地方予選を1週間後に控え、いつものように練習を終えて帰宅したのは、夜も9時を過ぎたころだった。
一日の休みもなく偵察に特訓にと走り回る毎日には、さすがの谷口も自分が追い込まれているような感覚に襲われることがあった。
それでも、悔いない夏にしたいという思いは、谷口をさらに熱くした。
玄関にたどりついても心も体もクタクタで、「ただいま」という声すら出ない。
だまったまま土間で靴ひもをほどいていると、母親の声がした。
「タカオ、帰ってきたのかい?電話だよ」


「…やあ、谷口」
「相木さん!?お久しぶりです」
谷口の声は、ふだんよりワントーン高くはずんだ。
さっきまで感じていた疲れも忘れるほど、なつかしさで興奮した。
実際、相木の声を聞くのは卒業以来なのである。
「あいかわらずがんばってるみたいだな。すごい活躍じゃないか」
久しぶりに聞く相木の声は、とても優しい。谷口は胸が高鳴った。
「来週、地方予選が始まるんですよ」

いっぽう相木は、谷口の無邪気な明るい声にとまどっていた。
相木の知っている谷口は、もっと内にこもった印象の男だった。
きっと、サッカー部にいた頃はサッカーにも本気になれず、かといって野球に戻ることも、野球を忘れることもできない、混沌とした思いでいたからだろう。
一見明るく見えても、相木には、谷口がいつも何かを胸の中に抱え込んでいるように感じられた。
だが、今の声は違う。とても明るくて一点の曇りもない。
その声からは、大好きな野球ができる喜びに満ちているのが、離れていてもじゅうぶんに伝わってくる。

「狙ってるんだろう?甲子園」
「えっ」
不意を突かれたように、谷口は言葉をつまらせた。しかし2、3秒の沈黙のあと、はっきりと答えた。
「はい」
谷口の声には、自信が感じられた。無駄に謙遜もしないが、できないことをできるという男でもないということを、相木は知っていた。
きっと、本気なのだ。
その明るい声に誘われるように、相木は言った。
「谷口、予選前で忙しいだろうけど、一日だけ俺につきあってくれないかな」
「え…」
「だめか?」
谷口は、ほんの少し考えた。
実際、一日の余裕もないといえばないのである。しかし正直、自分にも、会いたいという気持ちがあった。
谷口にとって、相木はいろんな意味で「恩人」なのである。感謝もしているが、なにより尊敬できる人間だった。
相木の存在がなければ、自分は今頃、間違った方向に進んでいたとも思えるのだ。
高校時代の相木は、とても前向きで、たとえるなら太陽のような人だと谷口は思っていた。
何度も自分に自信を与えてくれたし、チャンスもくれた。
会えば、また自分をいい方向に導いてくれるような気がしたのだ。この、追い込まれてつぶれてしまいそうな自分を。
返事をするのには、時間はかからなかった。
「僕も会いたいです」





「あれ?谷口は?」
練習をのぞきにきた田所が、半田に声をかけた。
「キャプテンは、今日は休みなんです」
田所は首をかしげて、差し入れのアイスクリームがつまった袋を半田に押し付けた。
「めずらしいこともあるもんだな、予選も近いってのに…。体調でも悪いのか?」
「誰かと会う約束があるんですってよ」
そう答えたのは、倉橋だった。
「約束?へーえ…」
田所は、一応それで納得した様子だった。
「まったく、予選前だっていうのにキャプテンがこれじゃあな…」
倉橋がそう小さくぼやくと、田所はフェンスから体を乗り出して言った。
「お前、聞いてなかったのか?休むこと」
「いえ、聞いてましたよ。悪いけど明日は頼むって電話がありましたから」
誰と会うのかも、倉橋は聞いていた。しかしその名前は、あえて口にはしなかった。したくなかったのである。

別に谷口は、自分のものでもなんでもない。谷口が誰といつ会おうと、そんなことに口を出す立場でもない。
でも時期を考えろよ、今がどんな大事なときかわかってるはずだろう?一日だって、一時間だって余裕はないって自分で言ってたじゃないか。
自分が谷口に対して怒っている理由は、それだった。―――表むきは。
本当は、谷口がそんなこと承知であることもわかっているし、自分を律することができない人間でないことも知っている。遊びを優先することはありえない。
それでも、あの人―――相木と会うことを優先した。相木でなかったらこの時期の一日をつぶすことなんてなかったんじゃないかとも思う。それほどに、谷口にとって大事な人なのだろう。
それがやけにむかつくのだ。
実際、一日練習しなかったことで大勢に影響することはないのだろう。
問題はそういうことではない。谷口が何を選んだかということなのだ。
声をかけたのは相木のほうからなのだろうが、この時期に呼び出すことにも、腹が立った。

 体のわりに小せえ男だって言われてもかまわない。
 自分のものでもない人間が、思いどおりにならないからって、じたばたしてるんだよ。ほんと、ぶざまだな。

倉橋は小さくため息をついたあと、自分の気持ちを奮い立たせるように声を上げた。
「さあノック始めるぞ!モタモタすんな!」






相木さんは、どうして突然、自分と会いたいと言い出したのだろう。
谷口は相木と一緒にいる間、ずっと考えていた。自分に火急の用があるわけではないらしいのに。
それが迷惑というわけではない。むしろ嬉しかったのだ。
相木のことを、谷口も時おり思い出すことがあった。
しかし、自分はサッカー部の後輩ではないからOBとのつながりもなく、進学してから下宿をはじめたという相木の連絡先は、もうわからなくなっていた。
連絡するきっかけもないまま今に至ったわけだが、もちろん、機会があれば会いたいとも思っていた。
一日、場所を変えては、サッカー部のこと、野球部のこと、相木の大学のこと、そんなことをとりとめなく話していた。

高校時代の話はふたりにとってなつかしく、大学の話は谷口にとって新鮮なものだった。
谷口がキャプテンになってから墨高がシード権を得るまでのいきさつを、相木は初めて詳しく聞いた。
それは、相木にとっては驚くよりもむしろ感動的に思えた。
黙って野球部の練習をながめていたあの一年生が、いまや堂々たるシード校のエースである。
これからどこまで成長していくのか、相木には想像もつかない。
もっとも、谷口本人もわかっていないような口ぶりではある。今はただ、目の前に控えた予選突破のことしか頭にない様子だった。


「僕、相木さんに感謝してるんです」
何軒目かの喫茶店の席で、谷口はテーブルの上に置かれた相木の手の甲を見つめながら、言った。
「なんだ、改まって」
「うまく言えないんですけど…」
谷口は、逸らしていた視線を相木の顔に向けた。
「あの時サッカー部に誘ってくれなかったら、今の僕はないって思うんです」
「俺は、お前をもっと早く、いや最初から野球部に入れてやればよかったと今でも思うよ」
「違います。あのサッカー部の経験があったからこそ、もっと野球を好きになれたんです」
谷口の曇りのない瞳が、今の言葉に嘘がないことを証明していた。
そして谷口は、また視線をはずして言った。
「それから、僕の目指すキャプテン像は、相木さんなんですよ」
照れくさそうに笑う谷口を、相木は直視できなかった。
自分を語る谷口の言葉、ひとつひとつが苦しい。そんな理想的な人間と思われることが、嬉しくもあり、辛くもある。
「やめろよ、くすぐったい。お前の買いかぶりすぎだ」
「ほんとです。明るくて太陽みたいで、そういう人間がリーダーなら、きっとみんなついていくはずです。…僕は、なかなか近づけないですけど」
「違う!」
突然声を荒げた相木に、谷口は体をビクリとさせた。
おびえたような表情の谷口を見て、相木はハッと我にかえった。
「わ、悪かった。…でもな、谷口。俺はそんな立派な人間じゃないんだ」


むしろ、相木にとって谷口こそが太陽だった。
まわりからどんなに不可能と思われても、自分がこうと決めたら目的に向かって突き進む、そのバイタリティは、相木にはうらやましいものだった。
確かに、高校時代の自分は、自分の可能性を信じる純粋さをもっていた。
しかし、なまじ体格やセンスに恵まれていただけに、自分の限界を見極めてしまうのも早かったように思う。
限界のその先を目指すことができれば、サッカー部を全国大会へ導くことができたのかもしれない。
谷口がサッカー部にいたころ、一瞬、その限界の先を想像した。しかし、それっきりである。
自分はその程度なのだ。谷口にここまで尊敬される人間ではない。あの頃の熱さはとうに冷めている。

大学2年生の自分を振り返ると、時間が無為に過ぎていっているだけの毎日に思えて仕方がないのだ。
サッカーは続けているけれどプロになるわけではない。就職に有利といわれる学部で、単位を取るためだけに出席する授業。まわりの友達も似たようなものだ。
なんとなくつきあっている彼女が夜遅くに連絡がつかなくても、嫉妬の感情もわかなくなった。潮時なのだろう。
3年になるとそろそろ就職の話題ものぼる。自分は、何になりたいのだろうか。就職するにしても、どこに、何のために。
それを考えることすら避けるようになった。
そんな宙ぶらりんの、無為な日々。


谷口に会いたくなったのは、その太陽のような熱さに触れたくなったからかもしれない。
純粋さを持ち続けるというのは、難しいことだと思う。谷口もこれから、夢と現実のギャップにますます苦しむ経験をするだろう。
それでも谷口は、自分の可能性を見限ることはないのだと思う。そういう男なのだ。
相木は、その熱さに触れるのが、今日を最後にしたくないと思った。

戻れない夏  1
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