『雨の日は、心が素直になると言った人がいる』

谷口は、小雨の降る窓の外をぼんやりとながめながら、現国の授業を聞き流していた。
内容は、現代詩らしい。
“らしい”というのは、本当に聞き流していたために、谷口の耳には朗々と読み上げる先生の声だけが聞こえていて、その中身までは頭に残っていないからだった。
ただワンフレーズをのぞいては。
(雨の日は……ねえ。そういうものかな…)
窓が雨に濡れて、谷口の目には外の景色がにじんで見えている。

土曜日は半日で授業が終わる。
もちろん野球部は午後からも練習がみっちりとあるわけだが、通常よりは早い時間に切り上げることもでき、そのあと部員みんなでごはんを食べたり、バッティングセンターに遊びに行ったりと、普段とは違う一日が過ごせる。
そんなささやかな楽しみを思うだけで、午前中の3時間の授業などあっという間に過ぎてしまう。
土曜日はなんとなく心が浮き立つ日だ。
(授業に身が入らないのも、無理ないよな)
谷口は、鉛筆をくるくると指で回しながら、心の中で言い訳をしていた。

窓の外は雨。霧のような雨である。
この程度なら練習を中止することもないな、と谷口は判断した。



午後からの練習を始めてから2時間は経っていただろうか。
いつからか、グラウンドのすみに女子生徒が立って、じっとこちらを見ているのに、谷口は気がついた。
あまりの真剣なまなざしに、谷口はドキッとした。
(まさか、俺…?)
その一瞬の勘違いに、谷口は恥ずかしくなった。彼女の視線は、谷口のむこう、倉橋に向けられているのだった。
倉橋はそれに気づいているのかいないのか、いつもどおりの無愛想な表情で、淡々と外野のノックを続けている。
小雨の降る中を傘もささずにたたずんでいる彼女を、倉橋は一瞥もしない。
意識的に彼女の方向を見ないようにしているのだと谷口は思った。




練習を5時すぎに終えたあと、みんなで晩ごはんを食べて帰ろうという話になった。
「俺、またいい店見つけちゃったんだよな」
山本が、雑誌を片手に切り出した。そういう情報には山本がめっぽう強い。
と思いこんでいるのは本人だけらしい。
「ちょ、ちょっと大丈夫かよ。こないだの店はハズレだったじゃんか」
「そうかあ?そんなにハズレてたかよ。でも今度は大丈夫だから!」
山本の“大丈夫”を信用しきれない中山は、最後まで渋っていた。
「まあまあ、中山さん。山本さん、俺はこの前のお店、おいしかったですよ」
「だろう?やっぱり谷口は素直でいい奴だよ」
山本は、谷口の坊主頭をガシガシと撫でた。
「…谷口の味覚なんてあてにならないっての」
そう愚痴りつつも、中山は山本が持ってきた雑誌の地図をチェックしている。

2年生の谷口や倉橋が部の中心なためか、野球部は先輩後輩の関係が、他の運動部に比べてよくも悪くも和気藹々としている。
それが外から見て、甘いと取られることもある。しかし谷口は、部員おのおのに常識と、相手を尊重する気持ちさえあれば、おのずと規律も生まれてくるものだと思っている。
実力無視の、いわゆる体育会系のタテ関係を強制することそのものが目的になってしまったら、本当の目的を見失うことになってしまう。
ただ馴れ合いのような関係にはしたくない。ひとつの目標を達成する集団の中には、適度な緊張感と、競争意識も必要だと思っている。
しかし、練習帰りにみんなで遊んだりするのは、谷口も素直に楽しい。



「悪い。今日は俺、パスします」
わいわいとみんなが帰り支度をする中、先に着替えを終えた倉橋は、そう言って部室を出て行った。
窓からは、部室から出た倉橋があの女子生徒のそばに歩いていく姿が見えた。
「…あれ、倉橋の彼女だろ?」
「あいつのどこがいいのか、女が切れない奴だよな。今度の彼女はけっこう長いみたいだけど」
「彼女?」
そう訊きかえす谷口に、山口がからかうように言った。
「なんだお前、知らなかったのか?ほんとにお前はそういうことにうといな」
「ほんと、相棒に彼女がいることも知らないのかよ」
太田がたたみかける。
「いえ、それは知ってましたけど…」
谷口は、彼女とは別れたと聞いていた。今は誰もいないと言っていたのだ。

 …なんだ、続いてるんじゃん。なんでそんなうそつくんだよ。

それにしても、谷口の知る限り、倉橋は練習を休むこともないし、たまの休養日には野球部の連中か、自分と過ごすことがほとんどである。
そんな中でよく彼女とも続けられるものだと感心する。
(要領がいいというか器用というか…)
女たらしは、そのぐらいじゃないと務まらないんだろ。
自分とはまったく違う種類の人間なんだな、と谷口は、心の中で毒づいてみた。




「あ、ここだここだ」
「あのねえ、人を誘うんだったら、店の場所くらいリサーチしといてくれる?腹が減ってしょうがないよ」
中山がぼやくのも無理はなかった。
順調に行けば学校から30分もあればじゅうぶん着けるであろう店に、山本の先導で向かった一行は、1時間近くかけてようやくたどりついたのだ。
店のドアを開けると同時に、谷口はあることを思い出してハッとした。
「す、すいません、俺、部長先生に呼ばれてたの、忘れてました!」

部長に、部活のあとに職員室に来るよう言われていたのは、事実だった。
区の広報誌に墨高野球部を取り上げる企画があって、谷口が取材されるらしい。
インタビューのたぐいが苦手で仕方がない谷口は、もちろん断って欲しいと申し入れた。
しかし部長はそんな谷口の意思は完全無視で、取材を受け入れることを決めてしまっていた。
今日は、その取材の日程を決めたいと言われていたのだ。
そんなこともすっかり忘れてしまっていた。
倉橋と彼女が残るグラウンドから、はやく去りたいと思っていたのかもしれない。
とにかく谷口は、急いで学校に戻ることにした。





部長に遅刻の嫌味を言われながらも、とにかく取材の日を来週の火曜日と決めることができた。
うっとおしくてため息しか出てこない仕事だと思った。
谷口が職員室を出て窓の外になにげなく視線を向けると、グラウンドのすみに誰かが立っているのが見えた。

小雨の降る中、倉橋がひとりでたたずんでいる。
ボールを片手に、投げるでもなく手の中でもてあそんでいるふうだった。
谷口は校舎を出るとグラウンドに向かい、倉橋に近づいていった。
倉橋はその気配に気づき、うつむいていた顔を上げた。


「…みんなと帰ったんじゃなかったの」
倉橋は、今日のノックのときのような無愛想、というよりは無表情な顔をしていた。
谷口は、自分に対してこんな顔をする倉橋を初めて見た気がして、ぞっとした。
「あの…さっき一緒にいた子」
「ああ」
「彼女だろう?」
一瞬、倉橋はばつが悪いような表情をした。しかしすぐにそれをごまかすように笑った。
「気になるか?」
「べつに…。ただ、お前、彼女とは別れたって言ってたからさ」
「別れた、つもりだったんだけどさ。泣かれた」

女の子を泣かす。そういうことは谷口にとって、自分とはまったく無縁の行為だった。
倉橋が、ひどく悪い男に思えた。
「…ちゃんとしてなかったのかよ。それってひどいよな」
「お前に女のことで諭されるとは思わなかったぜ」
「そんなの、男も女も関係ない。誠意の問題だろ」

谷口は、自分が、妙に倉橋に絡んでいると思った。
自分から振ったとはいえ、相手を傷つけたことに対して少なからず倉橋も心を痛めているだろうに、自分はどうしてこんなにムキになって絡むのだろう。
「俺にそういう子ができたら、誠意を持って、いつまでも優しくしてやるけどな。もし別れることになってもちゃんと話して…」
「可愛らしいこと言うね、お前」
倉橋は谷口の、まるで幼い女性観、恋愛観に吹き出しそうになった。
はたして、野球で埋め尽くされているであろう谷口の心に、女が入り込むすきがあるのかどうか。
しかし倉橋は、骨の髄まで野球馬鹿のこの男が恋に落ちたら、いったいどういう行動をとるのか、どんな表情をするのか、見てみたくもあった。

雨の日は  1
next