持ちよりも揺るがない想いの自信があるのに。
 拒絶する方も揺るがないから。
 今ちょっと泣きそうなのは気のせいじゃない。

 ここを出たらもっと楽になれると思っていたのに、会えない分だけ切なさが募って、自分で自分を追い詰めているのを嫌でも直人は自覚させられていた。
 考えないように、僅かな隙間も惜しんで無理を承知で仕事を詰め込んで。
 それでも、忘れられない。

 だからがんばってしまうのかもしれない。綾乃と雅人の事に。幸せになって欲しいと思うから。それで何かを許されるわけでも、何かを得られるわけでもないのに。


 まるで免罪符のように、思ってしまう。

 直人は大きく息を吐いて―――――綾乃の部屋の扉を開けた。  














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