始まりの日<3>


 追手と鉢合わせにならないよう、二人はこそこそ裏道を辿って城下町を探索した。
 ラダトームの町は古く、ラルス一世が建国してから今日まで四百年以上の歴史がある。名もなき人々が足跡を刻んだ石畳の上を、グレンとローラは仲良く手を繋いで歩いた。
「グレンはとてもラダトームに詳しいのね」
「四つの時から暮らしているんだもん、詳しくもなるよ。友達と毎日遊ぶし、父さんのお使いにも出るし」
「……四つ? ではその前は何処にいたの?」
「ドムドーラ」
 グレンが口にした町の名にローラは瞠目した。
「ドムドーラ……? あの砂漠にあった町のこと?」
「そう、十年前に魔物に滅ぼされちゃった。でも僕の故郷は何処かって聞かれたらここラダトームだよ。ドムドーラのことはたまに夢に見るくらいで、あんまり覚えてないんだ」
「そう……」
 ローラは柳のような眉をきゅっと顰めた。
「でも、その時たった四つだったあなたがどうやってこのラダトームに?」
「誰かが僕を助けて、この町まで連れてきてくれたんだ。剣を背負った……旅の剣士だったと思う」
 グレンはぐるりと青い瞳を動かす。町が滅ぶ日のことは時々夢に見るが、恩人である剣士の姿はすっぽりと記憶から抜け落ちていた。
「ラダトーム寺院の前で泣いていた僕を拾ってくれたのが神父の父さん。父さんに恩を返すためには僧侶になるべきなんだろうけど……僕は剣士になりたいんだ。僕を助けてくれたあの人みたいになりたい」
 夢と希望を孕んで生き生きと輝いたグレンの顔が、そこで急速に覇気を失った。
「でも僕は体が小さいから剣士は無理だってみんなが言うんだ。剣を振り回す前に振り回されるのが関の山だって」
「そんなことないわ。ダグラスはとっても強い剣士なのよ。そのダグラスに膝をつかせたあなただもの、誰よりも強くなれるはずよ」
 決然と言い切るローラが顔を覗き込んできた。赤い瞳とのあまりの距離の近さに、グレンの心臓が喉元まで跳ね上がる。
「そうね……きっとあなたは、勇者ロトみたいな剣士になるわ」
「勇者ロト? 僕が?」
 それは今に語り継がれる伝説の勇者の名だ。
 今から四百年ほど前、アレフガルドはゾーマと呼ばれる大魔王の支配下にあった。ゾーマが裳裾を翻すと空は闇に覆われ、太陽も星も月も姿を消したといわれている。ゾーマはアレフガルドから朝を奪い、精霊ルビスを封じ、人々を絶望の中に閉じ込めたのだ。
 闇に喘いでいたアレフガルドにある日、一筋の青い光と共に少年が舞い降りる。異世界からやってきた勇者ロトは神の助力を得てゾーマを討ち、この世界に朝を取り戻したのだ。
「わたしの予感はとてもよく当たるの。だから絶対に大丈夫」
 その言葉は蜂蜜のように甘く溶け、喜びとときめきでグレンの胸はいっぱいになった。彼女が大丈夫だと言ってくれた今、全ての物事が上手く運ぶ気がした。
「ええと、じゃあ、ローラは? 君のしたいことは何?」
「わたしのしたいこと?」
 小さく首を傾げたローラから表情が消えた。紅潮した頬が、冬の夕焼けのようにすっと色を失う。
「わたしには何もないわ。だって本当にやりたいことはあまりに遠くにあって、とても手が届きそうにないの」
「いいよ、聞かせて。ローラは何がしたいの?」
「……ここから東にムーンブルクっていう国があるの」
 ローラは一度息を飲み、その後堰を切ったように続けた。
「月と海の加護を受けた人達が作った、とてもきれいな魔術の国なんですって。土地そのものに魔力が満ちていて、魔法の明かりがシャボン玉みたいにふわふわ浮かんだり、噴水から月の雫が弾けたりするんですって。そんな不思議な国があるのなら見てみたい。どんな風なのだかこの目で確かめてみたいの」
 夢見がちにうっとりと瞳を潤ませた後、ローラの顔を枯れた諦観が覆った。
「でも夢は夢だわ。わたしがこのラダトームから出るなんてありえないもの」
 俯くローラに頬にぽつんと水滴が落ちた。二人は顔を見合わせ、それからほぼ同時に空を仰ぐ。
 刷毛を這わせたような薄い雲から、ぽつぽつと細かい雨が降り始めていた。
「やっぱり降ってきた」
 顰め面で呟いたグレンは、東の空が明るいことに気付いた。そちらには雲がかかっていないようで、太陽の光が斜めに大地を照らしている。
「あっ、きっともうすぐ虹が架かるよ」
 アレフガルドで虹は吉兆の証だ。虹は空と大地を、神と人を、夢と現実を結ぶ架け橋だと言われている。
「……そうだ。ラダトーム寺院へ行こう」
「寺院?」
「このラダトームで一番高い建物だから、虹がすごくきれいに見えるんだ。急ごう、雨が止む前に行かなくちゃ」


 ラダトーム寺院の扉を潜った途端、二人は追っ手達と鉢合わせになった。
 数人の男を従えたダグラスが司祭と話し込んでいたところだ。はっと振り返ったダグラスの眼差しが真っ直ぐにローラを捉える。
「ダグラス……」
 ローラがぎゅっとグレンの袖を握る。
「ローラ、こっちに来て!」
 グレンはローラを半ば引きずるようにして駆け出した。聖堂を過ぎって扉を潜り、廊下を渡って鐘塔への階段を上る。
「待ちなさい!」
 階段が渦巻く狭い塔に男達の声が響く。二人は息を弾ませながら、研磨したようにつるつる滑る古い階段を一心に駆け上がった。
「虹は夢や未来への架け橋なんだって父さんが言ってた。ローラは知ってる?」
「ええ、わたしはお母様から伺ったわ。虹にお願いごとをすると必ず叶うんですって」
「願いをかける虹は大きければ大きいほどいいんだ。この寺院から見える虹はすごく大きいから、きっと君の夢も叶うよ」
 長い螺旋階段の先には鐘楼があり、ラダトームに時を告げる巨大な鐘が梁から幾つもぶら下がっていた。
「足元に気をつけて」
 木材を渡しただけの不安定な足場だ。板と板の合間からは、階下の床がちらちらと覗いている。
「大丈夫?」
「平気よ」
 案外度胸の座ったところがあるのか、ローラは戸惑う様子もなくひょいひょいとグレンについてくる。
 だが追っ手達の動きは予想外に早く、背後から迫る足音は着実にその距離を縮めつつあった。サマルトリア……精霊語で我に哀れみをという意味だ……と名づけられた一際巨大なベルが収められた鐘楼で、遂に二人は男達に追い詰められた。
 背後の窓から湿った夏風が吹き込む。ここからは角度の関係で虹を見ることは出来ない。
「危ないからこちらに来なさい」
 しなやかな肉食獣を思わせる動きでダグラスが歩み寄ってくる。グレンはぎゅっと唇を噛んで背にローラを庇った。
 どうしてもローラに虹を見せたかった。夢は夢だと呟いた時の寂しげな顔が忘れられない。ここから見る虹は特別大きくて美しいから、きっと彼女の夢を叶えてくれるはずなのだ。
「さあ」
 ダグラスがすいと手を差し出した。
「……ローラ、目を瞑って」
「え?」
 不安そうに瞬きするローラに、グレンはきゅっと唇の端を持ち上げた。
「僕がいるよ。君に怖い思いはさせないから」
「……うん」
 ローラは頷き、頬の頂をかすかに紅潮させて、はなびらのような薄い瞼を閉じる。
 グレンはローラの肩と膝の後ろに腕を差し入れ、その華奢な体を横抱きにした。彼女の腕の感触を首に感じながら、一歩踏み出して窓の桟に片足を乗せる。
「何を……」
 男達の引き攣った顔を尻目にグレンは窓から跳んだ。頭上で弾けた悲鳴は巻き起こる風に掻き消される。
 とん、とすぐ下の排水溝に足からきれいに着地した。ちょろちょろと雨水を流す溝に足裏を滑らせ、滑り台の要領で南から西の壁に移動する。終着点にあったガーゴイルの像に寄りかかると、体重を任せてしっかりと体を固定させた。
 グレンにとってこれらの行動はやけっぱちでもいちかばちかの賭けでもない。こうして寺院の屋根に降り、ラダトームの町を見下ろすのは彼の日課なのだ。
 尤も追手達には寿命が十年も縮む光景だったようで、窓からこちらを覗く人々の顔は死人のように青い。悪いことをしたなと、グレンは内心頭を掻いた。
「もう目を開けてもいいよ」
「……」
 ゆっくり瞼を持ち上げたローラは、周囲の風景が一変していることに驚いたようだ。吹き上げる強風に彼女の巻き毛がペナントのように翻る。
「ここは何処?」
「寺院の屋根の上。怖い?」
「いいえ、ちっとも」
 ローラは首を振った。
「重たくない? グレンはとても力持ちなのね」
「力だけはあるって良く言われるんだ。ね、それより空を見て」
 グレンは視線で空を示した。釣られるように顔を上げたローラから感嘆の声が漏れる。
 灰色の空いっぱいに広がる虹は、手を伸ばせば触れることが出来そうに近い。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の輝きが、空と地上の合間に柔らかな弧を描いている。
「……願いごとは虹の橋を渡って天まで届くんですって。それを空の神様が拾って叶えてくれるんですって」
「それじゃあ僕と君のお願いもちゃんと届いたね。こんなに大きな虹にお願いしたんだから途中で落っこちる心配ないよ」
「そうね」
 ローラは頬に椛を散らして微笑んだ。
 幸せそうな笑顔を前にグレンの胸がどきどきと高鳴る。彼女がこんな風に笑ってくれるなら何だって出来るような気がした。