それは神であり、人を超越した至高の存在だ。 「イオナズン!」 ナナの放ったイオナズンが、巨躯に弾けて花火のように散る。強烈な爆風と火炎は、金属めいた鱗を数枚吹き飛ばしたに過ぎない。 シドーは怒りの咆哮を上げ、大きく開いた口蓋から炎の渦を吐き出した。業火を浴びた壁は跡形なく吹き飛び、支柱は飴細工のようにとろとろと崩れる。 「らぁ!」 かっと鎌首を擡げた尾に、アレンは思い切り剣を振り落とした。胴から切り離された頭は床に落ち、独立した生き物となって跳躍する。アレンの一瞬の動揺を突いて、蛇は少年の喉笛に噛みついた。 「ぐっ」 咄嗟に腕を翳したものの、一噛みで容易く骨を噛み砕かれた。アレンは激痛に唸りながら蛇を振り解き、床に落ちたそれを踏み潰す。使い物にならなくなった腕にベホマが飛ぶが、一度失われた感覚が戻るまでにはやや時間が必要だ。 アレンがシドーとの距離を置く間に、尻尾の蛇が再生した。破壊神はその回復力も圧倒的である。 「こんなものが放たれたら、世界は三日ともたない」 コナンが弾む息を整えながら苦々しく呟いた。 不完全な形で降臨を遂げた破壊神は、一切の理性がないようだった。ただ目の前にあるものを破壊し、殺戮し、崩壊させるだけの存在。神としての意思を置き去りにして、巨大なエネルギーだけがそのままこちらに移動してきたのだ。 「あいつが笑ってたのって、こういう意味だったんだ」 ベリアルの薄ら笑いを思い浮かべつつ、ナナは小さく舌打ちする。 ごおっと放たれた炎を、三人はそれぞれに散って避けた。床と壁が溶けて、軒先のツララのようにぽたぽたと石の雫を振りまく。このままでは聖堂は遠からず崩壊し、瓦礫と化して遥か下方の大地に叩きつけられるだろう。 「とっとと決着つけねぇとやばいぞ!」 波打つ床に両足を踏ん張ってアレンが叫ぶ。稲妻の剣がアレンの気合に反応して、一際強い光を放った。 「……稲妻の剣」 炎を貫く輝きに希望が見えた気がして、コナンは一心に記憶を掘り起こし始めた。 脳裏に過ぎったのは伝説を紡ぐ歌だ。青き力。赤き力。不死鳥の加護。竜の加護。二つの力が生み出す白き雷……神を封じたギガデイン。 「剣に魔力を与えれば、もしかしたら」 「魔力を与える?」 意味が分からない。アレンは眉間に皴を寄せた。 「……シドーに剣を突き立て、そこに僕とナナの全魔力を注ぐ。剣に刻んだ詠唱が不死鳥と竜の力に反応すれば、ギガデインが発動する可能性がある」 コナンは頤に手を当てて一つ一つの言葉を選ぶ。作戦に矛盾がないか探りつつ台詞を紡いでいるのだ。 「ギガデインは神々の大戦で破壊神シドーを封じた魔術。成功すればあの醜い生き物を再び冥界へ叩き込むことが出来るだろう」 「……」 「楽な作業ではない。アレンは破壊神の懐へ飛び込まねばならないし、僕達は生命維持ぎりぎりまで魔力を搾り出す必要がある。そこまでしても術が発動する補償はないし、何より失敗したら後がない」 コナンは二人を改めて見た。 「極めて無謀な挑戦だ。普段の僕ならこんな賭けには絶対に手を出さない。だが」 「無謀でも何でも、それしか方法がないならあたしやる」 「面白そうじゃん。ギガデインとかいうのも見てみたいしな」 アレンは一片の迷いもなく頷いた。勝てる。負けるわけがない。ロトの言葉とルビスの祈り、そして何よりコナンとナナが共にあるのだ。 三人の眼前でふわりと破壊神シドーの巨体が浮かんだ。不完全な降臨を果たした神には何の悪意も害意もない。破滅のエネルギーは、ただ目の前のものを抹消するために存在するのだ。 「悪いな」 アレンは身を低くして膝を折った。 「俺らはこんなとこで死にたくない。だから殺される前にお前を殺すしかないんだよ」 かあっと開いた口蓋に光が宿った。一瞬の間を置いて、そこから黄金色の炎が吐き出される。大地も沸騰するだろう熱量が風を伴って末裔達に襲いかかった。 「……スクルト!」 一歩踏み出したコナンが両手を翳してスクルトを唱えた。スクルトはコナンの魔力に呼応し、白いベールとなって三人の肉体を包む。仲間の防御に集中するコナンの肉体だけが炎に負けてぶすぶすと燻る。 「ベホマ!」 赤く爛れたコナンの肌が色を取り戻す。ナナの織り成すベホマは、銀色の雨となって優しく末裔達に降り注いだ。 破壊神シドーが咆哮を上げる。ひどく苛立って手足を振り回す。全力を挙げても破壊出来ぬ存在を目の当たりにして、シドーはひどく困惑しているのだ。 より強い威力を持って吹き荒れる炎を、より強いコナンの魔術が弾き、より強いナナの魔術が守った。万物を焼き尽くさんと逆巻く業火が、破壊神の動揺を映して僅かに揺らいだ。 「アレン、頼む!」 「あたし達が守るから!」 「おう!」 逆巻く炎のトンネルに飛び込み、アレンは目的に向かって駆け出した。途方もなく遠く思われた灼熱の道を、コナンとナナの守りを纏って一気に走り抜ける。 太陽だけじゃ空の青さは守れない……そう言ったのはロトだった。太陽と星と月の王家に、時同じくして彼らが生まれたのはこの瞬間のためなのだ。三つの命は、今大いなる力となって異世界からの脅威を打ち払おうとしている。 火の壁を突き破って、アレンが跳んだ。 炎の向こうには破壊神の姿があった。銀光が閃いた次の瞬間、巨大な爪に深く肩を抉られる。コナンのスクルトがなければ一撃で腕を吹き飛ばされていただろう。 アレンはシドーの前に着地し、頭上に剣を振り翳した。両手で握ったそれを、裂帛の気合と共に突き立てる。岩を切り裂くような甲高い音を立てて、稲妻の剣がシドーの蛇腹に食い込んだ。 「はぁ!」 アレンは渾身の力を込めて剣を振り下ろした。ぶちぶちと音と立てて筋肉が裂け、ぱっくり開いた傷口から粘つく体液と内臓が鮮魚のように飛び出してくる。鼻が曲がるような腐臭に息を止め、アレンは再び剣を突き立てて今度はそれを横に薙いだ。 腹に刻んだのは、アレンの掌に輝くのと同じルビスの十字印だ。異なる神の聖印を刻み、少しでも再生を遅らせようとの目論見である。 「食らえ!」 傷の中心部へ根元まで剣を突き立てた瞬間、背後で大きく空気が揺らいだ。アレンは破壊神の腹に剣を残したまま大きく後ろへ跳ぶ。 コナンとナナの魔力は、青と赤の光玉となってアレンの両脇を走り抜けた。二つの光は稲妻の剣に吸い込まれてすうっと消える。 耳の痛くなるような沈黙が戦場に満ちた。 「……だめか?」 アレンが呟いたその瞬間、かあっと稲妻の剣が白く輝いた。 稲妻の剣に刻まれたギガデインの詠唱が、二人の魔力に呼応して雷を生んだ。凄まじい威力を持つ稲妻が、網膜を焼く輝きとなって破壊神を包み込んでいく。 「シドーが……」 目も眩むような輝きの中、黒いシルエットとなって浮かび上がった破壊神が崩れ始めた。 太陽と星と月の光に侵食され、破壊神シドーが粒子となって散っていく。絶対的な恐怖を振りまいた体の輪郭が揺らぎ、色素が薄れ、質感が消えていく。数多の生贄の血肉を啜った現身は、閃光に飲まれて跡形もなく拡散したのだった。 からん、と稲妻の剣が床に落ちた。 それを合図としたかのように、空を覆っていた闇がゆっくりと拡散し始めた。そこここで生じた亀裂から夜明けの空が覗き、少し冷たい風を吹き降ろしてくる。澄んだ微風が激戦の爪跡残る戦場を優しく包み込んだ。 「やっつけた」 「そのようだ」 「勝ったのね」 三人はのろのろと傷だらけの顔を見合わせた。 金色の光が斜めに差し込んできて、末裔達は弾かれたように空を見上げた。輝きの失われていた空に、王者たる太陽が神々しく蘇ってくる。温もりを帯びた光を浴びていると、戦いで麻痺していた感情と感覚がゆっくりと戻り始めた。 「見て」 ナナが平原を指差した。 大地を覆う豪雪は何時しか光の花と変じていた。花茎から離れた白い花びらが、ふわりふわりと天に向かって散っていく。空と大地の間に数え切れない程の花弁が舞う情景は、夢のように美しい。 「わあ……きれい」 疲れも傷の痛みも忘れて、ナナがうっとりと呟く。 三人は崩壊した壁越しに大地を覗いた。上昇する花びらに手を翳すと、掌に留まって仄かに明滅する。それは光のようであり、花のようであり、雪のようでもある不思議な触感だった。 「ロンダルキアが解放されたんだ」 コナンが満足げに目を細めた。 「叔父上と三柱神の魔力が消え、この地の全てが呪縛から解き放たれていく。間もなく緑溢れる美しい世界になるだろう」 「生き物もたくさん戻ってくるね。だってこんなにきれいなんだもん」 二人に並んで大地を見下ろしていたアレンは、ふと気配を感じて顔を上げた。 薔薇色を帯びた空から一筋の光が真っ直ぐに伸びてくる。視界が白く染まるとほぼ同時、顎に一発食らったような強烈な目眩を感じた。 「あ」 覚えのある感覚に舌打ちするより早く、唇が勝手に動いた。 「……ロトの血を引く子らよ。あなた達のお陰でこの世界は守られました」 「ルビス様……」 「ま、また……」 滂沱と涙するコナンと不快げに退くナナを尻目に、アレンが眉を吊り上げた。 「だから勝手に入るなって……っ!」 「ごめんなさい、アレン。でもどうしてもあなた達にお会いしたかったのです」 ルビスは胸の前に手を合わせ、申し訳なさそうにしぱしぱと睫を上下させた。先の激戦よりきつい精神ダメージに、コナンとナナがよろよろとよろめく。 「破壊神シドーは白き雷によって、再び冥界へ封印されました。わたくしの世界を守ってくれたあなた達には、感謝の言葉もありません」 末裔達の心情に頓着することなく、ルビスはにっこりと微笑んだ。流石女神というべきか究極のマイペースである。 「あなた達への感謝を胸に、わたくしはこれから世界を守りましょう。猛き勇者らの血に、永久の安寧と祝福がありますように」 朝焼けの空から光の粉が降り注ぐ。それは三人の肉体を包み込み、醜い裂傷や火傷の跡を瞬く間に癒した。全身の疼痛も鉛のような疲労感も、全てが一瞬にして消え失せる。 「ロトの子らよ、故郷にお帰りなさい。みながあなた達を待っています。美しきロトの国々こそ、あなた達が守るべき世界です」 「……ルビス様」 コナンが一歩前に進み出た。 「叔父は……ハーゴンは」 ルビスは頷き、目を伏せる。 「彼の魂はわたくしの元で、長きに渡る清めを受けるでしょう。途方もなく長い禊となりますが、全てを購った後には、きっと」 「……」 コナンが深々と頭を下げるのに、ルビスは微笑んだ。 優しい力がするりとアレンから抜け出した。薄く揺らめくベールのような光は、三人の頭上をくるりと旋回して空の彼方へと消えていく。 アレンはふうと息をつき、二人の仲間を見てにっと笑った。 「帰るか」 「まずは何処にいく?」 「あ、あのね。あたし、ムーンブルクへ行ってみんなに報告したい。……いいかな」 「勿論いいとも」 「そんじゃまずはムーンブルク。そんでサマルトリアに行ってローレシアだな」 「決まりだ」 「うん」 三人は斜めに傾いだ塔を注意深く下り、ロンダルキアの大地へと踏み出した。 ふわりふわりと光の花弁が舞う中を、三人は妖精族の砦に向けて歩き出す。全てを成し終えた充実感に踏み出す足取りは軽い。 「ねぇねぇ、アレンはローレシアに帰ったら何したい?」 「んーっと。魚のフライとアップルパイを飽きるまで食う」 「大任を終えた剣士の次なる目標にしては美しくないな」 「んなこと言ったって食うか寝るかぐらいしか思いつか……あ、久しぶりに城の奴らと手合わせすっかな」 「君の相手を務まる兵士がいるかな」 「食べたり寝たりするのもいいけど、待たせてる子に言うことないの?」 「んなのただいまって言うだけだろ」 「つまんないのー」 「言葉が浮かばないのなら、無言で抱き締めるのも一手だと思うが」 「ば、ばばっば」 「馬鹿言えそんなことできるかといいたいのか」 「アレンみたいな許婚って刺激がなくて退屈そう」 「うるせぇな! だったらお前らは何がしたいんだよっ」 「僕は詩集を出すつもりだ」 「詩集?」 「そう。この旅の途中、僕が紡いだ詩は実に八百十三編に及ぶ」 「何時の間にそんなに作ったんだよ……」 「詩集は僕の帰りを待ってくれているレディ達へのささやかなお礼だ。僕がどのように美しく旅したかを、音楽にも似た言葉に乗せてその心へ届けたい」 「ふーん」 「君達にも特別にサインを入れて送るから大事にしてくれたまえ」 「ああ分かった」 「ありがと」 「その凄まじく適当な返事は何事だ」 「ナナ、お前は?」 「うんとねー。ムーンブルクで報告した後、サマルトリアを観光して、ローレシアを観光して、それからムーンペタに行く。現状を把握してから本格的に復興に取りかかるつもりだから援助よろしくね」 「竜王に会いに行ってやらないと寂しがるのでは?」 「あ、そういえば旅が終わったら遊びに行くって約束してたっけ。少しは強くなったかな?」 「それは頑張っているだろう、君に認められたくて必死な筈だ」 「あいつが強くなってたらさぁ、お前ホントに卵産んでやんの?」 「産めるわけないでしょ!」 騒がしい三つの影が、花畑を越えて地平線に消えていく。勇者達の足跡が刻まれたロンダルキアの地に、ルビスの優しい息吹がそよいだ。 |