始まりの日<5>


 雪解け水に湿ったラダトームの大路を、グレンは真っ直ぐに顔を上げて歩いていく。
 朝からちらちらと降っていた雪は止んだ。雲間から差し込む淡い春の日差しが、グレンの青い瞳をより一層明るく輝かせる。
「グレン」
 名を呼ばれて振り返る。次の瞬間、グレンは両足の踵をぴたりと揃えて直立した。
「ダグラス隊長」
 最敬礼するグレンの前に立つのは、王族付近衛兵隊長を務めるダグラスだ。このラダトームで最も古い歴史を持つ貴族の嫡子で、近々将軍に抜擢されるという噂もある。剣の腕は勿論、家柄、容姿、人格共に申し分のない偉丈夫だ。
「行くのか」
「はい。これまで色々とお世話になりました」
 本来、グレンのような雑兵とダグラスではまるで住む世界が違う人間だ。
 それにも関わらず、ダグラスは何かとグレンに目をかけてくれた。自己流だった剣術の基礎を叩き直してくれたのも、剣以外の武器の扱いを教えてくれたのも、戦いにおける様々な知識を授けてくれたのも全てダグラスだ。何故そこまでしてくれるのかと尋ねた時、何となく放っておけないからだと言ってダグラスは笑った。
「……陛下は随分とお悩みになられたようだ」
「周囲を説得するのに半年も係ったような僕じゃ、頼りないから仕方ないです。でも僕はどうしても姫を助けて差し上げたいんです」
 切れ上がったダグラスの瞳がすうっと細くなる。何をも見透かすような視線がグレンに絡みついた。
 不意にダグラスが目にも止まらぬ速さで抜刀した。グレンも反射的に剣を抜こうとするがまるで追いつかない。ろくな構えも取れないグレンの首筋にぴたりと白刃が吸いついた。
「まだまだだ。決して慢心することなく精進しろ。生きていくためには強くならねばならぬ。死んでしまってはローラ様をお助けすることも叶わぬのだ」
「はい」
 すっと遠ざかる刃の軌跡を目で追いながらグレンは頷いた。
「僕は隊長のように強くなりたいんです」
「私のように強くなるのではない。私以上に強くなるのだ。竜王と戦うことになるかもしれぬのだからな」
 きんっ、と小気味の良い音と共にダグラスの剣が鞘に収まる。
「……竜王の強さは凄まじい。二十年前、奴によってこのラダトームから光の玉が奪われた話はお前も知っているだろう」
「光の玉……勇者ロトが残していったという至宝ですね」
「そうだ。光の玉にはゾーマを包んでいた闇の加護が封じられているという。恐ろしき力が込められた魔術具故に、それは厳重な封印の中、選りすぐりの精鋭によって守られていたのだ」
 ダグラスはそこで苦々しく唇を歪めた
「竜王に立ち向かった兵士はことごとく鋭い牙に噛み砕かれ、炎のブレスに焼かれた。絶対の強さを誇っていたはずの精鋭部隊が奴の鱗一つ落とすこと出来ずに全滅したのだ。もしかすると竜王は、我々人間には太刀打ち出来ぬ存在なのかもしれん」
「……ですが隊長」
「そんな顔をするな、今更お前を止める気などない」
 静かに頷くダグラスは、恐らくグレンの秘めたる恋心を知っている唯一の存在だ。
「まずは物事を冷静に見極める目を持つことだ。お前は思い込みが激しいのと物事を一人で決着させてしまう癖がある。二年前のような勘違いが命取りになる場合もあるのだからな」
「は、はい」
 サイズの合わない兜がずるりと落ちてグレンの視界を塞ぐ。
 ダグラスと再会したのは城に上がって半年後のことだ。その後幾度か手合わせをして、グレンはあの日ダグラスから逃げ切れたのは奇跡と偶然の合わせ技だったことを知る。ダグラスの強さは圧倒的で、グレンなど一瞬で剣を弾かれるのが常だった。
 グレンは尊敬の意を以って目の前の男を見つめた。
「そろそろ行きます。次にお会いする時は姫もご一緒です」
「私には陛下をお守りする役目があるためダトームを離れられぬ。ローラ様を頼んだぞ」
 ダグラスに向かって今一度頭を下げ、グレンは歩き出した。
 住み慣れたラダトームの町。十六までの自分を育んでくれた場所。四歳の時からこの町を出たことはない。緊張と期待に自然鼓動が早くなる。
 胸に満ちる微かな不安を払拭してくれるのは、胸元で揺れる宝石の煌きだ。
 闇に囚われた可憐な花を救いたい。光り溢れる中庭に連れ戻したい。さんざめく光を浴びながら、蕾が柔らかく綻んでいく様を見守ることが出来ればそれで十分満足だ。
 街門を潜ろうとした時、顔見知りの宿屋の女将と擦れ違った。女将は振り返り、グレンの物々しいいでたちを見て小さく眉を持ち上げた。
「グレン、そんな格好して何処へ? お使いかい?」
「ちょっとね」
 グレンは振り返り、白い歯を見せて笑う。
「お姫様を助けに行くんだ」