勇者の血と三つの王国<2>


 次の瞬間、天窓が砕けて一人の少年が飛び込んできた。ガラスの破片がきらきらと舞う中、少年の翳す剣が太陽の輝きを帯びる。
 落雷の如き音と衝撃が、謁見の間に轟いた。
 真っ二つに切断された魔物は、どろどろとヘドロのようなものを撒き散らしながらどさりと床に落ちる。鮮魚の如く二度跳ね上がったのち、ぐったりと弛緩してそのまま動かなくなった。
「こんなとこまで入り込まれるなんて、親父もヤキが回ったんじゃねぇの?」
 巨大な剣を手にしたまま、魔物を屠った少年が得意気に王を振り返った。
 太くて濃い眉。くるんと丸いドングリまなこ。きゅっと口角の上がった唇。特別に美男子ではないが、生き生きと屈託のない表情は魅力的だ。青い瞳と黒い髪、そして良く日に焼けた肌を持つこの少年は、先月十六の誕生日を迎えたこの国の王子である。
「……アレン」
 王は一粒種の息子を眺め、露骨に眉を寄せた。
「お前のせいで今日からしばらくの間、雨の日は別室で謁見することになりそうだ。どうしてくれる」
「いきなり説教かよ」
 父の渋面に負けじとばかり、アレンは鼻に皺を寄せた。
「稽古場にいたら変な気配がしたから、親父の大ピンチだと思って来てやったのにさ」
「だったら何故扉から入って来ない」
「城ん中回るより、稽古場の窓から出て外壁走る方が早いだろ。その後破風に登ったらこの上に出るからちょうどいいと思ってさ」
 そう言ってにかっと健康的な歯を見せる。てんから呑気な息子の笑顔を見て、王は頭痛がするとでも言うように眉間を揉んだ。
「外壁を走るな。破風に上がるな。窓を割るな。みなの手本になるような、立派な王子になれとは言わん。せめてサルから人に進化しろ」
「だ、誰がサルだよ!」
 王は芝居めいた仕草で周囲を見渡し、最後にぴたりと息子に視線を止めた。黒い瞳が剣呑に細くなる。
「周りを見てみろ、お前以外に誰がいる」
「ムッキー! これから何かあったって絶対助けに来てやんねぇからな!」
「生憎だが、お前に助けられるほど私は落ちぶれていない」
 王は息子と良く似た眉を聳やかせた。
「大体お前は、肝心なところでつめが甘いのだ」
「どういう意味……」
 父に詰め寄ろうとしたその瞬間、背筋に冷たいものが走った。はっと振り返ったアレンの目に、両断された魔物がゆらりと立ち上がる様が映る。
「……こいつ!」
 すっかり油断していたアレンの対応が遅れた。応戦の構えを取ろうとした時、既に魔物の鉤爪は回避不可能な距離まで近づいていたのだ。首筋に触れた指先は、魂までをも凍らせるような冷たさを帯びていた。
 濃紺のマントを翻してローレシア王が立ち上がった。目にも止まらぬ早さで剣を抜くと、鋭い呼吸音を放って空を薙ぐ。王の気合は刀身を通して衝撃波と変じ、魔物を一瞬にして粉砕した。
 悪臭と血煙を残し、魔物は完全に消失する。
 アレンは首筋に手をやり、指に付着した血を見て舌打ちした。父に助けられなければ完全に首を切断されていただろう。自らの失態を認めないわけにはいかなかった。
「これで貸し借りはなしだ」
 にやりと口の端を歪めてローレシア王が笑う。
 この状況では返す言葉もない。アレンは下唇を突き出したまま、手にしていた剣をどんと肩に担いだ。


 城壁に腰かけるアレンの横顔が、沈む夕日に照らされて金色に染まる。
 ぶらぶら揺れる足の下にはローレシアの城下町が広がっている。未だムーンブルク滅亡を知らされていない人々は、何時もと変わらぬ夕刻を穏やかに過ごしていることだろう。
 広場から住宅街へ続く道を泥だらけになった子供達が駆けていく。無邪気な歓声が弾け、薔薇色の空まで届いた。
「……」
 アレンは南西の方角に顔を向けた。
 どんなに目を凝らしても、破壊の煙炎を見ることは叶わない。けれど夕焼けを映す海の向こうには、確かに魔物に滅ぼされた国が存在するのだ。
 土地そのものに魔力が宿っていたという神秘の国。海と月に愛されたテパ族が千年の歴史を積み重ねた王国。
 死の牙に噛み砕かれる前日まで、ムーンブルクの民もこんな風に当たり前な夕方を過ごしたはずだ。明日の到来を疑わず就寝した人々は、翌朝の朝日を浴びることなく命をもぎ取られてしまった。その現実を思う度、寒々とした感情が胸を吹き抜ける。
 これからローレシアとサマルトリアの間で頻繁に連絡が取られ、連合調査隊が派遣されるだろう。情報を収集して敵の正体を突き止めた後、改めて軍隊を編成して元凶を成敗しに行くのだろう。
「俺には城で大人しくしてろって言うんだろうなぁ」
 この季節にしては冷たい風が、アレンのぼやきを攫っていく。
「つまんねぇの……」
 アレンは掌を見た。すっかり固くなった皮と幾つもの豆は、彼が幼い頃から剣を握り続けてきたことの証だ。
 剣を尊ぶ国の王子として、アレンはこれまでの人生を剣術の稽古に明け暮れて過ごしてきた。
 日々鍛錬を重ねた結果、この城で力を試す相手はいなくなった。一体自分がどれほどの強さであるのか、そしてどれほど強くなれるのか、確かめたいという気持ちは前からあった。そしてその願望は、生まれて初めて魔物と対峙した時から、押え切れぬほど大きく膨れ上がっているのだ。
「力試し……してみてぇな」
 らしくもなくぽつんと呟いた時、怒りを含んだ声がアレンの耳朶を打った。
「王子……王子!」
 城壁より少し上、西側の物見櫓から身を乗り出した老人が、アレンに向かって声を張り上げている。
「またそのようなところにいらっしゃるとは……地面を歩けとのお父上のお言葉をお忘れか! このエドマンド、教育係としての至らなさに涙が出てきますぞ!」
「げっ、爺」
 エドマンドはアレンのお目付け役だ。嘗てローレシア最強と謳われた剣士は、現役を引退した後アレンの護り役に抜擢され、十六年に渡って幼い王位継承者に尽力した。すっかり年老いたエドマンドに往年の勢いはないが、幼い頃からの刷り込みというやつには抗い難く、アレンは未だこの老人に頭が上がらない。
「悪い子は魔物に狙われてしまうと、この爺が何時も申し上げているではありませぬか。城壁に登るようなおいたをする子のところには、きっと今夜にも……」
「分かってるって」
 長い長い説教の始まりを予感して、アレンはげんなりしながら手を振った。
「悪魔神官が来るってんだろ?」
「その通り。恐ろしい魔物に頭から食われてしまいますぞっ」
 嘗てローレシアに、邪教を用いて人心を惑わせた神官がいたという。彼は不老不死や永遠の美といった甘言で人々を虜にし、夜な夜な地下の聖堂で怪しげな儀式を執り行った。数多のいけにえが破壊神シドーに捧げられ、祭壇は犠牲者の血で真っ赤に染まったといわれている。
 その後神官は断罪され、何処とも知れぬ地下牢に繋がれたまま獄死したはずだった。
 その神官が魔物となって蘇ったと、まことしやかに囁かれ始めたのは十年ほど前のことだ。祈りを捧げる神官の声が、時折何処からともなく聞こえてくるというのだ。
 尤も、そんな話を本気で怖がるのは子供だけだ。昔は瞳をいっぱいに見開いて怯えたアレンも今や十六歳、おとぎ話に動じるような年齢ではない。
「面白ぇじゃん。ホントに来たら俺が返り討ちにしてやるよ」
 全く悪びれないアレンの様子に、エドマントは情けないとその場に泣き崩れた。しょぼしょぼと目を瞬かせ、ちーんと鼻を噛んだ次の瞬間、皺だらけの顔が教育者の矜持を帯びて引き締まる。
「成人の儀を終えられてなお、そのような子供じみた態度を取られるか。最早黙って見過ごすわけには参りませぬ」
 ひゅん、と銀光がエドマンドの手元から迸る。アレンがはっと身を引いた一瞬後、鈍い音と共に塀の上にナイフが突き刺さった。
 刃先が掠めたこめかみの辺りから、短い黒髪がはらはらと落ちた。
「あっ、危ねぇだろ!」
 抗議するいとまもあらばこそ、続いて空を切ったナイフが、見事アレンの服を城壁に縫い止めた。仰向けに引っ繰り返ってじたばたするものの、深く石の繋ぎ目に食い込んだナイフは、ちょっとやそっとじゃ抜けやしない。アレンは精いっぱい首を持ち上げ、エドマンドに向かってかちかちと歯を鳴らした。
「何すんだよ!」
「今宵の夜風は随分と涼しいようです。頭を冷やされるにうってつけかと存じます」
「……は?」
 澄ました顔で、エドマンドは手にしていた短刀を懐に納めた。
「それほど城壁がお好きなら、一晩ゆっくりとそこでご自分のお立場を熟考されるがよい。朝になったらお迎えに上がります。それでは」
「それではって……ちょっと待て! 爺! おい! わーん、ホントに置いてくなってばー!」
 もがくアレンの影が、城の中庭に長い影を落とした。