6限の終業のチャイムが鳴った。
いつもなら部室に直行する谷口だが、今日は別方向へ向かう廊下を歩いていた。
『別館3階の研修室に集合(時間厳守)』
右手に握った藁半紙のメモにはそう書いてある。
(ああ、めんどくさいなあ…)
谷口の気分を表すように、その歩みはのろのろと鈍かった。
これから、墨高野球部でキャプテンになって最初のキャプテン会議に出席しなければならないのである。
こういう仕事は初めてではないが、どうも自分には向いていない気がして、積極的になれない。
キャプテン=雑用係とみんなが敬遠し、歴代キャプテンがくじ引きで決められてきたのもわからないではなかった。

ふと立ち止まり廊下の窓から体を乗り出すと、野球部のグラウンドが見える。部員たちはまだ全員集まってはいないようだった。
(俺がいないからって、さぼってんじゃないよな…)
川北高との練習試合で甲子園常連校との格差を見せつけられ、多少なりとも部員たちには喝が入ったはずである。
谷口は、窓のさんに体をもたれさせ、グラウンドを眺めていた。
サッカー部のあたりに目を向けると、ユニフォームに着替えた部員たちが、もう柔軟運動を始めていた。

「よお、久しぶり!」
猫背になっていた谷口の背中が、後ろからバン!とたたかれた。
(痛ってえ…)
振り向くと、それはサッカー部のキャプテンだった。谷口は、あわてて姿勢をただした。
「あ、こ、こんにちは」
「お互い、かったるいよなあ、会議なんてよ」
彼は、相木に代わって新チームのキャプテンになった、江藤という男だった。谷口が見上げるような上背を持っている。
一点の曇りも無いような、さっぱりした気性であることが、少し言葉を交わしただけでも察せられた。
なんとなく、相木さんに似ている、と谷口は思った。

「3時半からですよね」
「そうらしいな」
谷口がちらりと腕時計を見ると、時間まであと10分ほどあった。
「サッカー部はいいですね、3年生が抜けても30人近くいるんですから」
「おたくは、えっと…」
「10人です。ぎりぎりです」
谷口は苦笑した。そしてまた、視線を窓の外に向けた。
江藤もうながされるようにグラウンドを見た。
「でも野球部は、あんたを筆頭に少数精鋭だから」
「そんな…。それに、少数すぎますよ」
「またまた。3回戦進出の実績が効いて、4月には入部希望が殺到するんじゃないの」
「だといいんですけど」
そう言って笑う谷口は、野球部の様子を見つめたままでいた。

「指」
「え?」
「その指。よかったな、もうまったく普通に投げられるんだろ?」
「はい」
江藤は体を廊下に向け、窓にもたれて立った。
そして何かを思い出したかのように、唇の右端をきゅっと上げて笑顔をつくった。
「正直、俺は本気であんたにレギュラーを取られると思ったよ」
「え……」
「焦ったよ。だって俺、これでも小学校のときからサッカーやってきて自信もあったんだけど、あんたの成長ぶりはこわいぐらいだったもの。あの時俺は、レギュラーに抜擢されたばっかりだったしさ」

谷口がサッカー部にいたほんの短い期間は、そのサッカー部には嵐のような時間だったようだ。
谷口にとっても、自分の知らなかった世界を体験し、挑戦と挫折と希望をいちどに味わった、実際の時間よりももっと濃密な季節だったように思い出される。
あの時間がなければ、今ほどに野球をいとしく思うこともなかったかもしれない。
野球は、もう絶対に手放したくない、自分の大切な大切な宝物になった。
母ちゃんが言ったように、失うのがこわいほどに大切なものを見つけられた自分は、幸せ者なのだと思う。

「でもな、こわいと思ったのと同時に、あんたがこのサッカー部を変えてくれるんじゃないかとも思った」
「変える?」
「あんたが出場すれば、もっと先まで、もしかしたらほんとに全国…ってこともありえるかも、なんて」
江藤はそう言って、また窓の外に見えるグラウンドに顔を向けた。
谷口が退部したあとの地方予選では、結局、今年もベスト8を超えることはできなかった。これで3年連続である。
本当に自分が出て、どうなったかなんて誰にもわからない。江藤が谷口を買いかぶっていただけなのか、冗談で言っているだけなのか、それもわからなかった。
自分が何を言えばいいのか言葉を捜していると、江藤はまた谷口の背中をたたいた。
「ま、それを今度は俺が実現するんだけどな!」
江藤は、にっこりと笑った。
谷口は、その風貌がやっぱり相木を思い起こさせる気がして、つられて笑った。
「時間みたいだし、そろそろ行くか」
「はい」
大またで歩き出した江藤の後ろを、谷口は小走りでついていった。





会議を終えて谷口がグラウンドに現れると、部員たちはシートノックを始めていた。
「お疲れさん」
倉橋が、ボールを打つ手を止めて声をかけた。
「ああ。いいよ、続けてて」
谷口は、軽くストレッチをしてから、ひとりでランニングを始めた。
グラウンドを一周したあと、ふと空を見上げた。
秋晴れの空がとても高く青いことに気づくと、このまま河川敷まで走ってみたくなった。
「ちょっと、川まで走ってくる」


谷口は、ランニングが嫌いではない。こうしてひとりで走るのも好きだ。
走っている間は頭を空っぽにすることもできるし、もの思いにふけることもできる。
さらには―――というかそれが目的なのだが、心肺機能を高められてしまうという、なんともぜいたくな時間だと思っていた。
堤防を走りながら左手を見やると、川面が日差しにキラキラと映えてまぶしかった。
河川敷の小さなグラウンドでは、子供たちが野球をしている。それを見た谷口は、自分が笑顔になっていくのがわかった。
堤防の道から河川敷に下り、彼らに近づいていった。しかし、以前のように声はかけない。
サッカー部のころ、谷口はたびたび子供たちの野球につきあっていた。
逆に、野球に復帰した今では、もうこうして彼らを眺めることさえできなくなっていた。自分の野球に時間を割くだけで精一杯なのだ。





あのころ、自分の中では、サッカーを続けることについては気持ちの整理がついているつもりだった。
もちろん、野球に未練が無いとは言えなかったが、できないものはしかたがない。
父ちゃんや母ちゃん、丸井やイガラシたちも応援してくれていた。なにより、サッカー部が自分を認めてくれたのだから。
いつまでも同じところに立ち止まってはいられないのだ。
そして、こんなにも周りの人たちに支えられ、そして期待されているというのに、みんなをがっかりさせてもいいものだろうか。
やっぱりお前は、できないことにウジウジとこだわっているんだな、と。
きっとサッカーにだって夢中になれる。本気でそう思おうとした。

でも、できなかった。今野の言ったとおり、自分の魂はすでに野球に行ってしまっていたのだ。
それはボールに触りはじめた、ほんの子供のころからだったのかもしれない。今すぐそばで野球をしている、バットを持つ手もおぼつかない子供たちのような、そんなころから。
だから、青葉で二軍の補欠という扱いを受けながらも、野球を嫌いになることはできなかったのだろう。
周囲も自分も驚くぐらいにサッカーの技術を上げられたのは、断ち切れない野球への愛情の裏返しだったのかもしれない。
そんな気持ちでサッカーをするのは、サッカーに魂を捧げた人たちへの冒涜だったのではないだろうか。



谷口は、グラウンドが見わたせる草むらに腰をおろし、ぼんやりと子供たちの野球を見ていた。
幼い自分の姿を見ているようで、なんだか胸が熱くなった。

ロードワーク  1
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