その少女と出会ったのは今から二年前、湿った風が吹く夏の昼下がりのこと。その時グレンは父の言いつけで、町外れの古本屋へ向かう途中だった。 グレンの父はラダトーム寺院に仕える神父であり、失われた魔術の復活に心血を注ぐ研究者でもある。古の魔術は現在流布しているそれより威力が大きく、種類も豊富だったと言う。竜王に抗う手段の一つとしてラルス十六世は古代魔術復活を奨励しており、多くの魔法使いや僧侶が王の期待に応えようと研究に明け暮れていた。 「一雨来るかな」 メインストリートを歩きながらグレンは空を見上げた。時々陽光を遮りつつ、濁った色の雲が上空を覆いつつある。雨が降る前に用事を済まそうと、グレンは近道を選択した。 武器屋の角を曲がってしばらく進むと行き止まりになる。道なき道を道とするため塀に攀じ上ったその時、ふと裏地に佇む人影に気付いた。 紫色のローブを纏った老婆がおろおろと辺りを見渡している。フードを目深に被っているので表情は分からないが、ひどく動揺していることはその仕草から伺えた。 (……道に迷っているのかな) 声をかけようとした時、大路からわらわらと数人の男が流れ込んできた。 先頭の男が老婆を指差して声を上げ、それを合図として全員が駆け出す。はっと体を強張らせた一瞬後、老婆は大慌てで脇の坂道に飛び込んだ。 やや急な勾配は途中で幾つにも枝分かれしている。分散して後を追う男達の一人が、ほどなく酒場の裏で獲物を捕らえた。男はローブの裾をしっかりと握り、逃れようともがく老婆をたやすく押さえ込んでしまう。 「お年寄りが困っている!」 グレンの正義感が一気に最大値まで燃え上がった。少年は猫のごとく塀を駆け、老婆と男の傍らに勢い良く飛び降りる。 「乱暴するのは止めてください!」 グレンはぱんと男の手を払い、二人の間に滑り込んで両足を踏ん張った。 男は不審そうにアイスブルーの目を細め、グレンの頭から爪先にまで視線を走らせた。そしてその後、少年の肩にそっと手を置く。 「どきなさい、君には関係のないことだ」 ぐいと押し退けられそうなところを、グレンは足を踏ん張って耐える。 「でもおばあさんが嫌がっています」 「いいからあちらへ行きなさい」 「嫌ですっ」 男は小さく溜息をついた。それ以上構うのも無駄と判断したか、グレンの体越しに再び老婆を捕らえようとする。 男の手を払おうとして、グレンは逆に腕を捻り上げられた。反射的に放った蹴りもたやすく避けられ、ぐらりと体が傾いだところへ強烈な平手を叩き込まれる。小柄なグレンはその衝撃で酒場の壁まで吹っ飛んだ。 男の動きを目で追うことも出来ない。正式な訓練を受けたのだろう戦士の強さはグレンの及ぶところではなかった。 「これ以上手荒なことはしたくない。怪我をしないうちに立ち去りなさい」 「……」 グレンの青い瞳が、負けん気を孕んで鋭く閃いた。 グレンは傍らの酒樽を思い切り蹴った。ごとんと倒れた樽が左右のそれを巻き込み、坂道をごろごろ転がって男にのしかかろうとする。ほんの一瞬、男の注意がグレンから逸れた。 グレンは一足飛びに間合いを詰めると、身を低く屈めて思い切り体当たりを食らわせた。不意を突かれてバランスを崩した男を尻目に、素早く老婆の袖を取る。 「お婆さん、こっちです!」 「こら……待ちなさい!」 グレンは老婆を引きずるようにして裏道へ飛び込んだ。 町の少年達ほどラダトームを熟知している存在はない。グレンは裏道を利用してまんまと追手達を撒き、今は使われていない古い建物へと逃げ込んだ。 窓からそっと外を伺うと、困惑顔の男達が通り過ぎていくのが見えた。グレンはふうと息をつき、壁に寄りかかって息を弾ませている老婆を振り返る。 「無理させてすみません。怪我はありませんでしたか?」 「はい」 グレンはぎょっと目を剥く。ローブの中から返ってきたのは、鈴を鳴らすような少女の声だったのだ。 ローブの袖口から白魚のような手が覗く。長く細い指がフードを摘んでゆっくりと引き下ろすと、亜麻色の髪がふわふわと光の中に踊った。 豊かな巻き毛に縁取られて、少女の華奢な輪郭と肌の白さがより眩しく際立った。星のように瞳を縁取る睫毛も、すっきりと筋の通った鼻も、果実の艶を放つ唇も、触れれば壊れてしまいそうに華奢で繊細だ。 少女はルビーのような瞳を柔らかく細めて笑った。 「助けてくれてどうもありがとう」 こんなにきれいな女の子を見たのは初めてだ。グレンはたちまち耳まで赤くなってもごもごと口籠った。 「き、君、女の子だったんだ……お婆さんかと思ってた」 「本当? そう見えるように変装してみたの。でも誰もごまかせなくて結局追い駆けられてしまったわ」 「そうなんだ、僕はすっかり騙されちゃったな」 若い娘らしからぬ装いに、頭っから老婆だと信じ込んでいた節がある。それにしても変装した少女が男達に追い回されているとは穏やかでない。 「どうしてあの人達に追い駆けられてたの?」 問うた次の瞬間、グレンは自らの思いつきにはっと顔を強張らせた。 「そ、そうか……。君には病気の両親とお腹を空かせたたくさんの弟と妹がいるんだね。さっきの男は悪い高利貸しで、君のことを借金のかたに追い回して……」 「違うわ」 想像力逞しいグレンの言葉をあっさり否定してから、少女はばつが悪そうに顎を引いた。 「彼の名前はダグラス。わたしに……わたしの父に仕えてくれている戦士です。わたし、今日はこっそり抜け出して町にやってきたの。公園を散歩していたら見つかって連れ戻されそうになって……そこにあなたが」 「……」 要するにあの男は悪人でも人攫いでもなく、何らかの理由で町に飛び出した主を保護しようとしていただけなのだ。グレンは何の罪もない男に勘違いで突っかかり、勘違いで樽を蹴りつけ、勘違いで体当たりを食らわせたことになる。興奮で赤くなっていたグレンの顔がたちまち青くなった。 「……僕、あの人に謝らなくちゃ」 「あなたは何も悪くないわ。ダグラスにも、そしてあなたにも謝らなくてはならないのはわたし。本当にごめんなさい」 少女が申し訳なさそうに項垂れるのを見て、グレンは慌てて首を横に振った。 「僕に謝る必要なんてないよ。僕が早とちりしたのが悪いんだし……。それより君、変装してまで町に来るなんて、何か大事な用事でもあるの?」 「……一度自由に町を見たいと思って」 ぽつんと少女が呟いた。 「もうすぐ十六歳になるの。そうしたら今まで以上に自由に出歩けなくなるから」 恐らく彼女は貴族の娘なのだ。若い娘に似つかわしくないローブは良く見ると艶のある毛織物で、大層上質な品物であることが分かる。巻き毛の合間からちらちら覗く耳飾りといい、細い指を飾る指輪といい、彼女が身につける装飾品は熟練の職人による逸品ばかりだ。そして何より、少女そのものが生まれながらの気品を隠していない。 成人した貴族の娘というのは厳しく身のあり方を戒められるのだろう。しがらみやらしきたりやらに縛られて、二度と自由に出歩けなくなるのだろう。 かわいそうだなとグレンは思った。そしてそう思った次の瞬間、彼は少女に向かって手を差し出していた。 「じゃあ僕がラダトームを案内してあげる」 「……え?」 「この町を見たいんだろう?」 少女はぱっと顔を輝かせた。嬉しげに頷いてグレンの手を取る。 少女の掌はすべすべと滑らかで、これまで触れたどんなものよりも柔らかかった。 「僕はグレン。君の名前は?」 「ローラ」 少女はにっこり微笑んでそう名乗った。 |