(3)
しばらく谷口は、眉間にしわを作り、まぶたを小さく震わせていたが、しだいに安心したような、おだやかな表情を見せた。
倉橋が唇を離すと、谷口はうっすらと目を開けた。
谷口は、倉橋を嫌悪する様子でもなく、かといって微笑むでもなく、ただぼんやりとそのままの姿勢でいた。
その反応のなさに、倉橋は言い訳をするように早口で口走った。
「自分から言ったんだからな。女にするみたいに、って」
「うん」
「いまさら嫌だった、とか言うなよ」
「うん」
そうは返事するが、まだ何か言いたげな表情の谷口に、倉橋は少しいらついた。
「谷口」
急に心もとなくなった倉橋は、思わず名前を呼んだ。
谷口はその声に、うつむいていた顔を上げて応えた。顔が赤かった。
「嫌なんじゃない。ただ…初めてだったから」
(えっ)
と、倉橋は一瞬ひるんだ。
「俺、初めてだったんだ、こういうことするの」
「そ、そうか」
動揺した心のうちを見せないように、倉橋は谷口から視線をそらした。
谷口のそんな言葉に、倉橋はうぶな女の子を相手にしているような錯覚に陥った。
実際、うぶな女なら落とす自信はある。しかし相手が谷口なのが、たちが悪い。
うぶに見えても、逆にどこか自分の気持ちがもてあそばれている気分になることがあるのだ。
(こういうの、はまってるっていうんだろうな)
そんな自分を少し情けなく思いながらも、そんなふうに流されるのも悪くないと感じていた。
倉橋は思った。やっぱりこれは、恋焦がれてるんじゃないんだろうか。
夕刻が近づいても、窓の外では雪がまだやまない。
吹雪はおさまっていたが、きっと予報どおり明け方まで降り続くのだろう。
倉橋は、このまま一緒に夜を明かして、朝の雪景色を見たいと思った。
しかし、今日の自分には、きっとおとなしく谷口のそばにいることはできないとも思っていた。
倉橋が自分の深爪ぎみな指先を見つめながら黙っていると、谷口はすっと腰を上げた。
「俺、帰るよ」
「…ああ」
引き止めることはしなかったが、さっきまでの感触が残っている倉橋は、このまま谷口をひとりで帰したくなかった。
「家まで送る」
「いいよ。走って帰れば大丈夫だよ、もう吹雪いてないし。それに、今日は“自主トレ”ってことになってんだから」
窓の外をのぞきこみ、谷口は笑ってそう言った。
そういうことじゃないだろ、と倉橋は、思いどおりにならないはがゆさを感じた。
ケロッとしやがって、さっきまでの、あの頼りなげに顔を赤くしていたお前はなんだったんだ、と。
谷口にはやっぱり、心を転がされる。つかんだかと思えば、ふとすり抜けてしまう。
グラウンドを離れるとつい忘れがちだが、谷口は勝負にかけてはかなりしたたかな策略家なのだ。
無意識なのだろうが、恋愛においても、こうした微妙な駆け引きをするタイプなのかもしれない。
そして経験に勝る倉橋をも振り回し、惹きつけてやまないのである。
「解散前に言ったけど、明日の朝、雪がやんでたらいつもどおり朝練やるからな」
「わかってるよ」
「雪かきもトレーニングの一環なんだから」
ほんとかよ…と突っ込みたかったが、谷口の真剣な表情に、倉橋はうなずくしかなかった。
「わかってるって」
「わかってんなら、いいよ」
満足そうに、谷口はにっこり笑った。
その“偉そう”な態度に、倉橋はちょっとむかついた。
「確かに俺は部員に小言を言う役を引き受けたよ。でも、お前が俺に言う小言はうるさすぎるんじゃないか?」
「だって、ほかにお前に小言言う人間がいないじゃないか。キャプテンの俺が言わなくて誰が言うんだよ」
谷口は、倉橋の胸もとをトン、と指ではじいた。
そうビシッと言い切る谷口が、さっきまで腕の中にいた谷口とは別人に見えた。
自分のものになるようで、ならない。なんなんだこいつは、と倉橋の心はかき乱される。
また抱いてやろうかと思ったが、今の谷口には手が出せないような気がして、やめた。
明日の朝に見る谷口の顔も、きっともういつものキャプテンの顔だ。
生真面目で融通がきかなくて、他人にも自分にも厳しいキャプテン。
それでこそ自分の誇りにできる谷口だ、と倉橋は思う。
しかし、てのひらで解ける淡い雪のような、つかみどころのなさもまた、谷口の素顔の一面なのだろう。
そのいろんな表情に、倉橋は惹かれていた。
玄関先で、ぶ厚いマフラーを3重に巻いて帰り支度をする谷口に、倉橋はニット帽を貸した。そしてダウンジャケットのフードをぽん、と頭にかぶせてやった。
「あったかいな、これ」
そのニット帽は倉橋にはぴったりでも、谷口がかぶると顔の半分まですっぽり隠れてしまう。
「やるよ、その帽子」
「ええ?いいの?」
そう言うその姿なんともが無邪気で可愛らしく、倉橋の顔はほころんだ。
そして、つい吐き出してしまった。
「俺、お前と一緒に見たいんだ。一緒に朝一番に、おんなじ部屋で…朝の雪をさ」
2、3秒考えてその言葉の意味を悟った谷口は、はっとして表情をこわばらせた。
倉橋は、その谷口の顔を見てあわてて言った。
「い、いや、その、変な意味じゃなく……そういう意味なんだけど…いやなんでもない、忘れてくれ!」
倉橋は、この自分の焦りぶりが恥ずかしかった。女の前では、絶対にこんな醜態などさらさないのに。
自分の過去の恋愛経験は、谷口に対してはまったく意味をなさなかった。
谷口は、しばらくうつむいて黙っていたが、硬い表情のまま言った。
「あの、どう言っていいかわかんないけど……すぐにじゃないけど、俺の心の準備ができたら」
そこまで言って、顔を上げた。その顔は赤かった。
「お前に、応えるから」
そう言い終わるか終わらないかのうちに、谷口は玄関を飛び出していった。
雪はまだ降り続いている。
倉橋は、その姿が雪にまぎれて消えてしまうまで、谷口の走っていった方向を見つめていた。
倉橋は、今日のことが、雪がもたらした幻のような気がしていた。
やっぱり明日になると今日の谷口はいなくなってしまっているような、そんなはかなさを感じる。
それでもいい。焦らなくても、きっと俺たちは少しずつ近づいていっているのだと思いたい。
倉橋は、さっきまで最高潮に高鳴っていた鼓動がだんだんと静まっていくのを感じながら、玄関のドアを閉めた。
いつか、雪の朝に