――――ん・・・・な、に? 綾乃は何か頬に変な感触を感じて、落ちていた眠りから意識を引き戻され。 「っ、うわっ」 溜まらず目を開けると、何か黒い塊が目に飛び込んできた。慌てて起き上がってみると、なんとそこにいたのはくりくりと大きな瞳の柴犬のアップだった。 「あ・・・・」 「こらマメっ。あーごめんなぁ坊主。驚かせて」 「いえ・・・」 よく見ると、傍らに男の人も立っていた。飼い主だろう、ラフなジャージにサンダル姿の、30過ぎくらいだろうか。多少乱れた髪に無精ひげが残る顔に、男は温和な笑みを湛えていた。 「ん〜〜家出か?」 公園のベンチで小さな荷物を抱えて眠っている綾乃の姿は、どうみてもそうにしか見えない。男がそう尋ねるのは当然だろう。 「・・・・・違います」 綾乃は警戒心いっぱいに荷物を握りしめて、上目遣いで男を見つめる。このまま警察にでもひっぱっていかれそうなら、逃げ出さなければならない。 しかし男の言葉は綾乃の想像とは違った。 「・・・ふ、ん。じゃーこれから行くところとかあんのか?」 ――――行く、ところ? 自然に尋ねられた言葉が、綾乃の頭の中を駆け巡った。 「・・・・・・」 ――――そんなの、ない。もう、居場所なんてないから・・・・・ その場所から、自分はもう出てしまった。もう戻れない、大好きだったあの場所。 そう思った瞬間、昨日から耐えていた涙が綾乃の瞳からぼたりと落ちた。一度落ちた涙は止まる事がなく、ぼたぼたと続いて零れ落ちて綾乃のデニムパンツを濡らした。 ――――大好きだった・・・・・・・初めて、好きと言ってくれた人たち。けれど、もう会えない。 どれだけ会いたくても、もう会えない。好きだからこそ、迷惑をかけたくないから、だから自分で選んだこと。 それでも、どうしようもなく襲ってくる悲しみに、綾乃は見知らぬ男の前だと思って必死で堪えようと唇を強く噛み締めるけれど、涙がどうしても止めることは出来ない。 こすってもこすっても、後から後からこぼれて頬を伝う。 「こするな」 見かねたのか、男は綾乃の手を取る。 「泣きゃぁ、いいさ」 ポツリと言われる言葉に、綾乃の肩の力がふっと抜けたのか、場所もわきまえずに泣きじゃくった。 泣いて泣いて、我を忘れてひとしきり泣いて。 見上げてみると、先ほどの男はまだ綾乃の側にいた。 マメも。 「気が済んだか?」 「・・・・・・わからない」 まだ、涙が込み上げてくる。苦しさが締め付けてくるから、綾乃は正直に思ったことを口にした。だって、わからないから。まだ、どうしようもないくらいに悲しいから。 苦しくて、辛くて。 どうしようもないから。 「そっか。じゃぁまた泣きたくなったら泣けばいい。それよりもそろそろここを移動した方がいい。ここはたまにホームレスが溜まったり、高校生がたむろったりするんで警官が定期的に見回りに来る」 「えっ、あ・・・・」 それはまずいと、綾乃は慌てて立ち上がった。けれど、どっちを向いて歩き出したらいいのかがわからない。 右の出口か、左の出口か、綾乃がなんどか視線を巡らす。どちらから出たところで、行き先があるわけでもない。 「とりあえず、うちにくるか?」 「え!?」 「幸い俺は一軒家に犬と嫁との3人暮らしで、部屋は余っている。行くところがないなら寝床ぐらいにはなるぞ」 「・・・・でも・・・・」 「ん?」 「・・・・・いいんですか?」 見ず知らずの、何も持っていない僕でも?迷惑をかけても? 「ダメなら誘ったりはしない。よし、じゃぁ行くか」 そう言うと男は綾乃の鞄持った。 「あ、自分で持ちます」 「ん?ならこっちを持ってくれ。どうもお前さんは気に入られたらしいからな」 男はそういうと、マメに繋がっているリードを渡してきた。綾乃は思わず男とリードを見比べたが、躊躇いがちにその手を取ると、マメが嬉しそうにワンと吠えた。 その声に背中を押されるようにして、綾乃はこの見も知らぬ男の後を歩き出した。 男は柴崎真吾(シバサキシンゴ)と名乗り、職業は物書きだった。そして奥さんの今日子さんは陶芸をやっているとかで、ある意味少し世間からズレていたのも幸いしたのかもしれない。 普通家出少年をそのまま家に泊めたりはしないのに、どうもそういう感覚が抜け落ちているのか。 そして綾乃は、2人の不思議なゆったりとした空間に好感を持った。なんとなく、陽だまりでまどろむような空気が流れていた。 宿代のお礼としてマメに朝晩の散歩をする事が条件になり、綾乃はもちろん快諾した。 南条家の事が気にならなかったわけではもちろんなかった。 学校の事も気になった。 文化祭も間近で、せっかくの衣装も無駄になって、みんなには迷惑をかけるだろうとも思っていた。 けれど、戻るという選択肢は綾乃の中にもうなかった。 ただただどうしようもないくらいに雅人が好きだったから。 邪魔は出来ないと思った。 自分の存在が雅人の邪魔になるなら、いなくならなければと思った。 何故もっと早く思いつかなかったのか。杉崎の姉との婚約話だってもともとは政略結婚のふしが強い。ああいう世界はそれが妥当なのだと、どこかで知っていたのに、遠い世界のような気になっていたのだ。 自分では何の役にも立たない。 綾乃はそれを十分知っていたから。ましてや結婚なんてできるはずもなく、子供を生む事だって絶対に出来ない。政治的なことも金銭的な事でも役にたつことはなく、たぶん面倒しか持ち込まないだろうと分かったから。 もうこれ以上は南条家にはいれなかった。 雅人との事を全てなかったかのようにして、そのまま南條家で3年間を過ごすことだって可能といえば可能かもしれないが、綾乃にその精神力はなかった。 それは、辛すぎた。 好きすぎて、好きすぎて、きっといたら甘えてしまう。望んでしまうから。それは綾乃には出来なかった。 だから。 さよなら 大好きな人たち。 幸せな空間をくれた人たち。 きっと自分には与えられないものだと諦めていたたくさんの物をくれたから、今度は僕が返す番だよね。 だから。 さようなら。 最後に会いたかったけど。 顔を見たかったけど。 お仕事なら仕方がない。 最後にぎゅって抱き締めて欲しかったけど。 雅人さんの匂いを、感じたかったけれど。 でもきっと、抱き締めてもらえたら、離せなくなるから。 その匂いに包まれたら決心が鈍るから。 仕事でいなかったのは、神様が今日行きなさいって言ってるんだよね。 ぐずぐずしちゃう僕への、神様の後押しだよね。 でも。 でもね。 会いたかった。 会いたかった・・・・・・・・・・・・・・ |