校舎の大時計を見上げた谷口は、ふっとため息をついた。午後4時を指している。
そして倉橋の肩をポンとたたいて言った。
「俺、ちょっと行ってくる」
「おう」
倉橋は振り向いた姿勢のまま、グラウンドを出て行く谷口の背中を見ていた。
「谷口、どうしたんだ?」
山口が倉橋のそばまで来て、ボールを拾い集めながら訊いた。
「あの先生んとこですよ。毎月の…」
「ああ、そっか」
山口は自分の右手の指を、ひい、ふう、みい…と折ったあとつぶやいた。
「まだあれから半年だもんなあ、考えたら」
「ええ」
谷口が指の手術をして包帯をほどいた日から、ちょうど半年になる。その日からは最低でも月に1回は診療所に検査に行っている。
今のところ、野球を続けることに支障はないと言われている。
実際、谷口も普段は指を折ったことなど忘れているくらいだ。
本音では、もうきっぱりと忘れてしまいたい。
指を折ってしまったことなどなかったことにして、思い切り野球をしたい。
それなのに毎月の病院通いで、いやでも思い起こされる。しかもそのたびに、「異常なし」と言われるまで、不安で不安でしかたがないのだ。
ずっと自分はこんな生活を続けなければならないのだろうか。
なんの不安もなく野球ができる毎日は、もう帰ってこないのだろうか。
4ヶ月ほど経ったころ、谷口は広谷医師に言ってみた。
「先生、俺、まだ完治してないんですか?」
「いや、しとるよ」
じゃあ、もう検査も必要ないんじゃないですか?」
広谷はペンを走らせる手を止めて、谷口に向き直った。そして意地悪く笑った。
「きみ、よっぽどわたしの顔を見るのがいやになったらしいな」
「い、いえ、そういうことじゃ…」
谷口はあわてて口をつぐんだ。広谷が冗談でそう言っているのはわかっていたが。
「指のことを意識したくない気持ちはわかるがね。きみ、ずっと野球を続けたいんだろう?」
「はい」
「ピッチャーとして続けたいって言ってたな」
「はい」
「じゃあもうしばらくわたしの言うことをきくことだ」
「…はあ」
「自分のためだと思ってな。もう野球をしたくないんならかまわんよ。もう来月から来なくていい」
…そんなふうに言われたら、これからも行くしかないじゃないか。
谷口は、診療所での検査を終え、学校へ戻る堤防の道を歩いていた。
今日の検査でも、異常なしだった。けれど、来月の検査の日をまた告げられた。
俺ってそんなに体の回復が遅いほうだっけ?ちょっと慎重すぎるんじゃないか。この夏の予選だって投げぬいたんだ。自分の体は自分が一番よくわかってるんだよ。
そう谷口は言いたかった。
まだ日は長く、吹く風は熱くよどんでいたが、ふと見上げた青空に、はけで刷いたような薄い雲が見えた。
ああ、もう秋なんだ、と谷口は時間の流れの速さにぞっとした。季節はいやおうなく過ぎていくのに、自分の体は以前のままなんだろうか。
谷口は、自分に腹が立ってきた。
谷口がグラウンドへ戻ると、練習はもう終わりかけだった。グラウンドでは戸室と半田が、トンボをかけている。
「今日は遅かったんだな」
その声に振り向くと、倉橋がバットを何本か抱えて立っていた。
「あ、うん。急な患者さんが入ったみたいで、ちょっと待たされたんだ」
「ふーん」
倉橋は、谷口がこの検査を終えると、いつも憂鬱そうな表情をして戻ってくるのに気がついていた。
憂鬱、というかいらだっているように見えた。倉橋はそんな谷口を見ているのがいやだった。
「今日の練習はもう終わりだから、帰ろうぜ。はやく着替えろよ」
そう倉橋はうながしたが、谷口は少し考えてから言った。
「俺、ちょっと素振りしてから帰る」
谷口は、倉橋の抱えていた数本のバットから1本取ろうとしたが、倉橋にさえぎられた。
「なんだよ、貸せよ」
「今日はもう帰ろう」
腕をつかまれて、谷口はカッとした。
「さきに帰ればいいだろ。お前、野球のことで俺に指図するな」
いつになく語気を荒げた自分に、谷口自身が驚いた。はっとして目の前を見ると、驚くでもなく、いつもの冷静な表情の倉橋がいた。
谷口は、頭の中が冷えていく気がした。
「…指図なんかするつもりはない。ただ」
「ただ?」
「今日はお前と話がしたかっただけ」
「話…?」
谷口は、肩すかしをくらったように、がくん、と力が抜けた。そして、その言葉が妙に恥ずかしく思えた。
「話なんか明日でもあさってでもできるじゃん」
「お前、今なんかむかついてない?イライラしてるだろ。そんなんで練習なんかできないよ」
谷口は頭にカチンときた。図星を突かれたからではあるが。
「だから、俺の野球のことで指図するなって言ってるだろ」
谷口は、つかまれた腕をふりはなそうとしたが、倉橋はその腕をとらえたままだった。
そんな力の差を感じた気がして、谷口はますます情けなくなった。
「お前、素直じゃないな。指図じゃないって言ってるだろ」
「悪かったな。前から俺は、お前が思うほど素直でも優しくもないよ」
倉橋が、ふっと谷口の腕を解放すると、谷口は緊張の糸が切れたように、その場にへたりこんだ。
「谷口?」
「…ごめん……。言いすぎた」
河川敷に、ふたり座って川を眺めていた。
本当は、日が暮れてしまっては川など見えるはずもない。
鉄橋を走る車のライトがちらちらと照らすときに、かすかにお互いの姿を確かめることができるだけだ。
ただ、暗闇の中で言葉を交わしている。
「見せてよ、指」
「…見えないだろ」
「いいから」
谷口は右手を、右隣に座っている倉橋の胸のあたりに差し出した。
倉橋は左手でその手首をとらえると、人差し指の第二間接をそっと撫でた。
谷口は一瞬、鳥肌が立つような寒気がした。それでもその手をふりはらう気にはならなかった。
家族以外の誰かに、こんなふうにこの指に触れさせたのは初めてかもしれない。
実際、倉橋は谷口の指を見ていなかった。ただ自分の指の感触でそれを確かめているだけだった。
倉橋に右手の指を撫でられている間、谷口は左手で草をぎゅっとつかんでいた。
谷口はその優しい感触に、頭がのぼせるような感覚に襲われた。
「谷口」
名前を呼ばれて、谷口ははっと夢うつつから引き戻された気がした。
倉橋は、まだ谷口の指に触れている。いつのまにか、谷口からも握り返すように指を絡めていた。
谷口は、この自分の指へのわだかまりを、この河川敷に来てからずっと倉橋に話していた。
手術を受ける前よりもむしろ包帯をほどいたあとのほうが、どこか毎日不安だった。
そんなことを堰が切れたように吐き出す谷口の言葉を、倉橋は黙って聞いていた。
ひとしきり話し終わったあと、倉橋は谷口の指に触れてきたのだった。
それからしばしの沈黙の時間があった。
お互いの指から伝わる熱が、その沈黙を不安にさせなかった。
指 1