綾乃がここに来て3日が過ぎようとしていた。朝は少し早めに起きてマメの散歩に行って、帰ってきたら真吾と二人か、今日子も交えて3人かで朝食を食べて。昼間はのんびりと縁側に座って外を眺めていたりした。 ここの家は南条家と違って、純和風な作りだった。雑誌で見る京都の町屋を改築したカフェのようなたたづまいが、凄く和ませてくれた。 家事全般は真吾がやっていた。今日子は釜焼きなどになると、ほとんど釜を離れる事が出来ないからというのもあるし、没頭すると時間を忘れてしまうようだった。ほとんど1日中工房にいる。 今日もいつも通り綾乃はマメを散歩に連れていき、帰って来ると朝食の準備の途中だった。 綾乃は急いでマメを鎖に繋いで、リビングの隅に手にしていたビニール袋を置いてキッチンに入る。 「綾ちゃん、何買ってきたん?」 そのビニール袋を目に止めた真吾は尋ねた。 「アルバイト雑誌と履歴書です」 綾乃は丁寧に手を洗って、出来た料理をテーブルに並べる。 「えー、アルバイトとってまだのんびりしてたら?」 「ん・・・でも、ぼうっとしてても仕方ないですし」 真吾の少し驚いた顔に、綾乃は曖昧な笑顔を浮かべる。 ここにいる昼間、一人ぼうっとしていると考えるのはいつも南条家での日々。置いてきてしまった、忘れ難い日々の事ばかり。 そんなのもが頭の中をぐるぐる駆け巡って、知らず知らずに泣いてしまうから。 泣きながらいつの間にか眠ってしまい。 また悲しい夢に、目が覚めるから。 それがつらい。 もう忘れてしまわなければいけないから。 だから。 「ん〜・・・綾ちゃんバイトしたことあんの?」 そんな綾乃の心中などは知らない真吾は、納得できないような顔になる。 真吾も今日子も、何故綾乃が一人で公園で寝ていたのか。今までどうしていたのかなんて一言も尋ねなかった。 ただ、親がいるなら居場所は言わなくてもいいからちゃんと無事なことだけは知らせなさいと言われたけれど、親はいないと綾乃が言うと、それ以上追及はされなかった。 南条家からほとんど何も持ち出さなかった綾乃に、真吾は自分の服も貸してくれている。 「バイトは・・・ありません」 「そうかぁ〜。じゃぁ初ってことやね。もし面接受けるんなら、どこにするか先に相談してな」 「え?」 「一応ここに住んでる以上、保護者代わりやし。初めてなんやったら心配やし」 真吾はニタっと笑った。 綾乃は、その真吾の心遣いがうれしくて静かに頷いた。 確かに自分も誰かに相談したかった。 そして不思議だなぁってしみじみ思う。 ――――助けて 昔、そう叫んでいた日々にはこんな出会いはなかった。 一人ファミレスで過ごすクリスマスの夜も。 一人公園で過ごす大晦日の夜も。 一人あてもなく歩いたお正月の昼間も。 一度も味わったことのない誕生日ケーキが食べたくて泣いた夜も。 もう死んでしまおうかと、赤信号を見つめた日々も。 涙さえ枯れたと思った日々にも。 誰も側にはいてくれなかった。 なのに、今は優しく笑ってくれる人がいる。 それは、1番望んでいた人ではないけれど。それでも、あの頃よりはずっと恵まれていると思うから。 それに今は、優しかった日々の思い出がある。 今はまだ思い出すにはつらいけれど。 でも確かに、心の中にはあるから。 あの頃とは違う。 だからもういい。 もう大丈夫。 そう思ってるのに。 思えてるのに。 どうして? 涙が流れてくる。 苦しくて。 苦しくて。 苦しくて。 ――――苦しくて――――どうしようもない。 溺れている。 もがいている。 もう岸にはあがれないのに。 底へと沈んでもいけなくて、もがいている。 見える光は遠いのに。 必死で手を伸ばしている。 ―――――――会いたい ―――――――会いたい きっと、あの光の先に・・・・・・・・・・・・・・・ 「大丈夫っ?」 「・・・・・あ・・・」 目覚めたそこに見える顔は、真吾だった。 もしかしたら、目覚めたら、いつもの天井が広がって、傍らで笑っていてくれるのは―――――・・・・・そんなはずないのに思い描いていた。 「つらい夢を見た?」 いつの間にか昼のまどろみにつかまって、綾乃は寝てしまっていた。 「・・・・・・・・」 ―――いつのまに眠ってしまったのだろう もう、眠りたくない。 眠っていると、いつも捉まってしまうから。 もう眠りたくない。 「へーき、です」 「そうか?」 真吾の、優しく頭を撫でてくれる手が気持ちいい。その優しい感触に、覚えがあるから。 だから、綾乃はその手を拒むように、体を起した。 「まだ、寝てたら?」 「ううん。せっかく雑誌買ったし、バイト探さなきゃ」 綾乃はまだ袋に入れられたままの雑誌を指差した。 綾乃の所持金はわずかばかりだった。それも南条家のお金なので、躊躇いはああったのだが無一文で出る勇気もなくて、手元にあった2万円だけはもらってきてしまった。 けれど、2万円ではそう長くは生活は出来ない。早くバイトを見つけなければ。 綾乃は袋を引き寄せて、アルバイト雑誌をめくった。 ここから近くて、自分にも出来そうな仕事を探さなければならないのだが、雑誌自体見るのが初めてなので、なんとなく興味深くて前の方から何気なくぱらぱらとページをめくっていく。 「お茶、置いておくから」 真吾が綾乃の傍らに冷たいお茶を入れて置いてくれる。 「ありがとうございます」 「いいえ。じゃぁちょっと部屋で仕事してるから、何かあったら声かけてな」 「はい」 綾乃が笑って頷くと、真吾も少し安心したように笑みを浮かべてリビングを後にした。 部屋には、綾乃のめくる紙の擦れ合う後と風の通る音だけの静寂。綾乃は縁側の柱にもたれかかって、たくさん載せられた求人の記事に目を通していく。 何がしたいというのは、特になかった。 そういう事を考える余裕もなかったから。 どういうのがいいのかもよくわからないけれど。 ――――あ、ビデオのレンタルショップとかいいかも。時給720円かぁ 少し安いようなきもするが高校生ならそれくらいなのかもしれないと、綾乃はページの端を目印代わりに折り込んで、次のページをめくる。 ――――・・・あっ・・・・・ 目に飛び込んできた、南條家のやっている、今直人が取り仕切っているホテルのバイト募集の記事。大きく掲載されていた。 ベルボーイと、1階のカフェでのウエイター・ウエートレス募集だった。黒髪に、ピアス禁止と少し厳しい基準だが、ホテルという場所を考えればそういうものだろうかと記事に目を通す。 18歳以上。 交通費支給。 食事つき。 学生、フリーター歓迎。社員登用あり。 はは・・・応募できるわけでもないのに。 その記事をみつめていると、ポタリと黒いシミが広がった。一つ目から間をあけず、二つ三つとシミが広がっていく。 ――――だめだ・・・・・・ まだこんなにも好きで。 好きで。 どうしようもない。 綾乃の膝から雑誌がバサっと音をたてて滑り落ち、綾乃は両手で顔を覆って声を殺して泣いた。 |