勇者の血と三つの王国<1>


 渦を巻く光の中心から、満身創痍の兵士がゆっくりと這い出してきた。
 男は生きているのが不思議な程の深手を負っていた。折れた腕はゆらゆらと肩からぶら下がり、絶え間なく血の雫を撒き散らす。右目は無残に潰され、腫れ上がった肉が眼窩を完全に塞いでいる。男が息を弾ませる都度、肉体に巣食った死の匂いが濃く祠の中に立ち込めた。
 兵士は歯を食い縛り、途切れそうになる意識を必死で繋ぎ止めた。まだ死ねない。故国ムーンブルクで起きた惨劇を、同盟国の王に伝えるまで死ぬことは出来ないのだ。
「我がムーンブルクの無念を何としても……」
 男が呻いたその時、光の渦が爆発音と共に弾け飛んだ。
 旅の扉と呼ばれる転移の魔法陣は、トレースされた同一形のそれと力の均衡を保ち合いつつ存在を維持する。それが消滅したということは、対になっていたムーンブルク側の魔法陣が破壊されたのだろう。
 男の脳裏に、蹂躙し尽くされた故郷の惨状がまざまざと蘇った。
「……くそっ」
 共に旅の扉に飛び込んだ同僚は、サマルトリアに到着出来たのだろうか。仲間の身を案じながら、兵士は血塗れの手でドアノブを掴んだ。戸板に体重を乗せるようにして、酷く重たく感じるそれを押し開く。
 ゆっくりと開いていく扉の向こうから、眩しいほどの緑に包まれた草原が現れた。
 優しく吹き抜けていくのは花の香り。柔らかく鼓膜を打つのはひばりの声。あまりに平穏な風景に涙が零れそうになるのを堪えながら、男は一歩、また一歩となだらかな丘を登った。
 眼下いっぱいに巨大な王国が広がった。分厚い壁に守られた町の中央、太陽と竜の紋章を頂いて鎮座するのは、北の大国ローレシアの王城だ。


 それは正に晴天の霹靂だった。
「ムーンブルクが陥落した?」
 ローレシア王は微かに瞠目した後、太い眉を顰めた。
 旅の扉を潜り抜けてきたムーンブルクの兵士は今、王座の前に跪き、死人のように青ざめた顔でローレシア王を見つめている。その沈痛な表情、悔恨に曇る瞳、そして応急処置の施された無数の傷は、彼が齎したムーンブルクの悲劇をより強烈に印象づけるのだ。
「……月と海の民に精霊神ルビスの導きがあらんことを」
 王は黙祷するように黒い瞳を閉じた。
 ムーンブルクはローレシア建国百年来、情報、物品、文化を通して盛んに交流が行われてきた友好国だった。王家の親交も深く、十八年前にはローレシアの姫がムーンブルクの王子に嫁いでいる。同盟国の滅亡と実妹の死を聞かされた王の衝撃は計り知れない。
 謁見の間は水を打ったように静まり返った。誰もが瞬きするのも忘れて、今やムーンブルク最後の生き残りとなった伝令兵を見つめる。
 ムーンブルク西方のロンダルキア山脈から、魔物が雲霞の如く押し寄せてきたのは満月の夜の出来事だという。必死の応戦も虚しく、千年の歴史を誇った大国は敢えなく壊滅したと、兵士は震える声で語った。
「馬鹿な」
 重鎮の一人がごくりと喉を鳴らした。
「ムーンブルクは古来より魔術で栄えた国。その技術で張り巡らされた結界には、魔物を弾くことは勿論、人間の悪意をも浄化する力があると聞いている。その鉄壁の守りが破られたというのか」
「……魔物が攻め入ってくる少し前、一人の男が如何なる手立てを用いてか王宮に侵入いたしました。その男が放った黒い光によって、ムーンブルク近衛兵隊は一人残らず砕かれました」
 兵士は喘ぐように息継ぎをして、更に話を続けた。
「それから程なくして……恐らくその男の仕業かと思われますが……ムーンブルクの大地が人々を食らったのです。結界を司っていた魔術師達はそれで殲滅したと思われます」
 ローレシアの人々は声もなく青白い顔を見合わせた。大地が人を食らうとはどういうことなのか、あまりにも突飛な報告に言葉も出てこない。ムーンブルクに現れた男の正体、近衛兵を砕いたという黒い光、母なる大地の異変、全てが想像の及ぶ範囲を超えている。
「魔物の軍は西と東の城門を容易く突破し、城下町に侵入しました。兵の大半を失ったところに軍に攻め入られては、我々も成す術がなく……」
「魔物が軍隊を構成だと? 信じられん」
 魔物は勝手きままな生き物で、他からの干渉を極端に嫌う。何者かの指示を受け、軍隊を形成するなどまずありえない話だ。強靭な肉体と圧倒的な力を持つ魔物が策を弄して攻め込んだとあれば、人の国など一溜まりもない。
「……魔物供を服従させる者が存在するということか」
「まさか。どれ程の力を持てば、そのようなことが可能なのだ」
 魔物に対する常識を覆されて、大臣達は口々に困惑の呟きを漏らした。今は遠い異国の出来事だが、いつなんどきこのローレシアにも同じ災いが降りかかるか分からない。
「関所の警備を強化し、跳ね橋を上げましょう。たとえ人の形をしていても、不審者の入国を許可してはいけません」
「ムーンブルクの結界に比べれば、このローレシアの魔除けなど子供騙しのようなものだ。早急に強化の必要がある」
 側近達が囁き合うのに頷き、王は将軍に命じた。
「兵を増員すると同時に、サマルトリアに伝令兵を」
 隣国サマルトリアもまた、ローレシアやムーンブルクと王家の血筋を同じくする同盟国だ。
 剣術を尊び剣士を重んじるローレシアでは、魔術師の数が極端に少ない。強力な守護の結界を張り巡らせるには、多くの神官や僧侶を抱える神聖サマルトリアの協力を仰ぐ必要があった。
「続きサマルトリアとの連合部隊を編成し、ムーンブルクに派遣せよ。ムーンブルクの状況を把握し、対策を講じねばならぬ」
 王はそう決断を下すと、ムーンブルクの兵士を見て目元を柔らかくした。
「大儀であった。その方の命懸けの伝令はこれから多くの者を……」
 そこまで言った時、王は兵士の異変に気づいて唇を引き結んだ。
 拝跪した兵士が、かたかたと小刻みに震えていた。初め痙攣のようだった動きはみるみる激さを増し、体を上下左右に弾ませるような奇怪な運動へと変わっていく。恰も見えない手で乱暴にゆすぶられているかのようだ。
 異常を察した近衛兵達が次々と抜刀した。白刃がそこここで稲妻のように閃き、室内の空気が緊張を孕んで急速に凍りつく。
 衆目の中、ムーンブルク兵士の体がびくんと跳ね上がった。背筋をぴんと張り、天井を仰いだ兵士の眦から、血の混じった涙がぼろぼろと零れ落ちていく。
「がっ」
 兵士の口から血飛沫と共に黒い腕が突き出した。
「なっ……」
 兵士の体から何かがゆっくりと出てきた。黒い腕に続いて黒い肩が現れ、黒い頭が出現し、黒い胸が生じる。胸の悪くなるような汚臭を周囲に振り撒きながら、それは最後に爪先を引き抜いてふわりと床に降り立った。
 ローレシア近辺では見かけぬ魔物だった。闇を人型に切り取ったようなものが、あるかなきかの風にふわふわと揺れている。魔物に寄生されていた兵士は最早微動だにせず、絶命していることは明白だった。
「陛下をお守りしろ!」
 隊長の号令一下、近衛兵が一斉に魔物に襲いかかった。
 刃に貫かれるより一瞬早く、魔物はふわりと浮かんだ。目鼻のないつるんとした顔を巡らせると、蛇の如く体をくねらせながらしゅるしゅると空中を泳いでいく。魔物が目指すは玉座、狙うはローレシア国王だ。
 瞬く間に間合いを詰め、魔物は王に向かってまっすぐに手を伸ばした。両腕はゴムのように伸び、鞭のように撓って空を凪ぐ。いびつに歪んだ指先は王の首を狙っていた。
「……」
 顔を顰めた王の上に、ふっと影が落ちた。