-前-  


「あれぇ?・・・綾ちゃんなんで制服じゃないの?」
 文化祭を無事終えた月曜日。雪人がいつも通り朝ごはんを食べるためにリビングへと行くと、綾乃は私服で座っていた。
「今日はお休みなんだよ」
 綾乃は雪人のために椅子をひいてやりながら言う。
「えーなんで!?」
「本当なら日曜日はお休みのはずなのに学校があったから、今日は振り替え休日なんだ――――ココア?ミルク?」
「えぇ〜いいなぁー・・・ん〜ココアっ」
 その返事を聞いて、少し寒くなって来た朝に松岡はホットココアを入れた。
「綾ちゃんは何飲んでるの?」
 ミルクたっぷりのあったかいココアを両手に持って、雪人は綾乃のカップを覗き込む。
「ダージリンティだよ。甘さ控えめでから、雪人くんにはちょっと苦いかな?・・・飲んでみる?」
 飲みたそうな顔の雪人に、綾乃は自分のカップを渡してやる。そのカップに雪人は口をつけて、ちょっと顔をしかめた。どうも、苦かったらしい。
 今日の朝食はフレンチトーストだったので、それに合わせて綾乃は甘さ控えめにしていたので、甘―いココアの飲んでいる雪人には全然おいしくない物だったようだ。
「さ、雪人様。早く食べてください。遅刻しますよ」
 デザート用にと梨を出しながら、食事の進みの遅い雪人を松岡が促した。
「なんだか、甘い匂いがしていますね」
 そのとき雅人がダイニングへと現れた。こちらもまた、ラフな普段着を着ている。
「・・・そんな格好でいいの?」
 それを見てとって、綾乃はいぶかしむ顔をつくった。
「ええ、今日までは休みですからね」
「え!?休むの?」
 その返事には綾乃は驚いたような顔になった。自分の事は棚に上げて、いったい何日休むつもりなのかと目を見張って、先日に見た久保兄の困った顔が思わず浮かんだ。
「はい。綾乃と一緒です」
 雅人はにこりと笑って、ブラックコーヒーに口をつけた。雅人の朝食はトーストにサラダ、果物入りのヨーグルトとあっさりめ。
「えーっずるい!!」
 雪人は甘いフレンチトーストをもぐもぐさせながら、ぷっくりと頬を膨らました。2人だけが休みで、自分が学校に行くのはちょっと嫌なのだろう。
「雪人、食べ物口の中にいれてしゃべるのは下品ですよ」
 そんな雪人に、雅人はつめたく言うものだから雪人の顔がさらに拗ねていく。
「むーっ!!」
「なんですか?」
 どうも綾乃が南條家に帰ってからは雪人にかまいっぱなしなのが、おもしろくないらしい。小さな優越感に浸っているらしい雅人の態度に、見えないところで松岡がため息をついていた。
「二人とも、落ち着いてっ」
 なんだか兄弟喧嘩が始りそうな雲行きに、困って間に入るのは綾乃。どうも南條家に戻ってきてからこっち、この二人はこんな風だ。綾乃には、まさか雅人が雪人に妬いてるなんて想像も出来ず、その原因がわからなくて困っていた。
「雅人さんも大人気ないし、雪人くんも急がないと」
 時計は既にリミットを示している。雪人は綾乃にせかせれて大急ぎで食事を終えて、後ろ髪引かれるような思いでしぶしぶ学校へと登校して行った。

「さて、やっと静かになりましたね」
 朝食を終えて、綾乃が自分の部屋で休んでいた分のノートやプリントを整理していると、雅人がやってきた。
「電話、もういいの?」
 さっきまで雅人には久保兄と思われる相手から電話がかかってきていたのだ。随分長い電話だった。
「ええ。もう終わりました。ほんとに、うるさい小姑の様ですよ」
 雅人は、久保が聞いたらキリキリと怒り出しそうな言葉をはいて肩をすくめた。その仕草に、綾乃もちょっと笑みをこぼす。
「宿題ですか?」
 雅人は綾乃の手元に置かれたたくさんのプリントに目をやる。
「それもあるし。薫と翔が休みの間交代でノートとかとっててくれたみたいで」
 パラっとめくると、薫の綺麗にまとめられたとことろ、翔が不器用に書きまとめたところがあって、それがちょっとおもしろかった。
 普段は適当にしかノートを取らない翔は、きっと綾乃の為にノートを取るのに四苦八苦したに違いなくて、その形跡がノートにはしっかりと現れていて。その姿が思う浮かぶようでちょっと目頭が熱くなってしまう。
「綾乃」
「なに?」
 雅人に呼ばれて綾乃は顔を上げると、いつの間に近づいたのか雅人のアップ。それがさらに気づいて来て。
「・・・っ!!」
 軽く触れるだけの、優しいキス。
「そんなにノートを見つめてないで、私も見てくださいよ」
 キスだけで綾乃の顔は赤くなっていくのに、言われたセリフにさらに真っ赤になって。どうしていいのかわからなくて、また下を向いてしまう。
 そんな綾乃の耳元に雅人は口を寄せて。
「ねぇ、どこかへ出かけませんか?――――ドライブでも」
 内緒事を話すように声を潜めて言うその声に、綾乃の鼓動は階下の松岡にまで聞こえてしまいそうなくらい、大きな音を立てていた。
「デート、しましょ?」
 雅人のいたづらにでも誘うような声音に、綾乃は唇を少しキュっと結んで。コクンと頷いた。








「やはりまだ色づいてはいませんね」
 雅人と綾乃は車を走らせて、河口湖へとやってきていた。あと半月もすれば紅葉が楽しめたのだろうが、残念ながらまだほとんどの木々が色づいてはいなかった。
「でも、気持ちいいー」
 綾乃は湖畔に立って、思い切り腕を伸ばして全身で空気を吸い込んだ。水と緑のすがすがしい香りがただよって、息を吸うたびに全身が清められていく気がした。
 平日月曜日の昼前という事もあってあたりに人影もほとんど見えなくて、静まり返った空気がまた落ち着かせてくれた。
「本当に。向こうの方に富士山も見えますね」
「うん―――僕、富士山見るの初めて」
 秋晴れの空に、白をかぶった富士が姿を現していた。
 綾乃は少しでも高いところから見たいのか、湖畔に落ちている太い流木の上に足をかける。
「危ないですよ」
 その不安定さに雅人が思わず注意すると、綾乃が雅人へチラリと視線を向けてふふっと笑う。まるで、心配しすぎだよっとでも言うように。
 けれど、その足を一歩踏み出そうとして、流木が大きく揺らいだ。
「うわっ」
「綾乃!」
 綾乃は大きくバランスを崩して横へ倒れそうになる、その身体を雅人が受け止めて抱きしめた。間一髪抱きとめられて、少し足先が宙に浮く。
「・・・へへぇ」
 綾乃が驚きを誤魔化すように笑うと、雅人は少し怒った顔を作って綾乃を見ろした。
「だから言わんこっちゃないんです」
 その声も少し怒ったように言うけれど、じっとみつめた瞳の奥は笑っている。そして、運よく抱きしめた綾乃の身体を離すまいと一層強く抱きしめた。
「・・・雅人さん」
 あたりに人はいないとはいえ、男同士がこんな場所で抱き合っているのはきっとまずいんじゃないかと、綾乃はわずかに身じろいだ。
 もちろん、照れてしまって恥ずかしいというのもあるのだが。
「もう少し。もう少しだけ、――――いいでしょう?」
 けれど雅人のその手を緩めなかった。
 本当に、今腕の中にある温もりがうれしくて。ただただ愛しくて。なくさないでいられた喜びをかみ締めるしか出来ないから。

 遠くから人の声が聞こえてくるまでの、数分の時間。雅人はずっと綾乃を抱きしめ続けた。


「どこまで行くの?」
 河口湖を出発して、まだ奥へと車を走らせる雅人に綾乃は尋ねる。時間が1時に近づいてきて、少しおなかも減ってきたところなのだ。
「この先に、顔見知りの旅館がありましてね、朝電話をして昼食をお願いしておいたんですよ。1時と言ってあったんですが・・・少し遅れそうですね」
 雅人はチラっと時計に視線を走らせて、アクセルを踏み込んだ。
 しかし、綾乃はそんなことよりも、雅人の言葉に――――固まってしまっていた。
 ――――旅館!?・・・・今、旅館って言ったよね・・・?
 綾乃の頭の中にはテレビで見たような温泉旅館が想像されていて、しかも隣の間には布団が敷いてある、そんな映像。
 ――――もしかして、スィートが旅館になった!?えっ、どっ、どうしよ・・・どーしようっ!!
 漠然とは雅人とそうなることを想像していた綾乃も、それがある程度のリアリティを持ってくるとなると話は別らしく。すっかり頭の中がパニックになっていた。
 そんな綾乃の様子を横目で盗み見た雅人は、思わず笑みをもらしてしまう。その反応が素直すぎて、かわいくて。
 そして、あえて何も口にしないでそのまま車を走らせたのだった。

 約束の時間を20分ほど遅刻して着いた旅館は、森に囲まれた純和風作りのこじんまりとしたたずまいの宿だった。これまたこじんまりとしたロビーには、和風の彩でシンプルに飾られていた。
 迎えに出てきた女将は、50歳代というところだろうか。上品そうな物腰に粋に着物を着こなしていた。
 女将は2人を目に止めて優しく微笑んで、部屋へと案内してくれた。
 通されたのは、奥にある離れの部屋。
「直ぐにご用意いたしますから、くつろいでお待ちくださいね」
 そう言って女将がさがると、綾乃は雅人の目を盗んでさっそく隣の部屋を覗いてみる。が、そこも普通に和室で何もなかった。綾乃は思わずそれにホッと胸を撫で下ろしたのだが――――それよりも、その奥の縁側風になっているところに目をやって。
「雅人さん・・・あれは?」
 縁側の端の方が。どう見てもお風呂に見えるのだが。
「露天風呂ですよ。最近部屋に露天風呂をつけるのが流行りなんです。知りませんでしたか?」
「・・・全然。へー・・・いいなぁ」
 家族旅行にも縁がなかった綾乃には、露天風呂なんてそれはなんだか憧れだった。
 時々テレビでみた旅番組。夏休み明けにクラスメイトから聞かされた話。家族で旅館へ行って、ご飯を食べて温泉につかる。そんなみんなにとっては普通の事が、何よりもうらやましかったから。
「入りますか?」
「えっ!?」
 綾乃は驚いた顔をして雅人を振り返る。きっと、今自分がどんな顔をして、露天風呂を見つめていたかなんて考えていないだろうけど。雅人にはその横顔が切なかった。
「そうですね、せっかく来たんですから入りましょう、ね?」
 雅人はそう言うと、締められた襖を全開にして窓も開け放っていった。そうすると、庭の木々から吹いて来る深緑の風がと部屋を通り抜けて、綾乃は少し重くなっていた心がフッと軽くなった気がした。
「あら、寒くないですか?」
 ちょうどそこへ料理を運んできた女将が入ってきた。
「ええ。それに、せっかくの空気ですからね」
 東京では、なかなかこんなに緑に囲まれることはない。
「では、もしお寒いようでしたらひざ掛けをお持ちしますので、おっしゃってくださいね」
「わかりました。後、あの露天に入りたいんですが良いですか?」
「もちろんでございます。バスタオルなど必要と思われるものをひとそろえ、横の更衣室にご用意してございます。足りない物がございましたらすぐにご用意させていただきますので、おっしゃってくださいませ」
「わかりました。ありがとう。後はこちらでやりますから」
 料理が並べ終ったのを見て取って雅人が言うと、女将も心得ているらしく、一礼してからスっと部屋を後にしていった。その間綾乃はというと、どうしていいのかもわからず、窓際に息を詰めて張り付いていた。
 流れる空気が優雅すぎて、綾乃は自分の身の置き所に困っていたのだ。
 そんな綾乃に雅人は笑みをこぼして、座るように示した。
 そこには銘々分やや小ぶりの4段重と、お吸い物、お茶に果物が置かれていた。
「さ、いただきましょう」
 明らかに緊張気味の綾乃の顔色に、雅人はうれしそうに笑顔を向ける。
「はい。いただきます」
 綾乃は手を合わせて言うと、そっと一番上の蓋を取って。
「うわぁーっ。綺麗ぇ」
 綾乃は目に入ったその料理に、思わず歓声を上げてしまった。
 そこには一口サイズの色々な料理が並べられていた。
「八寸ですかね。前菜みたいな感じですよ。下も見て見ましょう?」
 綾乃が、雅人の想像以上にうれしそうにしてくれて、雅人もうれしくなって先を促した。
 綾乃は雅人の言葉とおり、さらに下の中身を見るために1重目を持ち上げた。すると下には、焼き物と煮物が盛られていた。綾乃は持ち上げた一重目を横へ置いて、さらに2重目を持ち上げると、下は今度はてんぷらと椀物になり、さらに下はマツタケご飯と白ご飯の2種が盛られていた。
「すっごーい!!」
 彩り美しく盛られた料理は、とても綺麗で上品な仕上がりとなっていた。大きさも全体的に小さめで、色んな種類を少しづつ食べれるように工夫されていた。
 綾乃はその綺麗さと細工の見事さに思わず見とれてしまう。
「綾乃。さ、あたたかいうちにいただきましょう」
「はい・・・えーっと、これが前菜なんですよね」
「ええ、まぁ一応そうですけど、好きなものから食べればいいんですよ」
 雅人の言葉に、綾乃は少し上目遣いで雅人を見る。
「・・・でも、作法とかがあるんですよね?」
 その綾乃の瞳が少し影って見えて、雅人は驚いたように見つめ返した。何が、綾乃に影を落とそうとしているのかわからない。
「確かに、正式にはありますが・・・今は2人きりですし、好きな様でいいじゃありませんか?私も好きなものからいただきたいですし――――わたしとしては、まだ湯気のたっているこのてんぷらから食べたいんですが」
「あっ、僕もそう思った」
 注意深く選んだ言葉は間違いではなかったのか、笑う綾乃の反応に雅人はホッと胸を撫で下ろした。
「じゃぁ、一緒にてんぷらからいただきましょう」
 雅人はそういうと、にっこりと笑って、海老を箸でつまみあげて、横に添えてある塩を軽くつけてから口へと運ぶ。歯にあたり、サクっと音をたてたそれは、口に入れた瞬間に海老の甘さが口いっぱいにひろがった。
「おいしいですね」
 その仕草を見つめていた綾乃は、慌てたように自分も同じように海老を口に入れて、そのおいしさに満面の笑みを浮かべた。




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