(2)
「倉橋」
谷口は目を閉じたまま名前を呼んだ。
倉橋は、谷口の顔に唇を点々と這わせている。
くすぐったそうに、谷口は指で自分のほほを引っかいた。
「こんなこと、ほんとは変なんだろうけどさ…」
やっぱりお前もそう言うのか、と倉橋は一瞬興ざめた。
そして少し抱きしめる力を緩め、谷口の顔を見た。
その表情は拒むものではなく、どこか夢うつつだった。倉橋は、目の下を赤くしたその表情に、たまらなくなった。
こんなこと、ほんとうはおかしいということは、倉橋も嫌というほど自覚している。
谷口を大切に想っている。それは偽りない気持ちである。
それなのに、自分の抑えきれない気持ちに逆らえず谷口をこんな関係に巻き込んでしまっている。その罪悪感も、背徳感も感じている。
谷口は、自分と出会わなければよかったのではないか。出会わなければ、こんな他人には言えない秘密を抱えこむこともなかったのに。
大切に想っているなら、身を引くべきなのだ。倉橋は、そんなこと頭ではずっと前からわかっていた。
しかし、こうして触れあえる悦びに負けてしまう。
はたして、谷口は本当に自分を受け入れているからこうしているのか、それとも自分に押し切られているからなのか、倉橋にはわからない。
ただ、谷口がこのまま拒まないのなら、すべてを自分のものにしたいという欲望をいつかきっと吐露してしまうだろう。
やめなければ、いつか谷口をつぶしてしまうことになる。
「嫌か?」
「なんで?」
「なんでって」
倉橋は谷口から視線をはずした。
「お前、こんなの変だって言ったじゃないか」
谷口は、少し体を起こして、倉橋の体をぎゅっと抱きしめた。
「嫌なら、俺はここにはいない」
倉橋も谷口の体を抱きかえした。
それでも、お互いの気持ちを確かめたことはない。
言葉にするのがこわい、と倉橋は思っていた。
確かにこの気持ちは、恋愛にちかいもののような気はするが、恋焦がれているのかというと、それも違う。
谷口に触れていたいという気持ちと、ただずっと一緒に野球をしていたい、そして谷口からの一番の信頼を得ていたいという気持ちは、どれも偽りなく倉橋の心に存在するものだ。
しかし言葉にすることで、この恋愛関係のような、親友でもあるような、ここちよい不思議なつながりが断たれてしまうのではないか。
谷口は、自分を拒絶するかもしれない。友達という関係すら、失ってしまうかもしれない。
それが倉橋はこわかった。そうなるくらいなら、胸に秘めていたほうがいいのだ。
自分も谷口も、お互いが家庭を持つ日が来るだろう。
それでも、自分の心の一番大切な場所にずっと棲んでいるのは、谷口だと思っている。
今まで男をこんなふうに想ったことはない。
倉橋には女性経験もそれなりにある。
なぜ谷口に対してここまで求めてしまうのか、実のところ自分でもわからない。
しかし倉橋には、初めて谷口を言葉を交わしたときから、どうしようもない庇護欲が掻き立てられていた。そんな自覚はある。
中学野球日本一のキャプテン、高校でも弱小野球部を初の3回戦進出に導いた立役者。前代未聞の一年生キャプテン。
そんな華々しい肩書きとは裏腹な、下級生キャプテンとして戸惑う男。それが谷口だった。
しかし、ナイーブなだけの男かというと、そうではない。
大胆な腹の据わった指示もできるし、案外、情と実力は別、と割り切るドライなところもある。(というか、それが地であったわけだが)
もしかしたら、こうして魂を近しくできたと思えても、夜が明けたら、何もなかったかのように自分から離れていってしまうかもしれない。
そんな、どれが正体なのかわからないところも、倉橋をたまらなく惹きつけた。
守りたい、助けたいという庇護欲と、拒まれるかもしれないという恐怖感と、すべてを知りたいという欲求が、しだいに高まっていった。
倉橋は、谷口の体を床の上に横たえた。
外はまだ吹雪いている。ごうごうという強い風の音だけが聞こえている。
倉橋は自分の手を谷口の手にからませ、視線をその顔に落とした。
谷口も、じっと倉橋の目をみつめている。
これは夢じゃないよな、と倉橋は自分の頬をつねりたくなった。
谷口の口が、何かを言いたげに小さく動いたので、倉橋はその唇に耳をよせた。
「…お前は、女の子と何度もこんなふうにしたことがあるんだろう?」
その言葉に、倉橋は急に現実に引き戻された。いきなり背中に水を浴びせられ、体が冷えていく気がした。
「な、なんで」
そんなこと今言うんだ、という言葉を最後まで言うことができなかった。谷口の意図するところがわからない。
しかし、このつないだ手を離すことはできなかった。惚れた弱みを握られている感じだ。
「倉橋」
「なんだよ」
「俺に、女の子にするみたいに、してくれよ」
それを聞いて、倉橋の顔がかっと熱くなった。
倉橋は、黙って谷口の体におおいかぶさった。
くちづけを、額に、まぶたに、耳に降らせていった。そして首筋に軽くかみつくと、舌先でゆっくりとなで上げた。
「あ」
谷口は、小さな声を上げた。
「怖いか?」
「まさか」
その震える声に、倉橋は気の毒なような可笑しいような、複雑な気持ちになった。しかしそのあとに強烈な愛しさがこみあげてきた。
「意地っぱりだな」
「知らなかったのか?」
「知ってたよ」
倉橋は、ほどいた手のひらで谷口の頬に触れた。その頬はほんのりと熱をおびていた。
谷口は、その手の甲に自分の手を添えた。そしてにっこりと笑った。
倉橋は唇で、谷口の唇をふさいだ。
いつか、雪の朝に