谷口の率いる墨高は、全国大会への出場を決めた。
甲子園での練習と1回戦の組み合わせ抽選会から帰った翌日、谷口は相木に電話をした。

「ニュースで見たよ。選手宣誓ははずしたな」
からかうような相木の声音に、谷口は不思議な懐かしさを覚えた。
「みんなにやれやれって推されて、一応立候補してたんですけど…よかったですよ、はずれて。ああいうの、俺、頭の中が真っ白になっちゃいそうですもん」
相木が、電話の向こうで笑っている。
「俺、まだ言ってなかったよな。…甲子園出場、おめでとう」
ああ、聞きたかった声だ、と谷口は思った。


ほんとうは、地方予選で優勝した日に、一番に報告したかった。
しかしその日の夜は、取材や、お祝いに駆けつける人への対応に追われ、とても落ち着いて電話できるような時間はなかった。
ようやく時間が取れたときにはすでに翌日の日付になっていて、さすがにこちらからの連絡は控えることにした。
しかし朝になってから何度かかけてみるも、相木が電話に出ることはなく、優勝の興奮が冷めてからはなんとなく連絡するのがためらわれた。
そして、大阪に出発する日の前夜、谷口は留守電に言葉を残したのだった。
『決勝戦、見に来てくださって、ありがとうございました。俺、約束守りましたよね。…えっと、明日、甲子園練習と、抽選会に行ってきます。また、お電話します』


「ずっとゼミの合宿中で家に居なくてさ、留守電聞いたのも、次の日の夜だったんだ。悪かったな、何度も電話くれてたか?」
「いいえ、いいんです。お忙しいのに決勝戦だって、合宿を抜けてきてくださったんですよね。ほんとに、すいません」
「後輩が決勝で投げるんです、って教授に頼み込んだら快く許してくれたよ。お前、野球部だったっけ?って言われたけどな」
“ゼミの合宿”がどういうものか、さっぱり谷口にはわからなかったが、とにかく相木が自分のために時間を割いてくれたということが嬉しかった。
「その、合宿ってもう終わったんですか?」
「ああ、やっと夏休みだよ」
「そうですか。それじゃ、あの…」
谷口は、自分がそれまで思ってもいなかったことを口にしそうなことに気づいた。
―――声を聞くだけでじゅうぶんだと思っていたのに。

「なんだ?」
その不自然な沈黙に、相木が言葉をはさむ。
「あの…俺と、会ってもらえませんか」
電話の向こうでも、一瞬の沈黙があった。
そのほんの短い時間が、谷口を不安にさせた。
いきなりこんなことを言って迷惑だったかもしれない、と。
「いえ、いいんです、すいません」
そう谷口が言う前に、相木が答えた。
「いいよ。今からは、どうだ?」
(今から…?)
谷口は、電話のそばに下げられている時計をちらりと見た。午後7時すぎ。明日も朝から動かなければならない。でも。
「はい、大丈夫です」






相木の下宿は、電車で30分ほど行ったところにある。
夏休みの学生街の駅は電車を乗り降りする人もまばらで、谷口は、改札のむこうに立っている相木の姿をすぐに見つけることができた。
谷口は、はやる心を抑えつつ、小走りに改札を出た。
相木は、軽く手をあげて、笑顔で谷口をむかえた。
「悪かったな、忙しいのに無理言って」
「い、いえ、俺のほうこそ」
そう申し訳なさそうには言うが、谷口は自分の顔が笑顔になっていくのを抑えられない。
どうして相木の顔を見ると、相木と言葉を交わすと、不思議な安心感が生まれるのか。
谷口は、この安心感を得たくて、「会いたい」と言ってしまったような気がしている。
「まあ、歩きながら話そうか」
そう言って、相木は谷口を駅の出口にうながした。


8月の夜は、空気もまだ生暖かい。
相木の下宿までの道すがらは商店街になっているが、この時間、ほとんどの店が閉めている。
「うちにはなんにも飲むものないからさ」
酒屋の前にある自販機で、相木はビールを買おうとしたが、少し考えて、やめた。
「いいですよ。俺に気にしないで飲んでくださいよ」
「いや、今日はやめとく」
苦笑いをして、隣の自販機で買ったコーラやジュースを谷口に手渡した。





煙草のにおいがする、と谷口は相木の部屋に入ったとき、思った。
男の独り暮らしにしてはきれいにしている部屋で、かえって谷口は少し居心地の悪さを感じた。
「どうした?適当に座れよ」
「はい」
うながされて、谷口はテーブルの前に敷かれた座布団に、ちょこんと腰かけた。

相木には、つきあいだして1年になる恋人がいる。その座布団も彼女が持ってきたものだ。
しかしここ2、3ヶ月、彼女がこの部屋に泊まることはなくなった。もっと言えば、ひと月連絡も取っていない。
同じ大学ですれ違うこともあるというのに、他人行儀な挨拶を交わす程度である。
それが辛いとも思わない自分をひどく薄情のような気がしたが、それもお互い様だと相木は思っていた。
単に、意地になっているのかもしれない。折れたほうが負けだと思っているのかもしれない。お互いに。
自分の彼女と比べることではないと思うが、目の前にいる谷口の朴訥とした素直さが、よけいにいとしく感じる。



谷口は、机の上に並べられた、大学のテキストとおぼしき本のタイトルをながめていた。
(経済学、概、論…)
コップを持って部屋に戻ってきた相木に、谷口は訊いた。
「相木さん、大学の合宿ってどんなことするんですか?」
「え?ああ、こないだは、そうだな。教授が商社のマーケティング調査をしてて、その集計とか分析とかグループに分かれて…」
谷口は興味ありげに相木の顔を見つめながら聞いていたが、相木はこんな話で限られた時間を使いたくなかった。
「こんな話、つまんないだろ?それよりお前の話、聞かせてくれよ。予選のさ」
「つまんなくないですけど…。予選のですか?長くなりますよ」
「いいよ」
相木は明るく笑って、ドカッとあぐらで座り込んだ。
谷口は、自分の好きな笑顔だ、と嬉しくなった。



自分に興味を持ってくれている。
相手の意識が、今、全部自分に向けられている。
その相手が尊敬する先輩であり、その先輩を独り占めしている。
『お前は、人に対しても欲ばりだ』
予選を勝ち抜いた紆余曲折を相木に語っている間、そう倉橋に言われたことを谷口は思い出した。
―――ほんとだな。
クスッと谷口は笑った。
「どうした?」
「え?ああ、キャッチャーの倉橋なんですけどね。あいつ、同い年のくせに、へんに大人ぶってるんですよ。変なやつなんです」
「へえ…」
さっきから、谷口の話に何度も出てくる倉橋の名前。今のように、くさしながらも、絶対の信頼を置いているのが言葉の端々からうかがえた。
「でも、ときどき…っていうか、俺といるときはけっこう子供っぽかったりするんです」
「どんなふうに?」
「なんか、理由がよくわかんないことですねたりして。このまえも…」
と話しだして、谷口ははっとした。

そうだ。あれも、相木さんと会った日だ。その日の夜会った倉橋は妙に険しくて、機嫌なおしたかな、と思ったらまた俺を突き放すような態度をした。
地方予選が近いのに、練習を休んだことで俺にむかついてるのかと思ったけど、違うって言ってた。
あれはなんでだっけ…。

しかし、そういう理由のはっきりしないことですねるような態度は、ほかの部員の前ではしない。
批判めいたことも、こっちが反論できないような理論武装で固めていて、筋が通っているのだ。
それは、谷口も腹が立つほどだ。見ようによっては、冷徹でもある。
そういう男が、自分の前では、年相応の感情的な態度を見せるのが、谷口には可笑しかった。
それを知っているのは自分の特権、のような気もしていた。

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