始まりの日<4>


 屋根から寺院に戻った二人を待っていたのは、ダグラスを始めとする追っ手達の厳しい顔だ。
「この小僧、ローラ様に……っ!」
 グレンに殴りかかろうとする若者を制したのはダグラスだ。ダグラスは一歩前に歩み出ると、ローラの前で片膝をついて頭を垂れた。
「ローラ様、お迎えに上がりました。どうか我々と共にお戻りください」
 ラダトーム寺院の鐘が鳴った。十二の鐘が織り成す厳かな響きは空気を震わせ、その後石壁に吸い込まれて消えていく。そろそろ太陽が沈み、薄く絵の具を伸ばしたような茜色の空に星が瞬き始める時刻だ。
「……分かりました」
 ローラはダグラスに頷き、傍らのグレンを見た。
「今日はとても楽しかった。あなたのお陰でわたしの知らないラダトームをたくさん知ることが出来たわ。本当にありがとう」
 ローラは首の後ろに手を回した。花茎の如き首を飾る鎖を手繰り、ローブの中から首飾りを取り出す。そしてグレンの掌にそっとそれを落とした。
「わたしのお礼の気持ちよ」
「え? いいよ、僕はそんなつもりじゃ……」
 涙型をした空色の美しい宝石だ。素人目にも値の張るものであることが分かる。
「グレンに持っていて欲しいの。わたしが今日という日を過ごせたこと、あなたにも覚えていて欲しいの」
 そう訴えるローラの表情は名状しがたい寂寥感に満ちていた。彼女が成人の日を境に迎える日々は一体どのようなものなのか、グレンには想いを巡らせることしか出来ない。
「迷惑?」
「ううん、すごく嬉しいよ、大事にする。ありがとう」
 ローラはほっとした微笑みを浮かべると、ダグラスに向き直って頷いた。ダグラスは立ち上がり、背後で同じく跪いていた男達に合図を送る。男達はローラを取り囲むようにして歩き出した。
「あのっ」
 グレンは殿を務めるダグラスを呼び止めた。
「昼間はその、色々とすみませんでしたっ」
 低頭するグレンの前にダグラスが立った。皮の手袋を嵌めた手がゆっくりと持ち上がるのを見て、グレンはぎゅっと歯を食い縛る。勘違いで体当たりを食らわせたのだから殴られるくらいは仕方ない。
「ダグラス!」
 ローラの悲鳴が上がると同時に、大きな掌がぽんとグレンの頭に置かれた。五本の指がくしゃくしゃと癖のある黒髪を掻き回す。
「あれは意表を突いた作戦だったな」
 唖然とするグレンにダグラスは淡く微笑んだ。
「君は身が軽いな。力もある。鍛えればきっといい戦士になるだろう……名は?」
「グレンです」
「いい名前だ」
 ダグラスは頷いてくるりと踵を返す。
 時折振り返って手を振るローラと男達の姿は、やがてラダトーム寺院の扉の向こうに消えた。


 ローラというありふれた名前以外少女のことは何も分からなかった。その素性も出自も全てが謎に包まれたままだ。あれきり町で会うこともなく、それらしい噂も聞かない。あの出来事が白昼夢だったとすると、グレンは夢の住人に恋をしてしまったことになる。
 だがグレンの胸元で輝く首飾りはローラが実在する何よりの証拠だった。時折首飾りを眺めてあの日のことを思い出しながら、グレンは剣の稽古と魔術の勉強に余念のない日々を送った。
 やがて十六歳を迎えたグレンは、予ねてからの希望通り兵士として城に上がった。更に技を磨き、何時か腕試しの旅に出ることを次の目標に暮らし始めて十日後、グレンは思わぬ形でローラの正体を知ることになる。
 その日グレンは城の屋上で警備についていた。ぽかぽかとまどろむような小春日和、任務につく兵士らの間にも弛緩した空気が漂う。爽やかな風の中に立っていると、竜王の脅威も魔物の存在も忘れてしまいそうだ。
 不意に屋上の一角で兵士達がざわめいた。何気なくそちらに目をやると、同僚の一人がグレンに向かって盛んに手招きしている。
「何?」
 鎧を弾ませながら、グレンは小走りにそちらに駆け寄った。
 友人はにやにや笑いながらグレンの肩に手を回してきた。グレンはそのままずるずると、屋上を囲む低い柵の側に引きずられていく。
「何だよ?」
「いいから見てみろよ、庭の素晴らしい光景を」
 グレンの立つ位置からは城の中庭が一望出来る。小さな虹を描く噴水を中心に、薔薇の茂みを利用した迷路が広がる遊び心に溢れた庭だ。亡き王妃の命によって作られたその庭園は、今は忘れ形見である王女のプライベートエリアになっている。
 その庭で今、貴族の娘達が散策を楽しんでいるのだ。
 咲き乱れる薔薇の花、翻るドレスの裾、風に踊る豊かな髪。目も眩むような色の奔流の中、グレンの視線はただ一点に吸い寄せられた。
 二年前の面影を残しながら更に美しく成長した少女の姿があった。他の娘と笑いさざめきながらはしゃいでいるのは確かにローラだ。
「……へぇ、グレン君はお目が高いね。美しい令嬢達の中で、真っ先に彼のお方に目を止められるとは」
 グレンはおもむろに顔を上げ、ごくんと喉を鳴らした。
「あの子誰?」
「あの子ってお前、口の利き方に気をつけろ。下手したら不敬罪でこうだぞ」
 友人は首にすいと人差し指を走らせた。
「あちらにおわすお方こそラルス十六世のご息女、我らが女王陛下になられるローラ姫様だ。そのお姿、とくと拝見しておけ」
「……姫?」
 グレンはぽかんと口を開け、何の感情も抑揚も込めずにその言葉を繰り返した。
「お姫様?」
「お前ってホントに薄ぼんやりなのな。クソ真面目に剣と魔術の勉強もいいけど、ちょっとは他のことにも目を向けろよ。女のことだって、夢の少女に何時までもこだわっていないでだなぁ……」
 グレンは再びのろのろと視線を落とした。
 薔薇に囲まれて微笑むローラは果てしなく遠い存在だった。あの日手を繋いで歩いた少女は、グレン如きの身分では足元に跪くことも許されぬ世継ぎの姫なのだ。
 グレンは町で出会った少女に恋をし、二年間想いを温め続け、そして呆気なく失恋した。
 捨てきれない想いは、その日を境に揺ぎない忠誠心としてグレンに宿ることとなる。彼女の微笑みのためならば、命を投げ出すこともやぶさかでない。