谷口は、いつになく不機嫌な表情で、映画館を出た。
足早に歩道を行く谷口のあとを、倉橋が追うように歩いていた。
「おい、なに怒ってんだよ」
背後から聞こえた、いかにも間の抜けたその声に、谷口は我慢ならなくなった。
急に足を止め、倉橋のほうに向き直った。
「お前、信じらんねえ!」
「だから、なに」
「お前とは、絶対、金輪際、二度と映画なんか見ないからな」
日の暮れかけた繁華街の歩道で、向かい合う二人の横を、無関心に人々が通り過ぎる。
ふだんの自分の行動範囲にない、この華やかな街の空気も、谷口には息苦しくさえ思えた。
徐々に、夜を明るくするネオンが灯りだす。しかし、12月の夜の風は冷たい。
こんなに寒いのに、俺はいったい何をやってんだ。こんな時間があったら、神社でピッチングの練習でもしていたい。いや、今、ものすごくボールを投げたい。
谷口はますます腹が立ってきた。自分の気持ちとは真逆な、倉橋の鷹揚にかまえた態度も気にいらなかった。
でも俺って、こんなに他人に対して腹を立てる人間だったっけ?
谷口は、そんなことまで考えてしまった。なんで自分がへこまなきゃならないのか。
ことの発端は、金曜の昼休みである。
谷口が教室で弁当を食べていると、倉橋が、5時限で使う現国の教科書を忘れたので貸してくれ、と言ってやってきた。倉橋のクラスは理数科で、普通科の谷口のクラスとは少し離れている。
倉橋は、空いている谷口の前の席にドカッと座り込んだ。
谷口は、午前中に使ったその教科書を机の中から出した。
「理数科ってさ、秀才ばっかりがいるもんだと思ってたよ」
「俺は、悪いけど、数学だけできるの。文系が絶望的にダメなだけ」
谷口は「へんなの」と言って、ふふっと笑った。
確かに、倉橋は数学は常に8割、9割以上の点数を取るものの、化学、物理はよくて平均、文系にいたっては見られたものではなかった。
谷口は、どれが飛びぬけてできるというわけではないが、すべてにおいてそこそこの成績である。総合すると、試験ではふたりともいつも似たような順位だった。
「そういえばさ」
と言って、倉橋はズボンのポケットに手を突っ込みながら話し出した。
倉橋の姉が、映画のチケットをくれたというのだ。
「姉貴の会社の親睦会かなんかで、映画のタダ券もらったんだ。でも、今月までに使っちゃわないとパーなんだってよ」
そう言って倉橋がポケットから出したチケットには、『12.31まで有効』という文字が印字されている。
「ふーん」
谷口は、それをちらっと横目で見ただけで、弁当の続きに箸をつけた。
「ふーんってなんだよ、誘ってやってんのに」
「俺が行くの?お前と?」
谷口は少しせきこんで、茶碗に手を伸ばした。
「もったいないだろ。タダなんだから」
「そりゃ、まあ…」
だからって俺と行く理由にはならないけど、とは思ったが、そこまでかたくなに断る理由もない。
(なんか俺っていつもこんな感じだなあ)
そう思いつつ、谷口は日曜に行くことを約束した。
倉橋は、ニッと笑った。
「じゃあ、また放課後にな」
そう言って自分の教室に戻ろうとした。
谷口は、自分の手元に現国の教科書がまだあることに気がついた。
「おい、教科書は?」
「え?教科書?」
「使うんだろ、次。現国!」
谷口は、倉橋の胸に教科書を押し付けた。
「そ、そうだったな、ありがと。悪いな」
倉橋は、少しばつが悪そうな顔をして、それを受け取り、教室を出て行った。
その直後、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
クラスメイトがばたばたと教室に駆け込んでくる。
「矢野先生、来たよ!」
(…弁当、まだ食べ終わってなかったのに)
谷口は、はーっとため息をついて、弁当箱のふたを閉めた。
そういう経緯があって、今日一日、谷口は倉橋につきあっていたのだ。
色とりどりの光がさんざめく雑踏の中、谷口は、倉橋と対峙していた。
谷口は、自分では冷静に倉橋をいさめているつもりだったが、まわりからは、小さいほうの男が大きいほうの男にギャンギャン噛み付いているように見えただろう。
「谷口、もう寒いし、どっかの店に入って話さねえ?」
ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込み、身を縮めたふりをする倉橋のとぼけた物言いに、谷口はカチンときた。
「黙って聞け。お前、あれは悲恋ものなんだぜ。あそこで笑うなんて、間違ってる」
「あれは笑うとこだろ。俺もう、背中がむずがゆくて耐えらんなかった」
「まわりがみんな泣いてたの、わかんなかったのかよ。雰囲気、ぶちこわし!」
「そういや、お前も鼻がグスグスいってたよな」
倉橋はニヤニヤ笑いながら、人差し指で谷口の鼻の頭を小突いた。
「わ、悪いか」
「悪かないよ」
谷口は、自分の顔が熱くなるのを感じた。なんだって俺は、今、泣き出しそうになってんだ。
映画のストーリーは、ごく単純。主演の二人がアイドルということもあってか、けっこうヒットしているようだった。
舞台は昭和初期の北陸。幼い頃から想いあう男女が、恋敵、記憶喪失、周囲の反対、戦争、さまざまな障害を乗り越えて結ばれるかに思われたが、やはり因習には勝てず引き裂かれ…という泣かせどころ満載の、いわゆる「ベタ」な邦画であった。
谷口は隣に倉橋がいることも忘れて、うっかりこのベタな展開にはまってしまったのだ。
「俺たちはタダで見てたからまだいいよ。でもほかのお客さんにはいい迷惑だ。もうやだ。お前とは絶対、映画は見ない」
こういうのをデリカシーのない奴、っていうんだろうな。こいつと自分は、泣きや笑いのツボが違う人間なんだ。そうなんだ。
父ちゃんだって、『笑いのツボがおんなじ女を嫁にしろ。顔なんか二の次だ』って言ってたもの。
そう自分を納得させることにして、谷口は、冷静さを取り戻そうとした。
「じゃあな。明日の朝練、遅れんなよ」
ぷいと倉橋に背を向けて、足早にその場から去ろうとした。
2、3歩進んだところで、ふと何かを思い出したように谷口は倉橋を振り返り、大声で言った。
「お姉さんにお礼、言っといてくれよな!あの美人の、お姉さんに!じゃあな!」
倉橋は、その声に思わず破顔した。
そして走り出し、気がつくと谷口を背中から抱いていた。大きな体が、すっぽりと谷口の肩を包んだ。
「わっ」
谷口は、心底驚いた。
嫌だと思った。
しかしその感情は、嫌悪感からではなく、自分の体格の小ささがまざまざと思い知らされて、情けなくなるからだった。
「なっ、なにすんだ」
じたばたと抵抗するがびくともしない。倉橋は、ますます力をこめて抱く。
谷口は、小柄でも腕力がないわけでは、もちろんない。喧嘩しても背負い投げで相手を投げ飛ばすぐらいのことはできる。
しかし、今は力が入らない。征服されているその感じも、嫌だった。自分が本気で抵抗していないからなのかもしれないが。
(ちくしょう…)
谷口は半ばあきらめ、そのままの姿勢で立ち尽くした。
「お前ってやっぱり」
「やっぱり、なんだよ」
「おもしろい」
「は?」
「おもしろい…違うか。可愛いよ」
谷口は、さすがに頭にきた。
「バカにするな!」
「バカになんかしてねえよ。ほめてんだよ。おもしろいでも可愛いでもどっちでもいいけど、俺は素直に、ほんとにそう思ったんだ」
「いいから、いいかげんに体を離せ」
倉橋は、やっと谷口を解放した。
谷口は、ふうっと息をついた。
なんだかひとりで腹を立てているのが馬鹿らしくなってきて、谷口は、急に頭が冷えていくような気がした。
谷口は、マフラーにあごを埋もれさせ、うつむきかげんでのろのろと歩き出した。
その左隣を、倉橋も歩く。
歩道の街路樹は、無数の白く光る電球で飾られている。華やかすぎる街は、谷口には居心地が悪かった。はやくこの喧騒から逃れたいと思った。
「だいたい、お前と恋愛映画を見に行く時点で間違ってたよ。おかしいよな、男二人で見るもんじゃないし」
「しょうがないだろ。いい時間のが、あれしかなかったんだから」
「お前だって、いいじゃん、いいじゃん、これ流行ってるらしいしとか言ってさあ。俺、映画とかテレビとか全然うといから、信用しちゃったじゃないか」
「でも見てよかっただろ?泣くほどはまってさ」
左から聞こえる倉橋の声は嬉しそうだった。谷口は、急に気恥ずかしくなった。
そんな内面を悟られないように、気をふるい立たせて言った。
「とにかく、これからはお前の友達と遊びに行けばいいよ。俺は行かない」
「友達?」
「そうだよ。“悪い”友達。別れた彼女とでもいいや。そうしろよ。な」
谷口は、倉橋に左腕をグイッとつかまれ、その歩みを止められた。
「ちょっと待てよ。俺はお前の何なんだ?」
それまで横を歩いていた倉橋は、谷口の正面をふさぐように立った。
「何って…」
何なんだって言われても。
谷口は、倉橋の顔を見上げた。
友達の領域 1