破壊神と最後の戦い<5>


 国に帰ってからの日々は、つむじ風のように慌ただしく過ぎ去っていった。
 当時を振り返っても、アレンは帰還してからの一ヶ月間をはっきりと思い出せない。とにかく連日お祭り騒ぎで、やれ式典だやれ舞踏会だと、三人は右へ左へひっぱりだこで息をつく暇もなかった。コナンとナナがそれぞれの国に引き上げる前日まで宴は続き、道中風邪一つ引かなかったアレンが、その後疲労で三日間寝込んでしまったほどだった。
 平和を取り戻したローレシアは今、花の季節を迎えている。透き通る陽光が溢れる庭園で、アレンは穏やかな午睡に入ろうとしていた。
 二年振りに帰還しても、旅立ち前に何時も昼寝していた樹木の枝ぶりに変化はなかった。恐らく庭師が、不具合が生じないようアレンが留守の間にも整えていてくれたのだろう。
 二又に伸びる太い枝に仰向けになり、両腕を枕にすると、生い茂る葉の合間から零れ美がきらきらと零れてくる。瑞々しい若葉の向こうに広がる空は、心が洗われるような澄んだ青色だった。
 それはアレンとコナンとナナが、命懸けで取り戻した空の色だ。
「空が青いのなんて当たり前だと思ってたけどさ……」
 木漏れ日に意識せず目を細めながらアレンが呟く。
「当たり前って大事なことなのかもしんねぇな」
 アレンの腹の上で前足を舐めていた猫が、にゃーんと律儀に返事をした。コナンとナナに入れ替わるように城に迷い込んできて、それきり部屋の住人になった白猫だ。猫は家につくという慣例に反して人懐こく、まだ子猫のせいもあってか絶えず同居人の後を追いかけ回している状況だ。
「な、お前もそう思うよな」
 もう迷子にならないようにと、アンジェリカが結んだ濃紺のリボンが真っ白い毛並みに良く映える。銀色の長い髭が、何かに反応したようにぴくんと上下した。
「……どした?」
 問うまでもなく、答えは遙か下方から返っていた。
「王子……王子!」
「……」
 目線を下方に向けると、薔薇の茂みに縁取られた小道でエドマンドが声を張り上げていた。この平和な時代においても、生まれながらの剣士が鎧を脱ぎ捨てることはない。彼は死ぬまで戦い続けることを誇りとしており、アレンはそんな彼が好きだった。
「あーあ、爺にみつかっちまったな」
 猫が無念そうに唸る。アレンは苦笑しつつ猫を掬い上げ、半身を起こすと同時に枝から飛び降りた。旅の間よく鍛えられ重量を増した肉体は、それでもしなやかに地表に戻る。
 体を伸ばす間もあらばこそ、お目付け役が慌しく駆け寄ってきた。少し見ない間にエドマンドは随分縮んで……正しくはエドマンドが小さくなったわけではなく、アレンが大きくなったのだが……見下ろす首の角度が以前とは違う。
「またそのようなところで昼寝をなさっていたのか! 木に登るようなおいたをする子には……」
「分かってるって」
 エドマンドに捕まったアレンなど用済みなのだろう。そそくさと逃げていく白猫を尻目に、アレンはひらひらと手を振った。
「悪魔神官が来るってんだろ」
「その通り。足から食われてしまいますぞ!」
 エドマンドが口角泡を成す様に、アレンはふうと小さく溜息をついた。とっくの昔に退治した悪魔神官は今でもローレシアの言い伝えの中に生き続け、幼い子供達の抑止力として活躍しているようだ。
「ホントに来たら俺が返り討ちにしてやるよ」
 エドマンドの眉毛が、苛立ちを孕んできりきりと角度を増していく。
「またそのようなことを……」
「んな物騒な奴、国ん中うろうろさせねぇよ。安心しな」
「……」
 握り拳を固めたまま、エドマンドは気勢を殺がれたように押し黙った。しげしげと見上げてくる眼差しはいぶかしむようであり、探るようであり、問うようでもある。内面まで見通されるような気がして、アレンは小さく首を竦めた。
「かわいい子には旅をさせろとよく言ったものですな」
「は?」
 エドマンドの意図が掴めなくて、アレンは首を傾げる。わざわざそんなことを言うために、庭園まで捜索にきたわけではあるまい。
「んで、何の用だよ?」
「二時から講義がありますのでそれをお知らせに参りました。くれぐれもお忘れなきように」
「うえ」
 アレンは首筋に手を当てて呻いた。じっとしていることが何よりも苦手なアレンにとって、講義は拷問にも等しい試練だ。
 それでも以前のように授業をさぼることはしない。溜息を吐きながらも指定された時間には部屋に行くし、頭を沸騰させながらも嫌いな書物に向き合っている。課せられた義務からは逃げないと、旅の間誓ったのだ。
 アレンを見上げるエドマンドの表情は誇らしげだ。やんちゃな孫に目鼻がつき始めて、ようやく肩の荷が下りたといったところなのだろう。
「それとこれを。ムーンブルクからの便りにございます」
「……ムーンブルク?」
 恭しく差し出された封筒には、月を抱くグリフォンの封蝋が施されていた。


 噎せ返るような花の香りの中、アレンは庭園にある石に腰掛けて封書を破いた。取り出した便箋の端まで勢い余って千切れていたが、元来そのようなことに頓着する性格ではない。字さえ読めればそれで良いのがアレンの信条である。
「元気にしてんのかな、あいつ」
 勿論、と笑うナナの顔が容易に想像され、賑やかな声までが聞こえてきそうな気がした。
 仲間が傍にいない生活にまだ体が馴染まない。ふとした瞬間に名を呼びそうになるし、応えを待つ自分がいる。彼らと過ごした時間は、アレンの人生においてそれ程の影響を及ぼすものだったのだ。
 便箋に踊る文字は良く訓練されていて美しいが、ナナの性格を示すようにやや大振りだ。順調な復興状況をざっくばらんに報告した後には、美味いフライを揚げてやるからコナンと一緒に遊びに来いと追伸が添えてある。
 ムーンブルクが完全に復興を遂げた暁には、勿論国賓として招待されるだろう。だがそれは随分と先の話、もしかすると何十年も先の出来事だ。
「その前に遊びに行けりゃいいんだけどな」
 アレンは無造作に折り畳んだ手紙を懐に入れた。岩から飛び降り、両手を大きく伸ばして体を解す。
「……講義までもうちょいあるな」
 一人ごち、アレンは外れにある稽古場に向かって歩き出した。数多の兵士達が特訓に勤しんでいる頃合だ、全身が石化し兼ねない苦行を行う前に、彼ら相手に軽く汗を掻いておくのも悪くない。
 長い旅を終えても精進の日々は変わらない。磨くことを怠れば、心も力も忽ち曇りを帯びてしまう。背負うものが大きくなれば大きくなるだけ、アレンには益々強くなる必要があった。
 あと二ヶ月で十九歳の誕生日だ。それを迎える前に一年遅れての婚礼、それを過ぎれば王位継承の儀式が待ち受けている。父から王冠を引き継いだ瞬間、ローレシアの全てがアレンの双肩に圧しかかってくるのだ。その重みは半端なものではない。
 ちちち、と遥か頭上で小鳥の声が響く。誘われるように顔を上げたアレンは、晴れ渡った空の広さに目を細めた。
 風吹き渡る大空がローレシアを覆っている。澄んだ空を見上げるたびに思い出すのは、旅人から王族に戻る時に三人で交わした言葉だ。

「今度またさ」
 空はあの日のように青く。
「美しく果てしないこの世界を」
 雲はあの日のように白く。
「三人で一緒に旅しようね」
 光はあの日のように優しい。

 それは恐らく生涯果たすことの出来ない約束だ。
 自由だった日々は遠く過ぎ去り、世界を駆けた翼は王族としての重責に潰されて使い物にならない。国を守る者として、勝手きままに飛び回ることは二度と許されぬ身の上だ。
 けれどとわに変わらぬ空がある限り、冒険の記憶は何時でも鮮やかに彼らの中に蘇る。
 川で釣った魚の味。裸足で踏み入った浅瀬の冷たさ。頬に降り注ぐ雨の感触。透き通った陽光の温もり。笑い顔、怒鳴り声、交わした言葉、過ごした空間、共に歩んだ道に刻んだ足跡のかたち。

「何時かまたな」

 ロトの末裔達が綴った長い旅も、やがて伝説となって語られるだろう。
 だが勇ましい英雄譚である前に、三人で過ごしたあの日々は、彼らにとってかけがえのない少年時代の思い出であるのだ。