(1)
今年の東京は、例年になく雪の日が多い。
多いだけでなく、よく積もる。
積もるとはいっても、生活に支障が出るようなものではなく、雪かきさえすればすぐに外に出られる程度である。
それに、雪景色はきれいだ。無機質な街を無垢な色に染めてしまう。
朝起きて窓を開けたとき、見慣れた風景が一変しているのを見ると、新鮮な興奮を覚える。
生活や練習にも苦労するような土地に比べれば、まったくぜいたくだよな、と谷口は窓を見つめながら思った。
しかし今日は吹雪いている。1メートル先も見えない。
これでは外に出ることさえままならない。谷口のため息が、ガラス窓を白くくもらせた。
「なにを見てるんだ?」
「なんにも見えない」
谷口のその言葉を確かめるように、倉橋は背後から窓の外をのぞきこんだ。
「ほんとだ」
谷口の背後から倉橋が長い両腕を伸ばして、てのひらを窓に押し付けると、谷口の体はそのまま固定されてしまった。
谷口は一瞬、息苦しさを感じた。
「まだ昼間なのに、空も暗いし」
そう言ってから、谷口は逃れようと上体をひねった。
そんな小さな抵抗は、倉橋にはなんの効果もなかった。谷口は、窓に追い詰められたままだった。
今日は、校外で練習試合のはずだった。
一応、朝は予定どおり集合したものの、この天候でやむなく中止。
学校に戻って練習をと考えたが、体育館はバスケ部とバレー部が一日使っている。区の体育センターも、日曜とあってすっかり埋まっている状態だった。
仕方なく今日は、おのおの自主トレとして、谷口は部員を解散させることにした。
「明日の朝、雪がやんでたら朝練はいつもどおりやるから。天候は、各自で判断して来ること。以上です」
谷口は、顧問に今日の練習の中止を伝えたり、相手校と次回の試合予定について電話で軽く打ち合わせをするために、部員を帰らせたあとも少し学校に残っていた。
それに、その仕事をしている時間は、雨宿りならぬ“雪宿り”も兼ねているのだった。
普段は自転車で登校しているのだが、さすがに今日は自転車を走らせることはできず、30分以上かけて歩いてきた。あの道を吹雪の中また歩くのかと思うと、ちょっと辛かった。
少しでも天候がましにならないか、と谷口は電話をかけながら窓の外を見ていたが、いっこうにやみそうもない。
ひととおり仕事を終え部室に戻ると、倉橋がまだ残っていた。
椅子に腰かけ、所在なさげに雑誌をパラパラとめくっていた様子から、特に目的もなく残っていたのだと、谷口は思った。―――待つという目的以外には。
しかし谷口は、訊いた。
「どうした?ひどい天気だし、はやく帰れよ」
倉橋は雑誌に向けていた顔を上げた。
「今日は歩いてきたんだろ?」
「うん」
「送るよ」
「俺のうち、お前んちより倍は遠いんだぜ?」
谷口の一応の辞退に、いまさらそんなこと言うのか?といった表情で、倉橋は笑った。
谷口はそれ以上何も言わなかった。何のために倉橋が今まで待っていたのか、わかっていたのだから。
帰る途中、本格的に吹雪いてきたので、倉橋は谷口を家に寄らせた。
谷口は、倉橋の部屋の窓から外の吹雪く様子を見ているふりをしていたが、実はくもったガラスを通しては何も見えない。ただ風が窓をビリビリと震わすのを感じているだけだ。
「明日も、こんな天気なのかなあ」
「明け方にはやむだろうって、さっきテレビで言ってたけど」
「よかった。はやく練習したいもんな」
「そうだな」
交わす言葉のなにげなさに反して、谷口の鼓動はしだいに早まるばかりだった。
窓に押しつけられていた倉橋の両腕が、自分の肩を抱いていたからだ。
「でも雪が降ると、なんかワクワクしないか?俺、子供のときから…」
倉橋は、そんな話でぎこちなく空気を変えようとする谷口を、逃すまいとした。
「子供のときから?」
「そ、そう。ちょっと積もっただけでも大騒ぎして、少ない雪で泥だらけの雪だるま作ったりしてさ」
「わかる。雪が楽しみだったよな」
「うん。なんか嬉しくて、ドキドキした」
そしてこの今も、谷口の胸のドキドキが止まらない。子供のころの、雪を見た日のドキドキとは、あきらかに種類の違うものだと、谷口にはわかっていた。
自分の体が、抗えなくなっていくのにも気づいていた。
倉橋は、いつしか谷口の体ごと自分の胸に引き寄せていた。
谷口も、身を任せるように力を抜いていた。
ただ、自分の早い鼓動が倉橋に伝わってしまっていないか、伝わっていたらなんとなく格好悪いようで、そんなことが谷口は気になっていた。
それは、谷口にとっては唐突とは思わなかった。いつかこういうときが来るような、そんな気がしていた。
倉橋も、あまりにもおとなしく自分の腕の中におさまっている谷口に、正直驚いていた。まるで、以前からこうしていたかのように。嬉しくもあり、とまどってもいた。
倉橋の唇が谷口の額に押しつけられる。谷口は、目を閉じている。少し、まつげがふるえていた。
くちづけは、目頭に、目の下に、鼻先に落とされる。
こうしていることが自然なのか不自然なのか、谷口にはもうわからなくなっていた。
ただ、自分の中に生まれつつある、いままでにない感情が時々もたげるようになってきたことは確かだった。
谷口には、いわゆる恋愛経験はない。いままで、異性と触れ合うことなく生きてきた。
そんなことは谷口にとってまったく重要ではなく、野球に生活のすべてを費やすことになんの疑問もなかったし、不満もなかった。むしろ満たされていた。
しかし倉橋という男が現れてから、谷口は、自分の中のなにかが壊されていくような気がしていた。
いくら谷口が惚れた腫れたにうといとはいっても、自分にぶつけられるストレートな態度に、なにも感じないわけはなかった。
そのストレートな態度というのは、自分への批判や反発も含む。
倉橋は、谷口の欠点を躊躇なく指摘する。それは谷口を悩ませ、時に腹を立てさせる。
しかしそれは実にまっとうなものであり、理不尽な批判はいっさいなかった。
痛いところを突かれるだけに頭にくることもあったが、むしろ、よくも他人のことをこんなに観察しているものだと感心すらさせられた。
そして、谷口はその痛い言葉に込められた、自分を成長させたいという倉橋の思いを感じ取ることができた。
恵まれた体格はうらやましかったが、倉橋のほうが自分より実力が上だとか、そういうことは思わない。
同い年のくせに大人ぶっていて、妙に上段に構えたような態度が、かんに障ることもある。
それでも倉橋に認められたい―――倉橋と対峙したときに恥ずかしくない自分でいたい、と思う。
その思いが、自分をもっと高みへと成長させるモチベーションのひとつになっている気がしている。
いままで、こんな人間が自分のまわりにいただろうか。
自分の中のなにかが壊されていく。それは、いままではただ野球への愛情だけで生きてきた自分が、なにか別の感情に支配されてしまうことを意味している。
野球ができなくなるかもしれないと思ったとき、野球がどれだけ自分にとって大切なものなのか改めて悟らされた。失うのがこわくてしかたなかった。
そしてまた、自分にとって失いたくないものができてしまうのだろうか。それは、倉橋という存在。
失うものがこわいほど大切なものを手に入れるたび、自分の弱さも増えていくような気がした。
変わっていく自分が、谷口はこわかった。弱い自分になりたくない。
そんなことが谷口の頭の中をぐるぐると駆け回っているが、今はただ、倉橋の腕の中にいるここちよさを、自分にとって自然なことと思うことにした。
きっと倉橋は、いままでにこの腕に何度も女の子を抱いてきたのだろう。
それに嫉妬するというのもおかしな話だが、自分をそんな過去のひとと同じく十把ひとからげに扱われるのなら、それは悔しい気がした。
経験値の差、というものなのかもしれないが、それは倉橋にはどうやっても勝てるものではない。
しかし、倉橋に軽んじられたくないと思う自分が、確かにいる。
いつか、雪の朝に