「指揮をとれないキャプテンなんて、カジのとれない船長、か…」
谷口は、橋の上から川面を見つめながら、足もとの小石を蹴った。
それはポチャンと音を立てて波紋を作り、映し出す自分の姿を丸く歪ませた。
(まったくそのとおりだ)
谷口は欄干を強くにぎったまま、まだ川をじっと見つめている。
この指ではもう野球をすることができない。そう告げられた日も、ここで川を見ていた。
いや、見ていたのではなくただ目に映っていただけだった。病院からどうやってこの橋まで来れたのかも覚えていない。
今日は、川面に映る夕陽もちゃんと見えている。美しいとも思う。
あの日はただ絶望感にさいなまれるだけだったが、今のこの胸のもやもやは、不思議と暗くはない。
自分は恵まれた人間だ、と谷口は感じていた。
墨谷二中の時代、気の弱さから、結果的に青葉のレギュラーだと皆をあざむいていたというのに、そんな自分を快くキャプテンとして受け入れてくれた、当時の仲間たち。
すべてを知ったうえで自分をキャプテンに指名した、前のキャプテン。
頼りなく、時に独善的なキャプテンだった自分を盛りたて、協力し、ついてきてくれた部員たち。
そしてまた、高校でも理解ある先輩たちに恵まれ、1年生キャプテンという任まで負わせてくれた。
野球の実力で2年生たちが谷口より劣っているのは誰が見ても明らかではあるが、やはり下級生がキャプテンというのには抵抗があるものだろう。
本音の部分ではわからないにしても、2年生たちは谷口がキャプテンになることを認めた。
自分は甘やかされすぎじゃないかと谷口は思った。自分は、ただ好きな野球に打ち込んでいただけだったのに。
谷口は、ふたたびキャプテンという立場になった。
中学時代の経験から、なんとか務められるだろうと思っていたが、やはり勝手が違った。
言わなければならないことも言えない。これじゃ、墨二に来たころの自分に逆戻りだと思った。
はっきりと敬遠の指示をださなかったために得点されてしまった、キャプテンとしての初試合を苦く思い出した。
(プレイ中に先輩も後輩もない、なんて自分で言ってたくせに)
自嘲気味に笑って、また谷口は小石を蹴って川に落とした。
『だったらなぜキャプテンなんてひきうけちゃったんだい。キャプテンとしての義務すら満足にはたせないんなら、断わりゃいいいと思うけどな』
「いちいちそのとおりだよ」
谷口はつぶやいた。
倉橋の的を射た言葉には、ただうなずくしかなかった。
ふと、青葉学院のころを思い出した。
自分が転校する直前、次期キャプテンの発表があった。
青葉学院では、夏の全国大会が終わると、すぐに来年度の新体制が組まれるため、次期キャプテンも早々に決められる。
1軍、2軍全員がグラウンドに集められた中で、監督の低い声が響いた。
―――キャプテン、佐野。
意外そうな驚きの声もなく、ただ拍手が起こった。
1年生の中でも、いや1軍の中でも抜きん出ていた佐野がキャプテンに就任することに、反対するものはいなかった。むしろ当然と受け取られていた。
その拍手に包まれながら、佐野は堂々と前に進み出て、次期キャプテンとしての挨拶をした。
谷口は、2軍の列のほとんど最後尾でその挨拶をぼんやりと聞いていた。
もうすぐこの野球部とも学校とも別れる谷口は、そのときのことなど覚えていない。
ただ、「4年連続優勝を、全国制覇を必ず果たし、日本一になる」という最後の言葉だけが耳に残っている。
谷口にとって遠い夢としか思えなかった日本一という言葉。
それが、よもやこの青葉学院と対決して果たすことになろうとは。
自分に、そんな欲などないと思っていた。
自分の居場所が見つけられないこの野球部にいるよりは、ただ子供のころから好きだった野球を楽しめれば、それでいいと思っていた。
(そういえば、あいつも下級生キャプテンだったんだよな)
佐野も、1年生、2年生時に自分と同じように悩んだりしたんだろうか。だとしたら、どう感じていたのか、どんなふうにチームを率いていったのか、訊いてみたいと谷口は思った。
そう思った直後に、また自嘲して笑った。
青葉の1軍と2軍の間には大きな隔たりがあり、その2軍の補欠なんて存在は、1軍には同じ部員とも思われていなかったはずである。
自分と同じ立場で話してほしくない、なんて佐野は言うだろう、と谷口は思ったのだ。
それでもいつか、話せる時が来れば、とあてのない希望を持った。
翌日の練習時間。谷口は、何気なく佐野の名前を出した。
「佐野?」
「知ってるのか?」
「知ってるもなにも…青葉学院の佐野だろ?俺たちの世代で野球やってて知らないやつはいないだろ」
倉橋は、柔軟運動を途中でやめて、呆れたように言った。
「そ、そりゃそうだな」
谷口は自分の言ったことが可笑しかった。
しかしそのあと、倉橋は意外なことを言った。
「それに、俺は佐野と同じリトルリーグにいたんだぜ」
「えっ!」
谷口は大きな目をさらに見開いて、さらに訊いた。
「じゃ、じゃあ佐野のこと、よく知ってるんだ?」
「まあな。4年のころからエースで、俺が引退したあとのキャプテンやってたよ」
「そうか、やっぱりなあ…」
倉橋は、谷口の食い付きのよさのほうに驚いた。それにしても、と倉橋はいぶかしんだ。
「なんでそんなに佐野のことが気になるんだ?」
「気になるっていうか…」
谷口が言葉を探しているうちに、背後から声が飛んだ。
「おい谷口!みんなもう、柔軟終わったぜ。今日から実践形式で練習するって言ってただろ。早く指示してくれよ」
「あ。す、すいません」
山本に急かされて、谷口はあわてて、みんなが集まっているマウンド付近に走り出した。
が、ふと足を止め、小走りに倉橋のもとへ戻った。
「さっきの話は、練習が終わってからな」
そう耳元で言うと、谷口はまた駆け出した。
「それじゃあみなさん、さっそくポジションについてください。最初は昨日と同じく、シートノックから始めます」
それぞれがグラウンドに散らばったあとも、鈴木と半田がまだ脇でうろうろしていた。
「あの、僕らは…」
「あ、そうだな。じゃ、まず鈴木がライトに入って…」
倉橋はプロテクターを着け、バットを持つ谷口にボールを渡した。
(佐野、か…)
倉橋は、佐野のことを思い出していた。
佐野は確かに小学生のころから抜きん出ていた。
倉橋が5年で佐野が4年。倉橋ですら正捕手のポジションは得られなかったというのに、その夏から佐野はエースとして投げていた。
しかも、先輩たちに臆することもない堂々たるエースぶりで、その態度には自信が満ちあふれていた。
時に尊大で、しかしその態度も認めざるを得ない実力なのだが、やはり
『4年生のくせに生意気だ』 『ちょっとうまいからって調子に乗ってんじゃねえよ』
などと言う者もいた。
倉橋は、そんな上級生や同級生に同調する気には、とてもなれなかった。
むしろ彼らの度量の小ささに虫唾が走るほどだった。
倉橋自身、もともと先輩を先輩とも思わない人間だが、実力もともなわないくせに先輩風を吹かせることが、一番嫌いだったからだ。
佐野をかばうつもりはさらさらなかったが、一度、みんなのいる前で言ってしまったことがある。
「生意気だ生意気だって、実際、佐野にかなう人間がこのチームにいるのかよ?実力のあるピッチャーがエースになるのは当然だろ」
その場に佐野はいなかったが、どこかで聞いていたのだろう。
その日を境に、佐野は少しずつ変わっていった。先輩には敬語も使うようになった。
下級生エースに批判的だった者たちにも徐々に歩み寄り、佐野が5年になるころにはチームメイトから絶大な信頼を得るようになっていた。キャプテンを務めていた倉橋のサポートも任されるようになった。
そして倉橋は、引退前、次のキャプテンを佐野に託した。
キャプテン引継ぎのあと、佐野は倉橋に言った。
「俺がここで野球を続けられたのは、倉橋さんのおかげなんですよ」
「俺の?俺がなんかしたっけ」
「覚えてないなら、いいです。俺が覚えてますから。でも…ありがとうございました」
帽子を取ってぺこりと頭を下げ、そして待っているチームメイトのもとへ走っていった。
そんな、あっさりした最後のやりとり以来、佐野とは会っていない。
下級生 1