呼吸ができない。
谷口の体は、壁際に追いつめられていた。しかし谷口の腕も、倉橋の背中を抱いていた。
ふたりの唇は、際限なく求めあうように、離れてはすぐに重なり、それをくり返していた。
息苦しく思うものの、谷口は離れることができなかった。
頭の中が、ぼうっと白く煙っていくような感覚に襲われた。


卒業式をあさってに控えた今日は、春と呼ぶにはまだ寒い日だった。
窓の外には、小雪もちらついている。
「泊まっていけよ」
「……」
「嫌か?」
谷口は、うつむいて黙っていた。

倉橋が自分を求めているということは、谷口にはわかっていた。
ふたりきりのときに友達の域を超えた愛撫が施されるようになって、もうしばらくたつ。
深いキスも交わすようになった。
それらは、谷口にとってここちよいもので、ひとりの人間に求め愛されるという快感を初めて知った。
ただ、これ以上求められたら、自分がどう応えていいかわからない。

倉橋は、過去に何人かの女性と交際していたことを隠さない。
そんな倉橋が、自分に幻滅してしまわないか。谷口はそんなことも考えてしまう。
谷口にとって、誰かから愛され求められることも、誰かを愛し失いたくないと思う気持ちも、なにもかも初めてのことだったのだ。
谷口は、そんな不安のために、倉橋の誘いにもついうつむいてしまう。


倉橋は倉橋で、やっぱりだめなのかと、小さくため息をつく。
そして性急な自分に言いきかせる。
(急がないって決めたのに)
倉橋は、自分の腕の中で小さくなっている谷口を、苦しめたくはなかった。
「ごめん。困らせたな」
倉橋は、谷口の眉の上あたりに、唇を押し当てた。
谷口は、泣きたくなった。
ほんとうは、もう許している。一歩踏み出す、自分の勇気がないだけなのだ。
谷口は腕を伸ばし、倉橋のほほを両手ではさむと、自らくちづけた。
「いいよ」
「…無理するな」
「違う」
もう一度、深いキスをした。のどの奥がヒリヒリするような、しかし甘い感覚に流されそうになる。
「いいんだな?」
「ああ」
そう返事はするが、硬い表情のままの谷口が、倉橋は少し気の毒に思えてきた。
「…なにも、つらいことするわけじゃないさ」
谷口は、顔を赤くして訊いた。
「俺は、どうすればいい?」
「俺に抱きついてればいいよ」
倉橋の言葉に、谷口はますます顔を赤くした。
倉橋はそんな谷口を見て、もうどう拒まれても帰せない、と思った。




谷口は、夜になっても、家の中には誰もいないことに気づいた。
何度も倉橋の家には来ているが、家族がそろっていることはめったにない。
たまに倉橋の姉と廊下で顔を合わせる程度だ。
(うちとはだいぶ違うな…)
浴室から出ると、借りたTシャツを着た。それは、谷口には大きすぎて、肩幅が余ってしまっていた。
さっき電話を借りて、今日は倉橋の家に泊まらせてもらうと母親に告げた。
倉橋のことを、無二の親友と信じて疑わない母親。確かに、つい数ヶ月前まではそうだった。
得がたい親友に違いなかったのだ。
谷口は、母親を裏切るような気持ちで胸が痛んだ。
それでも、今夜は帰れない。一緒にいたいという思いのほうが、ずっと大きくなってしまっていたのだ。







カーテンから差し込む月明かりだけが、部屋の中を照らしている。
その闇の中で響くのは、ベッドの上に腰かけたままでくり返す、くちづけの湿った音だけだ。
谷口は、倉橋に体をあずけながらも、倉橋の背中にまわした自分の腕に、力が入ってしまうのがわかった。
「痛て…」
「ご、ごめん」
谷口はあわてて体を離した。
倉橋は苦笑して、谷口を逃がさないようにまた抱きよせた。

ベッドに谷口の体を横たえ、深いキスをくり返した。
くっついたり離れたりするその唇からは、粘着質な音がしている。
倉橋は、谷口にくちづけながら、Tシャツの裾の下から谷口の腹に触れた。
その指先がひんやりとしていて、谷口の体が硬直した。
指は、上半身を優しく撫でる。くすぐったくて、いやに扇情的なその感触から逃れるように、谷口は硬くしていた体をひねった。
「…逃げるなよ」
闇の中で低く響く倉橋の声に、谷口は捉えられてしまった。



迷いは捨てたはずなのに、谷口は自分のしていることが怖くなった。
夜が明けたら、きっと今までの自分とは変わってしまう。
学校も友達も家族も、そして見慣れたグラウンドも、違って見えるかもしれない。
それは果たして自分にとって幸せなことなのだろうか。
何もなかったことにしてしまえば、昨日までの毎日と変わりなく、そして何も知らないまま卒業することができる。
今自分がこの腕から逃げたとしても、倉橋はそれを責めることも、自分をおとしめるようなこともないだろう。
チームメイトであることも変わりない。
ただふたりの間に、一生胸の中に抱えておくしこりを残したまま別れるだけだ。
しかし、お互いの気持ちを知る前の、親友に戻ることはもう二度とできない。

谷口は、倉橋に身をまかせている間、気持ちを明かされたときのことを思い出していた。



谷口はその言葉を聞いたとき、しばらく口がきけないでいた。
ショックというのではない。嫌な気持ちでもない。
言葉にせずとも、お互いがあきらかに他の友達とは違う感情を持っていたことには、もうずいぶん前からわかっていたのだ。
時おり、倉橋は自分を抱きしめた。そして優しく体に触れてくることに対して、嫌悪感を持つよりも、むしろ自分はそれを受け入れていた。
自分がその愛撫を待つような、媚びた言動をすることにも気づいていた。
それは微妙すぎて、ふたりにしか感じ取れないものだったが。

「なんとか言えよ」
黙ったままの谷口に、倉橋は耐え切れないようにつぶやいた。
「嫌でも気持ち悪いでもいいから」
「…びっくりした」
「……」
「好きなんて、初めて人から言われた」
倉橋は、少し顔をそむけた。
「俺だって初めて言ったよ」
「え、そうなんだ」

聞きたいのはそんな言葉じゃない。答えだ。
俺をいったいどんな男だと思ってたんだ。誰かれなく声をかけるような男だと思われてたんだろうか。
倉橋はイライラしたが、それでもなんとか感情を抑えて、谷口に質した。
「じゃあ、お前は誰かに言ったことがあるのか?」
「……ない」
そう言う谷口の赤い顔を見て、倉橋はほっとした。
「普通、簡単には言えないだろ、こんなこと。これでもものすごく思い切ったんだからな」

視線をそらしたままそう言う倉橋を、谷口は可愛いなと思った。
倉橋は、自分のことを可愛いと言うことがあった。そのときはバカにされているような、よくわからない感覚だと思ったけれど、なんとなく今はわかる。
けっして相手をおとしめる意味でなく、抑えようとしても止まらない、どうしても湧き出てくるいとしさに似ていると思った。
大切な言葉を、初めて自分に言ってくれた。それは素直に嬉しかった。
自分だけに向けられる感情。自分だけに見せる表情。それを感じることはなんてここちよいのだろう。
谷口は、こんなにも自分が独占欲が強いのかと初めて気づかされた。
「お前は言ってくれないの」
「今、言おうと思ってたんだよ」
そう言う谷口の唇を、倉橋は自分の唇でふさいだ。
(言わせる気、ないのかよ…)
谷口は倉橋に体をあずけながら、ぼんやりと思った。



俺の心の準備なんて、ほんとうはもうとっくにできていたような気がする。
倉橋の気持ちも知っていたのに、ここにたどりつくまで自分にいろんな理由をつけて回り道をしていた。
そのくせ倉橋の愛撫を拒むこともしない。むしろ誘っていた自分がいる。それはなんて残酷なことだったのだろう。
自分の都合のいいように愛されたいだけだったのだ。
もしかしたら、本気になって傷つくのが怖かったのかもしれない。
倉橋の心が離れてしまっても、自分の傷が浅くすむように予防線を張っていたのだ。

これは、本気の感情じゃないんだ。だいたい、男同士なのにおかしすぎる。
季節の変わり目にひく風邪みたいなものなんだ、倉橋も、自分も。
だから、おとなしくしてやりすごしていれば、きっと熱は引いていく。

そう思い込もうとしていた。
自分の気持ちも倉橋の気持ちも否定していた。それは、ずいぶん長い時間だった。
それでも倉橋は自分を待っていてくれた。そして、今はもう自分の気持ちもごまかせない。

夜が明けたら  1
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