「綾乃―大丈夫か?」 直人は、声は一応かけながらも遠慮なくドアを開けて中に入った。 けれど、返事はない。ベッドには布団をすっぽりかぶった綾乃のふくらみがあって、それはピクリとも動かない。 直人は容赦なくそれをめくった。 「あっ・・・」 小さく丸くなっていた綾乃が、布団を剥がされて小さく声を漏らした。 「やっぱ、たぬきか?」 しっかり起きている綾乃を見下ろして、ずる休みを見つけたように軽く睨んでみながら、どかりとベッドの端に腰をかけた。 「何があった?」 直人はあえて言葉を飾る事無く、単刀直入に切り出した。 「・・・・何も」 綾乃の方は、真っ直ぐに見下ろしてくる直人の視線を見つめ返す気には到底なれず、上体を起して枕にもたれるように体育座りをして、その膝小僧を見つめた。 「何もないって顔じゃないけどな」 口を閉ざす綾乃に、直人は苦笑を浮かべて肩をすくめて視線を巡らす――――― 「っ!お前、この手どうしたんだ!?」 途端に目に入った腕と手の甲にある青い痣。思わずびっくりしてその腕をつかもうとすると、綾乃がその前にもう一方の手でその傷を覆い隠す。 「ちょっと、打っただけっ」 「打ったってどこで?」 「え、駅で。腕はたぶん手すりにぶつかった時で。こっちは、サラリーマンの人の鞄にぶつかった時だと思う。痛かったから」 まるで用意していたようにしゃべる言葉に、直人は苛立ちを滲ませた視線を綾乃に向けた。 嘘だ。 そう言ってしまうのは簡単だけれど、それよりも綾乃から話して欲しかった。 何故何も話してくれないのか、相談してくれないのか。それはまるで信用されていないようで、悲しくもなってくる。 この1年弱の月日が、無駄だったように思えて。 「本当にそうなんだな?」 つい詰問口調になってしまったのは、直人がまだ青い所為なのか。 「・・・・・」 けれどそれは逆効果でしかなくて、余計綾乃の口は堅くなってしまう。 「わかった。俺に言えないっていうならそれでもいい。でも、兄貴には本当の事を言ってくれ」 綾乃は思わず唇を噛んだ。直人は、強張った綾乃の顔色に苦しげに眉を寄せて、その膝に手をぽんと乗せる。 何かに阻まれて、届かない言葉がもどかしい。 「兄貴は綾乃のこと、ほんとに大好きだからさ。ずっとずっと俺は見てたから知ってる。兄貴なら大丈夫だ。なんだって受け止めてくれる。だから兄貴にだけは、本当の事を話して欲しい」 その真っ直ぐな言葉に、初めて綾乃の瞳が揺れておずおずと直人を見上げ、そして何かに逡巡するように瞳を揺らして。 微かに、本当に微かに首を横に振った。 「あのな、何の心配してるかわかんないけど、兄貴は綾乃のためなら南条家捨ててもいいって思ってるんだぜ?」 綾乃の負担にならないように、直人は苦笑気味の言葉を続ける。 けれど、直人は自分でいいながらも、不安な思いは心の奥底にくすぶってはいたけれど、この際それは無視したのだ。とにかく前へ進むために。 その思いは正しかったのか、綾乃の瞳が驚きに大きく開かれて直人を見つめてきた。 「・・・・・・・・・捨てて?」 呟くように吐き出された言葉。 「そう。だからっ」 「だめ!―――そんな、そんなのだめ!」 大丈夫なんだ、と直人は言葉を続けようとして、綾乃の予想外の強い反応に言葉を飲み込んだ。 「綾乃・・・・?」 ――――だって、僕にそんな価値ないもん。 「だって、そんなのだめでしょ?」 「ん・・・まぁ、その現実としてっていうかその覚悟もあるって事だよ」 直人は、刺激が強かったかと慌てて励ますように膝に置いた手をぽんぽんと叩く。けれど、綾乃の中には一種絶望にも似た想いが激しく渦巻いていた。 「だから、な?」 直人にしても、叔母と会ったんだろ?といえれば簡単なのだが、そうすれば尾行をつけたり調べたりしている事も言わなければ説明がつかなくなる。 だからこそ、綾乃からしゃべる方向へもっていかなければならなかったのだが、直人には任が重すぎた。 直人はそれを雅人に託そうとしたのだ。 「・・・・ん」 その思いは成功したかのように、綾乃は微かに笑顔を見せて、直人をホッとさせた。 けれどその笑顔は直人の想いとは違うものだった。 ――――そんな風に言ってくれただけでもうれしい。 だから、笑顔。 きっと一瞬でも本気で思ってくれたんだろうと思えるから。 そして、なんで気付かなかったんだろうかと、自分がばかすぎて笑ってしまう。 本当に、幸せすぎていろんなこと忘れていたんだ。 雅人は南条家の跡取りなのだ。 ――――僕に本気になんてなるはずがない。ううん、違う。本気だった時もたぶんあったけど、それがダメなんだってちゃんとわかったんだ。 だから、だめだったんだ。 あの日あのまま、しなくて良かった。もししていたら、雅人さんの未来を翳らすところだった。 「そっか・・・・良かった・・・」 小さな呟きは、直人の耳には届かなかった。 届いたとしても、きっと意味まではわからなかっただろうけれど。 「おはようございます」 次の日、いつも通りに起きてきた綾乃に松岡もホッとした表情を浮かべた。 「おはようございます」 ちゃんと制服も着ている。 「今日は車にしましょうか?」 「あ・・・でも、雅人さんに聞いてみないと」 そういえば珍しく姿が見えないとあたりを見回してみると。 「昨日から急な出張なんですよ。明日には戻られると思います」 「そっか・・・・そうなんだ。でもじゃぁ車は無理なんじゃぁ?」 「いえ、こちらに車もありますし運転手もおりますから」 もし綾乃が学校へ行くと言った時は絶対に車にしてくださいと、松岡は雅人から念を押されて言われていたのだ。 「じゃぁ、お願いします」 「はい」 その日はそのまま珍しく車で登校したから、まだ身体が本調子じゃないんだろうと綾乃は回りからは心配された。 翔は何かと気を使ってくれて、鞄や移動の時の教科書なども持ってくれて。薫もさり気なく気配りしてくれているのが綾乃にも十分に伝わっていた。 放課後は文化祭の最後の衣装合わせがあって。それもしんどくないように1番最初に済ませてくれて、早く帰って休めといわれたけれど、綾乃は結局最後までそこにとどまっていた。 壁際に立って、クラスの面々が騒ぎながら衣装を合わせているのか騒いでいるのかわからない姿を、じっと眺めていた。 「帰りは?」 まだこれから生徒会に顔を出すという薫に聞かれて、自分も手伝おうかと綾乃は言ったのだが、病み上がりが何を言っていると怒られて、帰りも車なのかと聞かれた。 「ううん。何時になるかもわかんないから電車にするって言ってあるんだ」 「え!?大丈夫かよ!?」 「うん。もう平気だから・・・・・ありがと、ね」 ――――優しくしてくれて。 「俺、門のとこまで見送るっ」 「あ、それいいね、お願い。僕はもう行かないとまずいから」 「うん。本当にありがとうね、薫」 綾乃ははかなく笑って、薫の腕をポンと叩いた。 「・・・・・どうしたの?なんか変だよ?」 「ひどーい、人がお礼言ってるのに。もういいよっ。翔行こう」 なにとは言えない違和感を感じた薫が首を傾げると、綾乃は怒ったように言い翔と一緒に駆けていってしまった。 その仕草はいつも通りのような気がするのに、何故か心の中がざわめき立って、薫は綾乃の姿が視界から消えても、なかなかその場を立ち去る事ができなかった。 その、薫の予感は、ちゃんと当っていたのだ。 雅人が、大阪で大事な会食が終わったのがすでに深夜を回っていた。看板もない店の軒先で、相手の議員を見送ってホッとため息をついた。 バカな大人を上へ持ち上げて、こちらの良いようにさせるのは疲れるものだ。早くホテルに帰ってシャワーでも浴びたいと肩を揺すったとき、暗闇からすっと久保兄が姿を現した。 「雅人様、松岡さんよりお電話がありました」 「松岡から?」 松岡から雅人に電話が入ることなど滅多にない。いったい何があったのだろうかと眉をひそめて先を促す。 「実は、綾乃様がお戻りにならないと」 「綾乃が!?家に!?」 雅人ははじかれるように久保兄を見やって、路上にも関わらず驚きの声を上げた。 「はい」 「なんで―――っ、何故今頃・・・・・・・何故もっと早く言わない!」 帰らない? 学校からは遅くとも6時には帰宅しているはずなのに、それは一体今から何時間前のことだ。 「大事な会食の席でしたので、終わってからと」 「そんな事はお前の判断する事じゃない!私がする事だ!!」 雅人は珍しくカッとなって大声で久保兄を怒鳴りつけた。しかし、久保兄は微塵も動じる事無く、逆に静かな声で雅人に問いかけた。 「では、会食の途中でご報告したとして、あの席を抜けて東京に帰る事が出来たのですか?」 「っ!」 ―――――確かに、それは間違いなく不可能なことだった。そして久保はそれがわかっているから、だったら今伝えても同じことだと告げる。 その言葉を、雅人は言い返すすべもなく、ただ睨みつけた。 そうだ、確かに自分は、その連絡を受けていようと受けてなかろうと、今ここにいただろう。 「とにかくホテルに戻りましょう。明日朝1の新幹線の手配はしてありますので」 もう深夜をとっくに回っている。 今から東京へ戻るすべはない。 雅人は促されるままにホテルへと行き。 まんじりともしない夜を過ごした。 その日くたくたたに疲れていたはずなのに、睡魔が訪れる事はなくて。 久保の言った言葉が頭から離れなかった。 叔母に会って傷ついた綾乃に、動けない自分の代わりに直人を行かせた。そして自分は仕事を取ったのだ。 直人からの電話に、不安を抱きながらも、今朝はちゃんと学校へ行ったと聞いて安心していた。まさかこんな事になるなんて思いもしなかった。 きっと落ち着いたのだろう。 明日帰って話せばいい。 そんな風に思っていた。 明日自分が帰れば、ちゃんと話してくれるのだろうと思いきっていた。 けれど、結果はそうではなかった。 誰かに強制的に連れ去られたというよりも、おそらく自主的なものだろう。腕に青痣があったとも直人は言っていたのに、よく考えもしなかった。 どうして、考えてやれなかったんだろう。 痣の意味を。 あの子の心細さを。 不安さを。 寂しさを。 どうして1番に帰ってやれなかったんだろう。 いつもいつも、後悔ばかりしている。 思い出される。 あの、直人の言葉。 自分の戸惑い。 綾乃のためなら立場を捨ててもいいと思った。その覚悟が自分にはあると、信じていた。けれど、思いのほかこの地位に執着していてダメな男なのだと知らされた。 言葉で言うほど、決心は出来ていなかった。 あんなにも愛していると思ったのに。 こんなにも愛しいと思っているのに。 愚かにも弱い自分が、雅人はどうしようもなく腹立たしくて、いらだってしまう。けれど、今は酒を飲んで誤魔化すことも出来ない。 雅人は、ただただ眠れぬ夜を過ごした。 |