破壊神と最後の戦い<3>


 指輪の助力を得た魔術は、濃厚な乳白色の光となってハーゴンを覆った。
 その瞬間、ハーゴンの動きに僅かばかりの変化が生じた。外部からの圧力に抑制されたか、流れるようだった太刀筋があからさまに乱れる。
 アレンは大きく体を沈めて、突き出された杖をやり過ごした。こめかみを掠めた杖が壁を抉るのを尻目に、右足を踏み出して深く前傾する。両手に握った剣を、掬い上げるようにしてハーゴンの脇腹へ捻じ込んだ。
「がっ」
「……ったねーなっ!」
 大量の吐血がアレンの体に降り注ぐ。アレンは一度退いて汚れた顔を拳で拭った。
 ハーゴンは傷口に手を押し当て、素早くベホマの詠唱を紡いだ。だが掌が癒しの術を宿すことはなく、傷口が塞がることもない。細く形良い指の合間から、少なからぬ量の命が流れ落ちていく。
「もらった!」
 アレンは一条の稲妻となってハーゴンに突進した。剣を垂直に構え、体ごとぶつかるようにして敵に刃を突き立てる。よく締まった筋肉が一瞬抵抗しただけで、稲妻の剣はずぶずぶと背中まで突き抜けた。
「……っ」
 ハーゴンの喉の奥から、壊れた笛の音のようなものが上がった。
 きつく食い込んだ剣を力任せに引き抜きながら、アレンはハーゴンの胸板を力いっぱい蹴った。強張った肢体は宙を飛び、背中から祭壇にぶち当たって人形の如くくずおれる。
 起き上がろうと必死にもがくものの、ハーゴンの肉体は既に活動出来る状態になかった。身を捩る度に傷口から鮮血が吹き出し、周囲に血溜りを形成する。病的なまでに青白い肌は、彼自身の血に塗れて忽ちどす黒く染まった。
「……俺らの勝ちだな」
 血の滴る稲妻の剣をぶら下げて、アレンはハーゴンの前に立った。打ち据えられた体のあちこちが痛むが、支障を来たす程の打撲ではない。
「ナナ」
 アレンはナナを振り返り、小さく眉を持ち上げた。
「お前の仕事だ」


 緊張の面持ちで頷くナナにコナンが歩み寄る。コナンが懐から取り出したのは銀色の鞘に収められたナイフだ。
「……これを。聖水と炎で清めてある」
 ナナは鞘から短刀を抜き放った。鏡のように曇り一点ない刃に、青ざめた少女の顔が映る。まるで迷子のように頼りないと、ナナは他人ごとめいた感想を抱いた。
「ありがとう」
 二人の仲間に頷くと、ナナは唇を真一文字に結んでハーゴンに向き合った。両手が白くなる程強く短刀を握り締め、ぜぇぜぇと喘ぐ男を見下ろす。それはムーンブルクが滅んだあの日と全く逆の立ち位置だった。
「あの日から時々夢を見るの」
 ナナはハーゴンに向かって、いっそ優しい声色で囁いた。
「誰もいないムーンブルク城であたしは黒い光に追いかけられてるの。何処までも逃げても光は追いかけてきて、宝物庫に着いた時あたしはそれに捕まるの。指の先からゆっくりと崩れていくのに最後まで絶対に死ねないのよ。……きっとあたしは一生この夢を見るんだわ」
 ナナの瞳が揺らいで、ぽろぽろと大粒の涙が零れた。悲しいのか悔しいのか、ナナ自身にも判別のつかぬ涙だった。
「今更あんたを殺したって意味はないのかもしれないね。悪夢は終わらないし、ムーンブルクの人達が帰ってくるわけじゃないもの」
「……意味のない殺戮に手を汚すか」
 ハーゴンが薄く微笑むのに、ナナもまた唇に自嘲を浮かべる。そしてそのままアレンに教わっていた通り、ハーゴンの心臓に正確に刃を突き立てた。
 生まれて初めて直接人を殺めた。肉の抵抗も血の温もりもぞっとするほど不気味で、思わず短刀を取り落としそうになる。それでもナナは歯を食いしばり、力と体重をかけていよいよ深く刃を突き立てた。
「意味がなくたって、あたしはあんたを殺さずにはいられない」
 骨張った指がナナの肩に食い込んだ。皮を破り肉を抉らんばかりに突き立てられた指が、不意に力を失ってだらりと腕を滑り落ちる。弛緩したハーゴンはナナに凭れかかり、一度小さく痙攣して動かなくなった。
 ナナは忌々しさに怖気を震いながら立ち上がり、床に伏した男を見下ろした。
 全身が沸騰しそうに燃え上がり、喉がからからに干上がる。ばくばくと心臓が鳴り響き、玉の汗が肌を伝う。だが興奮した肉体とは裏腹に、ナナの心は冬の湖のように冷たく沈黙していた。
「あたし、仇を取ったよ」
 ナナはアレンとコナンを振り返り、抑揚のない声でそう告げた。
「……変な気分。もっと嬉しかったり悲しかったりするかと思ってたのに……寂しいの。お腹に穴が開いたみたい」
 ナナにとって仇討ちは原動力だった。息も出来ないような絶望の底から這い上がり、死への誘惑を振り払って旅に出ることを決意したのも、偏に両親と国の仇を討ち取りたいという思いがあったからに他ならない。
 だから目標が果たされた今、ナナは一種の虚脱状態にあるのだ。全ての感情が抜け落ちた表情で瞬きだけを繰り返す。
「ハーゴンを殺したことは後悔してないし、これからだって悔やむことはないと思う。……だけどあたし、分かっちゃった。仇打ちって物凄く虚しいものなんだなって」
「君はこれからの生活でその虚しさを埋めていかなくてはならない。君がムーンブルクの人々に報いるのはこれからなんだ」
 コナンが低く囁けば、アレンは肩の上にとんとんと剣を弾ませる。
「みんながお前のこと待ってるぞ」
 表現方法は違っても、少年達が言いたいことは一緒だ。太陽の血筋を示す青い瞳には道中ずっと励まされてきた。この二人の応援があれば、明日に向かって歩いていける。
「うん……ありがとう」
 微笑んだナナの掌を、不意に血塗れのそれが捕らえた。
 死んだと思っていたハーゴンがナナの手を握り締めていた。眼球の白目が鬱血し、尚赤い瞳孔が血の海に浮かぶ輝石のようだ。
「きゃっ……」
 コナンが咄嗟にナナを抱き寄せた。アレンが素早く合間に割って身構える。そんな少年達を見据えながら、ハーゴンは祭壇に手を添えてよろよろと立ち上がった。
「嘗て空に通じていた道は、異世界へ繋がっていた……」
 ハーゴンは祭壇にあった像を手にした。見たこともない生き物を象ったそれは、ムーンブルク王を殺害したハーゴンが、アレンに切りかかったアンジェリカの影が手にしていた邪神の像だ。
「ロトは神から授かりし力でその道を閉じた。空の力によって施された封印は、空の力によって解封される」
 ハーゴンはしとどと血の滴る胸元に像を抱き寄せた。
「ムーンブルク王家とローレシア王家の血は十分に吸った。残るはサマルトリア王家の血のみ……」
 邪神の像が血を啜る。光沢を帯びた鱗から星の色をした光が零れた。
「太陽、月、そして私に流れる星の血。空の力を全て捧げて、この世界に破壊神シドーを召還しよう……!」
「アレン、早く叔父上を……!」
 アレンが首を飛ばすより早く、ハーゴンは自らの心臓に像を押し込んだ。裂けた傷口から吹き出す真っ赤な血潮が、神像を紅に染め上げる。
 邪神の像が空に向かって咆哮を上げた。


 満天の星空から一つ、また一つと輝きが失われていく。
 何処からか湧き出した闇が、三人の頭上でどろどろと濁ったとぐろを巻いた。耳を劈く衝撃音と共に幾つもの稲妻が走り、不吉な光を巻いて世界を白く浮き立たせる。
「破壊神が来る」
 空を見上げる末裔達の顔に、深い陰影が落ちる。
 一際巨大な雷がハーゴンに落ちた。呆気なく塵と化した肉体から、ごとりと音を立てて邪神の像が落ちる。像を中心として巨大な魔方陣が広がり、眩いばかりの黄金の光を空に向けて放った。
「あ……」
 光の柱から何かが滲み出てくる。圧倒的に大きくて圧倒的に強く、圧倒的に崇高にして圧倒的に偉大な存在が、徐々にその姿を現してくる。
 ぬめりある鱗が大気に触れて銀色の光沢を放った。太く逞しい六本の手には巨大な鉤爪が輝き、血の色をした口蓋にはサーベルのような牙が並ぶ。蛇の顔を持つ丸太の如き尾、側頭部から突き出した一対の角、一抱えも出来そうな黄色い眼球。それはぶるぶると体を震わせると、天を仰いで心地良さそうに産声を上げた。
 それは一見爬虫類を思わせながら、実際この世界のどの生き物にも似ていない。この世に決してあってはならない存在、それが破壊神シドーだった。
 破壊神の息吹は恐怖を喚起し、眼差しは死を予感させる。向かい合うだけで膝の力が抜けそうな存在に、三人は生まれて初めて対峙した。
「こいつが破壊神シドー……」
 アレンはごくんと喉を鳴らした。運動もしていないのに息が上がり、体温が上昇する。自他共に認める鋼の心臓が、恐怖で轟いている現実を認めないわけにはいかなかった。
「やべぇな。俺、びびってる」
「君らしくもない」
 首を竦めるコナンに向かって、アレンは下唇を突き出した。
「お前は怖くないのかよ」
「いいや、怖い。怖くて顔が勝手に笑ってしまう」
 コナンは不敵な笑みを刻む口元を手で覆った。
「人間、本当に怖いと笑い出すと聞いたことがある。当時はそんな馬鹿な話があるかと思っていたが……真実であることを体感したよ」
「腰が抜けそうになるくらい怖いけど」
 ナナは汗で粘つく掌で、いかずちの杖を握り直した。
「でも負けない。やっと仇を取ったのに、こんなワニの出来損ないみたいな奴にやられてたまるもんですか」
「同意だ。このような醜い神にくれてやる程僕の命は安くない」
「要するに、ぶっ倒すしかねぇってことだな」
 何時ものやり取りで恐怖が幾分か和らいだ。アレンは改めて剣を構え、真正面から破壊神を見据える。
 生きて帰るとロトに約束し、自分に誓った。ここで死ぬわけにはいかない。怖くたって何だって、立ち向かうしかないのだ。
 アレンは二人を振り返った。コナンとナナが何時ものように頷いて、何時ものように構える。
「泣いても笑ってもこれが最後の戦いね」
「そう、これまで以上に美しく勝利しよう」
 アレンはにやりと笑って、大きく膝を折った。
「行くぞ!」