竜の王<5>


 きらめくシャンデリアの光を浴びて、ロトの防具が燦然と輝いた。
 青き鎧を身に纏い、青き兜を脇に抱え、青き盾を携えたグレンの姿を見て、ラルス十六世は驚愕の呻きを漏らす。
「……勇者ロト……」
 それは、伝え聞くロトの勇姿そのものだった。
 しんと静まり返った王宮を、グレンは堂々と、真っ直ぐに顔を上げて歩いてくる。これがあの旅立ちの日、王座の前で緊張に震えていたちっぽけな少年兵士だろうか。感慨に唸る王の前でグレンは足を止め、滑らかに拝跪の姿勢を取った。
「竜王を討ち取って参りました。光の玉をお納めください」
 数多の指輪を嵌めた王の手が、震えながら光の玉を受け取った。ずしりと響くその重みこそ、アレフガルドに平和が訪れた何よりの証だ。
「恐れながら国王陛下、御前に控えるは勇者ロトの血に連なる者にございます」
 傍らに控えていたダグラスが王に告げる。
「勇者は虹の橋を渡り、青き鎧を纏って魔を討った……古き言い伝えの通りかと」
「……」
 王は無言で頷いた後、隣席の愛娘を見た。ローラが涙ぐんでいる様に相好を崩してから、再びグレンに視線を落とす。
「ロトの勇者よ、この度の働き誠に見事であった。姫を救い国を救ったそなたを万人が勇者として認めるであろう。そなたには王となる資格がある」
 王宮の空気がどよめく。あまりに唐突な決定に顔を見合わせはするものの、王の言葉に意義を唱える者はいなかった。期待と好奇心と嫉妬を孕んだ人々が、固唾を飲んで王と勇者のやり取りを見守る。
「この王座をそなたに譲りたい。ローラと二人でこのラダトームを守って欲しい」
「……もったいないお言葉です。ですが陛下、今の私には過ぎた役目です」
「国の英雄より、王に相応しい人間が他にいるとでも?」
「竜王を倒すことが出来たのは、私一人の力ではありません。支えられて導かれて、やっとここまで歩いてきました。私はまだ若輩者で、一国を治めるような力はありません」
 グレンはきっぱりとした口調でそう言って、明るく輝く空色の瞳を上げた。
「それに私には、他にどうしてもやりたいことがあります。それを果たすためにもう一度旅にでるつもりです」
 グレンの視線がローラに向けられる。オーガンジーのドレスに身を包んだ王女の、膝の上に重ねていた手がぴくと震えた。
「姫、お約束通り戻って参りました」
「……はい」
「でもそれだけです。僕には何もありません」
 堂々としていたグレンの声が、不意に緊張を帯びて掠れる。勇者から一人の若者に戻った時、その表情はひどく頼りないものになった。
「僕は姫にきれいなドレスを見立てる目も、ダンスのお相手をする技術もありません。お菓子も香水も宝石も何の贈り物も差し上げられない。何度考えても僕は、姫に相応しい男ではありませんでした。でも」
一息飲んで、グレンは続けた。
「でも僕は、あなたが好きです」
 決して大きな声ではなかったが、静寂に満ちた空間を貫いて、それはしっかりと玉座にまで届く。何の強がりも気負いもない、グレンの素直な気持ちだった。
「だから、どうか、姫。ずっと僕の側にいてください。僕の旅についてきてください」
「それが前に言っていた、わたしへのお願い?」
 グレンは頷き、少し照れ臭そうに微笑んだ。
 ローラの赤い瞳が、風に吹かれた湖面のように揺れた。そっと俯くと、喜びと悲しみを含んだ涙が一粒、手の甲に落ちて砕けた。
「……ありがとう。あなたのその言葉があれば、わたし……」
 王座に縛りつけられた王女の、声にならない慟哭がラルス十六世の耳朶を打つ。王はしみじみと娘の横顔を眺めた。
 勇者と進む旅の道は、決して楽なものではないだろう。だがその途中でどのような艱難辛苦に見舞われようとも、ローラがこれほどまでに悲壮な表情を見せることはあるまい。彼女は彼女が望む、最高の幸せと手を携えて歩いていくのだから。
 ふと亡き妻の顔が王の脳裏を過ぎる。妻が死の間際に見せた微笑みの意味を、初めて本当の意味で理解した気がした。
「陛下……陛下。どうか旅立ちのお許しを」
 溜息をついたラルス十六世に、グレンが深々とこうべを垂れて懇願した。
 やがては王となる男だと、ラルス十六世はざわめきの中で思った。勇者ロトの血、竜王討伐の功績、新たなる伝説の創始者。これほどのカリスマを備えた存在を、世間が放っておくはずはない。この少年は、望むと望まざるとにかかわらず王に担ぎ上げられる存在だ。
 だがどのような状況になろうとも、グレンはこれまでと変わりなく、ローラを全力で守っていくはずだ。父親が娘婿に望む事柄において、彼は全幅の信頼を置くに値する。
「……十六を越えた者が旅立ちを求めるなら、王はそれを認めねばならぬ」
「陛下!」
 世継ぎの出奔などとんでもないと重鎮達が気色ばむ。王はそれらを睥睨しながら、意図的に威圧的な声を響かせた。
「勇者がこれと望むものすら与えぬとなれば、ラダトームの名誉と沽券にかかわる。ラダトーム王は、たった一つの褒美を出し惜しみしたとの醜聞を、他国知らしめてよいものか」
 ざわめきは囁きに変わり、やがて沈黙となった。ロト降臨の地とされるラダトームが、新たなる勇者を邪険に扱うなどあってはならない。勇者の国という名目は、諸外国に対するラダトームの強力なブランドなのだ。
 王は静まり返った場を悠然と見回し、最後にグレンに視線を向けた。
「ロトの勇者よ、まだ見ぬ国の未来の王よ。勝者の冠をそなたに授けよう。何時の日かそなたが頂く王冠に並ぶ、英雄王の証となるように」


 草原を二つの人影が進んでいく。
 灰色のプレートアーマーを纏った少年と煉瓦色のマントを羽織った少女だ。二人が歩くアレフガルドの広野では、さらさらとススキの群れが揺れている。
 ローラはグレンの手に掌を滑り込ませた。
「何もないあなたと、何も出来ないわたしの二人旅ね。でもわたし、あなたが手を引いてくれるなら、きっと何処までも歩いていけるわ。世界の果てでも、天つ国でも、行けないところなんてないと思うの」
 グレンはびっくりしたように瞬きし、ちょっと躊躇ってから指先に優しく力を込めてくる。二人の指が、嘗てラダトームを散策した時のようにしっかりと絡んだ。
 歩調を合わせてくれるグレンに並び、一歩一歩大地を踏みしめながら、ローラは兼ねてからの疑問を口にした。
「ねぇグレン、お父様に言っていた、あなたがどうしてもやりたいことって何?」
「僕の夢を支えてくれた人の夢を叶えることです」
「……?」
 ゆるりと首を傾げるローラにグレンが微笑んだ。
「まずはマイラの森に行って魔女さんに報告します。その後リムルダールから船に乗って、ムーンブルクへ行きましょう。魔力の明かりや月光の噴水、きっときれいですよ」
「……ありがとう……」
 あの日の他愛のない夢語りを、グレンはちゃんと覚えていてくれたのだ。押さえようのない喜びが、ローラの頬に椛を散らす。
 二人の歩みに合わせて、グレンの荷物が時折金属音を立てる。巨大な雑嚢に納められているのは、ロトの鎧と盾と兜だ。
 竜王が死に、魔物の勢力が衰退した今、ロトの防具は役目を終えたのだ。勇者の護りは新たなる戦いの日まで、伝説の中でまどろもうとしている。その眠りが長く深いものであるようにと、祈りの声が高く低くアレフガルドの大地に満ちていく。
「ロトの鎧を脱いだあなたは、わたしだけの勇者様ね」
 ローラが弾んだ声でそう言うと、グレンは面映いとでも言うように首を竦めた。
「勇者様は止めてください。僕はグレンで、それだけですから」
「でもあなたはわたしのことを姫と呼ぶわ。ラダトームでの権利を全部放棄してきたのだから、わたしだってもう姫ではなくてローラなのよ。名前で呼んではくれないの?」
 きゅっと眉を聳やかせるローラの方が一枚上手だ。グレンは俯いてぼりぼりと後ろ頭を掻いた。
「いきなりは無理です」
「どうして?」
「ずっと姫ってお呼びしてきましたから。ローラってお呼びするの、何だか恥ずかしいです」
 本気で照れているグレンを見て、ローラは思わず苦笑した。何でも馬鹿正直に受け止めるグレンの不器用さは多分一生このままだろう。だがそれこそが決して変わって欲しくない、ローラが愛したグレンの姿だ。
「……グレン」
 だからローラは、何度も口にしてきた言葉を改めてグレンに告げる。
「わたし、あなたが好きよ」
 グレンは目元を柔らかく細め、くすぐったそうに頷く。
 そんな彼の目に、どうかこの笑顔がきれいに映るようにと微笑み返しながら、ローラはぴたりと足を止めた。自然、彼女と手を繋いでいたグレンの歩みも止まる。
「姫?」
「だからね……」
「?」
 意識的に声を潜めると、案の定グレンが言葉を聞き取ろうと身を屈めてくる。ローラはしてやったりと瞬きをし、素早く爪先立ちしてグレンの唇に唇を重ねた。


 秋の匂いを乗せた風が、草原を吹き抜ける。
 風は二人の傍らを通り過ぎ、山を越えて海を渡った。風が目指す大陸で光と水が弾け、一際大きな虹が架かる。
 その虹の下に二人が王国を築くのは、まだ遠い未来の話。