始まりの日<1>


 アレフガルドの広野をひゅうと一陣の風が渡る。
 まだ冷たい早春の風がラダトームの城下町に吹き込んだ。風は大路を進み、跳ね橋を渡って城門を潜る。庭を一巡りしてから城に入り、大理石の床を這って王宮へと辿り着いた。
 王宮を照らす蝋燭の炎が一斉に揺れた。炎は大きく伸び縮みして、城の主たるラルス十六世の横顔を照らし出す。
 まだ四十に満たない王の顔は心痛に歪んでいた。頬はげっそりとこけ、濃い隈が張りつき、亜麻色の髪にちらちらと白いものが目立つ。実年齢よりも十も二十も老けて見える様相だった。
「……」
 ラルス十六世は無言で瞳を眇めた。鷹のように鋭い視線の先には一人の兵士が跪いている。
「……そなたのような若者をみすみす死なせたくはないものだ」
 王の言葉を受けて、兵士が伏せていた顔を上げた。
 凛々しいというよりかわいらしいという表現がしっくりくる少年兵である。十六歳にしてはあどけなく、その頬も唇も柔らかそうな子供の曲線を残したままだ。人の良さが滲み出すようなおっとりとした顔立ちは、とりたてて美しいわけでも醜いわけでもない。
 ただ少年の瞳は不思議と心を惹きつけた。くるりとした双眸は、見つめていると魂が吸い込まれそうな神秘の力に満ちている。光を孕んだ鮮烈な青は、晴れた日の空を髣髴とさせた。
「……恐れながら、僕……あ、いえ、私は既に十六を越えております」
 少年が緊張に掠れた声を上げた。城仕えの兵士でも、彼のような雑兵が宮殿に足を踏み入れることはない。初めて訪れたのだろう王宮の雰囲気に圧倒されているようだ。
「どうか旅立ちのお許しを」
 アレフガルドで十六歳は成人を意味する。それは保護者の監督から独立し、一個の人間として義務と権利を得る節目の年だ。
 成人した者が旅立ちの許可を求めた場合、王は古くからの慣習に基づいてそれを認めなければならない。アレフガルドの創造主である精霊神ルビスは、人が大地に広く散り栄えることを良しとしているのだ。
 だがそんな教えが尊ばれたのも昔の話だ。平和だった時代と今ではまるで状況が違う。
「グレン……と申したな。単なる旅であるなら私も慣習に従ってそれを認めよう。しかしそなたの望みはそうではなく……」
「私はローラ姫をお救いします。そして必ずこのラダトーム城へお連れいたします」
 歯切れの悪い王の言葉を引き取り、グレンはきっぱりと宣言した。
 ラルス十六世の愛娘、王女ローラがかどわかされたのは今から半年前。初秋にしてはひどく冷たい雨が降る夜のことだった。
 朝になって侍女が訪ねた時、王女の姿は忽然と寝室から消えていた。カーテンや寝具が鋭い刃物でずたずたに切り裂かれ、開け放した窓から吹き込む風がそれを大きく吹き上げていたという。夜陰に乗じて入り込んだ何かが王女を連れ去ったことは明白だった。
 王はただちに捜索隊を編成してアレフガルド全域へ派遣した。
 勇猛果敢な兵士達が全滅するのに一ヶ月係らなかった。二人の兵士が虫の息でラダトームに帰りつき、一人は二日後に、一人は一週間後に死んだ。皮膚のほとんどを火傷で失っていた彼らは、高熱と激痛の中しきりに竜と喘ぎ続けたといわれる。
 捜索隊全滅の報がアレフガルドに広がった頃から、腕に覚えのある者が次々と王女救出を申し出た。
 ローラはラダトーム王家の正統王位継承者、彼女の心を射止めれば時期女王夫君の座を望むことも可能だ。由緒ある家柄の騎士、剣一本で生きてきた傭兵、喧嘩しか能がないあらくれ者、数多の人間が数多の想いを胸にラダトームを旅立っていったが、今日まで生きて帰ってきた者は一人もいない。
 そんな状況下、グレンのような何の実績もない少年兵が王女救出を宣言したのだ。周囲からは驚愕、失笑、動揺、様々な反応が上がったが、緊張でこちこちのグレンにそれに気付く余裕はないようだ。
「アレフガルドには魔物が満ち、腕に覚えのある剣士とて何時命を落とすかもしれぬ状況だ。それでもそなたは行くというのだな」
 グレンは年のわりに小柄で、城から支給された鎧兜はぶかぶかだ。骨ばった手足にはまだ筋肉らしい筋肉もないし、肩幅だって上背だってこれまで名乗りを上げた戦士達とは比べ物にならぬ弱々しさである。
「はい」
 それでも真っ直ぐに王を見つめる瞳だけは力強く、そこには一片の迷いも躊躇いもなかった。精霊神ルビスでも彼を翻意させることは不可能だろう。
「何がそなたをそれほどまでに駆り立てるのであろうな」
 ラルス十六世はのろのろと王宮の壁を見上げた。
 そこには亡き王后の肖像画が飾られている。若くして病に倒れた美しい王妃は、良く似た娘を一人残してこの世を去った。けぶるような睫毛に縁取られた赤い瞳に愛らしい娘の笑顔が重なる。
 ラルス十六世は目を瞑り、深く嘆息した。


 橋梁を渡り終えると、グレンは大きく息をついて肩の力を抜いた。緊張のあまり強張ってしまった頬を両手でぱんと叩く。
「あー緊張した。あのまま固まって動けなくなるかと思った」
 頬の肉をぐりぐりと揉み解しながら、グレンは城下町を歩き出した。
 幼い頃から毎日この町を駆けて過ごした。どの家のさくらんぼが一番甘いのか、どの道を通れば広場に早く着けるのか、どの場所から見る夕焼けがきれいなのか、グレンは全て知っている。ラダトームは今日までのグレンを育んだ町であり、思い出の全てが染み込んだ場所だった。
(……この町ともしばらくお別れだな)
 くるりと方向転換したグレンが向かうのは、町外れの広場である。
 低い柵に囲まれた広場には、アレフガルドの内海から吹き上げる潮風が満ちている。グレンは柵に手をつき、半ば身を乗り出すようにして魔の島と呼ばれる対岸を見つめた。
 厚く垂れ込めた雲の下に黒々とした建造物が聳えている。一見巨大な岩の塊にしか見えないそれは、今から四百年ほど前に大地が隆起して出来た王城であるという。
 稲光に照らされるその城に嘗ては大魔王が、そして今は竜の王が住んでいた。
「姫はきっとあそこにいる」
 岩に砕ける波音にグレンの呟きが消えた。
「竜王のところにいるんだ」
 今から二十年前のある日、何の前触れもなく巨大な竜がアレフガルドに現れた。竜がひとたび咆哮を上げると土は腐り、水は濁り、空気は淀んだ。美しかったアレフガルドにはたちまち魔物が満ち溢れ、以来人々は何時食われるとも知れぬ恐怖に怯えながら生活を営んでいる。
 ローラを連れ去ったのは魔物だという見解が一般的だ。人間を食料としか見ない魔物が独断で王女を拉致したとは考えにくく、この一件に彼らの主である竜王が関与しているのはほぼ間違いない。
「必ずお助けします」
 ぎゅっと唇を結ぶグレンの胸元で、青い石のついた首飾りが揺れた。