二つの希望が生まれた国<1>


 朝方から降り始めた雨は昼になっても止むことなく、銀色に光る糸となって空と大地を結び続けていた。
 噴火を忘れて久しい山の頂に、激しい剣戟の音が絶え間なく響く。嘗ては煮え滾る溶岩を、今は清浄なる水を満たした火口を縁取る岩場では、もう数刻も前から人と魔物との激しい戦闘が繰り広げられていた。
 オルテガは眼光鋭くバトルアックスを構えた。鋼の如き黒髪からも、筋骨隆々たる肢体からも、赤銅色の肌からもひっきりなしに水滴が滑り落ちる。男が呼気鋭く闘気を発すると、それらは内部から弾かれたかのように宙に散じた。
 オルテガが振り上げたバトルアックスは、寸分の狂いなく標的を捉える。岩をも砕く一撃を受け止められる人間はそうそういない。
 だが生憎、彼が相手にしているのは人間ではなかった。裂帛の気合虚しく刃は弾かれ、悲鳴に似た金属音が空を裂く。オルテガは舌打ちし、反撃を食らうより早く後方に跳んだ。乾く唇を舌で湿らせながら、改めて目前の敵を凝視する。
 岩めいた鱗を纏う魔物の名をオルテガは知らない。それは彼が今まで戦ったどんな魔物よりも強く、俊敏でいて狡猾だった。歪な爪は大斧を易々と受け止め、光る鱗は魔術を容易に弾き返す。おまけにそいつは蝙蝠に似た翼を上下させながら、悠々と宙を舞うのだ。不利な状況にあることを認めざるを得なかった。
「楽になっちまいな、勇者オルテガさんよ」
 爬虫類を思わせる口蓋から滑らかな人語が放たれた。二又に分かれた舌が不快な音を立てて蠢く。
「お前じゃ俺には勝てねぇよ。無駄な足掻きは見苦しいぜ」
「生憎、俺は足掻く姿を見苦しいとは思わない性分だ」
「口の減らねぇ野郎だぜ」
 オルテガの強力に相応しい巨大なバトルアックスは、雨天下にあっても鋭く輝く。魔物は忌々しげに目を顰めた。
「流石、魔王退治を掲げた勇者様だ。大儀の為に死ぬってか?」
「俺は死なない。家ではかわいい息子に娘達、それに百年あっても愛を語り切れない恋女房が待ってるもんでね」
 にやりと笑うオルテガには一片の気後れもない。魔物はあからさまに苛立った素振りを見せた。
「人間風情が魔王バラモスに勝てると本気で思ってんのか? 身の程を知らねぇ奴は、哀れを通り越して滑稽だな」
 音もなく翼を羽ばたかせながら、魔物はふわりと宙に浮いた。
「お前じゃバラモスの城にだって辿り着けねぇよ。この火山を越えたところで行く先には魔物に溢れた洞窟がある。お前一人で切り抜けられると思うか?」
「足がある限り、前には進める」
 さらりと答えたその瞬間、魔物が一気に間合いを詰めてきた。咄嗟に掲げた盾で衝撃を受け止めつつ、オルテガは得物を真正面に突き出す。刃が魔物の前足を裂き、濁った色の血液がぼたぼたと地面を汚した。
「……人間が」
 滴る血を舐め取りながら魔物が唸る。一太刀浴びせた高揚感に任せ、次はオルテガが嘯く番だ。
「お前の如きにこの盾は破れない。こいつには俺の末娘の祈りが宿っているんでね」
「だったら今からお前の国に飛んで、その祈りごと娘を喰らってやろうか?」
「面白くない冗談だ」
 それまで飄々としていたオルテガが初めて怒りを顕にした。彼にとって妻と子は宝であり、戦場に身を置く理由でもある。
「くだらねぇな。神の加護ならまだしも、人間風情の祈りがどんだけの力になるってんだ」
「神の加護が偉大なことは認める」
 オルテガ神妙に頷いた。
「だが祈りは人を強くしてくれる。だから俺は死ぬことなくここまで来たし、お前に勝つことだって出来るんだ」
「面白ぇ、それを証明してみろよ」
「言われるまでもない」
 オルテガは臨戦体勢を取った。全神経を集中させ、敵の動きを幾通りも予測する。飄然とした態度が示す程オルテガに余裕などなかったが、魔物も存外こちらを警戒している。覆せぬ程戦闘力に開きはないようだ。
「……必ず帰る」
 祈りのように囁いて、オルテガは突進した。力任せの一撃は寸でのところで狙いを外れ、岩を削って亀裂を刻む。息継ぎを気合として、オルテガは間髪入れず羽音のした方向へ武器を振り上げる。こちらは手応え皆無の完全な空振りだ。
「消し飛んじまいな」
 ゆらりと翳した魔物の手に光が宿った。ばちばちと破裂音を響かせながら、光は玉と変じてその輝きと体積を増していく。太陽もかくやたる輝きが周囲を白々と浮かび上がらせた。
「イオナズン!」
 限界まで圧縮された力が火と風を孕んで爆発した。
 直撃は免れたが爆風は避けきれない。吹き飛ばされたオルテガは鞠のように地面に弾み、背から強か地面に叩きつけられた。全身を苛む疼痛に唸りつつも、対抗手段として自らも唇に詠唱を乗せる。
「メラゾーマ!」
 燃え盛る火玉は呆気なく避けられた。勝ち誇った微笑みを浮かべる魔物を前に、オルテガもにやりと唇を歪める。ふっと翳した彼の指先に、瞬きに満たぬ合間で赤々と炎が宿った。
「メラゾーマ!」
「なっ」
 詠唱を要さぬ二発目は魔物にとって予想外だったようだ。小規模だが威力ある炎を翼に喰らい、敵はどさりと地面に落ちた。翼が二度三度と不規則に痙攣すると、つんと鼻を突く臭気が大気に広がる。
「一発目はただの光の塊、二発目が本命の火炎だ。この術の詠唱を組み立てるには随分苦労したんだぜ」
 得意満面で、オルテガはひらひらと手を振る。
「……まあ、発案者は俺じゃないけどな。おとりと本命の二部構成なんて俺には考えもつかなかった」
 ゆらりと持ち上げられた魔物の面は憤怒に彩られている。突き刺すような琥珀の視線が堪らなく愉快だ。
「人ってのはそうやって、他人の何気ない一言から色んなものを拾って生きていく。お前ら魔物には永遠に分からない感覚だろうな」
「群れることを言い訳にするなよ、反吐が出る」
 双方再び刃を交えんと腰を低く落とす。静かに満ちていく殺気が臨界点に達しようとしたその時、何の前触れもなく大地がうねった。


 それは世界の崩壊を思わせる振動だった。
 頑強な岩山が揺れ、割れ、崩れ落ちる。地面が心臓のように脈打ち、大岩が際限なく降り注ぎ、亀裂が蛇の如く疾走する。太古の昔から変わらぬ姿を留めていただろう山が、見る見るその形を変えて行くのだ。
「……何だあれは」
 天変地異の最中、命さえ危ぶまれる状況にありながら、オルテガの注意はふと空に引きつけられた。
 拡散していく分厚い雨雲の向こうに、オルテガは烈しい光の爆発を見た。中心部から放たれた六つの輝きが、流星に似た尾を引きながら好き勝手な方向へと跳んでいくのだ。赤、青、緑、黄、銀、紫の光が空を彩る様は神秘的で美しく、それでいて喉笛に刃物を押し当てられるような不安を喚起させた。
 唖然と空を見上げるオルテガの足元が、一際大きく上下する。
「くそっ」
 オルテガは片膝をつき、地面に突き立てた斧に縋って体を固定させた。耐え忍ぶしかない現状の中、彼の脳裏を過ぎるのは故郷に住まう家族の安否だ。最愛の妻とまだ幼い子を思えば、焦燥感にじっとりと脂汗が滲む。
「空の神鳥と大地の聖竜よ、どうか世界を……」
 祈りを捧げかけたその時、大音響と共に火口から水柱が直立した。天を貫くそれがしゅうしゅうと音を立てながら蒸発した結果、数秒立たずして乾いた湖底が曝け出される。痛々しい亀裂から清水の代わりに湧き出してきたのは、盛んに気泡を吐き出す溶岩だ。マグマは水草や跳ねる魚を飲み込みながら、みるみるうちに火口を赤い輝きで満たした。
 世界を塗り変えた地震は、勃発時と同様唐突に止まった。悪夢めいた出来事に自失していたオルテガは、上空から降り注ぐ殺気に気付くのが遅れる。
「つっ」
 抉られた肩口に赤い花が咲く。危うく取り落としそうになったバトルアックスを構え直しながら、オルテガは肩で息をついた。まずは落ち着かねばならない。先立って対処すべきは理解を超えた天変地異でなく、目の前の魔物だ。
「バラモスが遂にやりやがった。これでお前らは終わりだよ」
 逆巻く熱風の中で魔物が呵呵大笑する。哄笑は岩に反響して地鳴りの如く響いた。
「……やった? 何をだ?」
「神殺し」
 不吉な言葉の意味を問うより早く、魔物の掌に爆裂の術が宿る。
 オルテガは安定した足場を目指して駆け出した。先程までとは違い、踏み出す箇所を誤れば落命必須のバトルフィールドだ。まずは己の安全を確保せねばならない。
 疾走するオルテガの行く先を、折悪しく転がり落ちてきた岩が阻んだ。岩は大きく跳躍では越えられない。無論攀じ登る余裕もない。無慈悲な障害物を見上げるうちにも、爆裂の魔術はその輝きを強くしていく。
「……」
 魔物を睨み上げ、オルテガは腹を決めた。薬指を飾る指輪に唇を押し当てる。
「済まないアリシア。また無茶をするが守ってくれ」
 いちかばちか、オルテガは虚空の魔物目掛けて跳躍した。ごつごつした背を足場とし、もう一度全身のバネを振り絞る。煮え滾る溶岩を眼下に捉えながら、オルテガは火口を挟んだ岩場へ危ういながらも着地を決めた。
「……はっ……」
 一世一代の無謀な挑戦だった。心音のありえぬ速度を自覚しながらも、オルテガは表向き平然と身構える。常に人を食ったような態度でいるのが彼の戦闘スタイルだ。
「メラゾーマ!」
 フェイントを乗せた魔術は易々と避けられてしまう。巨体に似合わず、魔物の動きはツバメを彷彿とさせる程素早い。
 慎重に足場を確保しつつ、オルテガは二度三度と襲い来る魔物を斧で払った。角と盾、牙と刃が激突し、昼でも眩い火花が虚空を彩る。
 何度目かの攻撃を防いだ時、衝撃に痺れた拳から盾が飛ばされた。行く先を視線で追うものの、回収する余裕など今のオルテガにはない。断腸の思いで未練を振り切り、彼は咆哮と共に大地を蹴る。
「遅ぇよ!」
「ぐっ」
 鞭のように撓る尾に打ち据えられ、オルテガは斜面を転がり落ちた。
 溶岩に飲み込まれる寸前、オルテガは岩肌にバトルアックスを突き立てた。魔物の吐き出す火玉を髪一重でかわしながら、ほとんど垂直に切り立った斜面を力任せに攀じ登る。鍛えられた肉体と生への執念が生み出した荒業だ。
「いい加減に諦めろ、お前に勝ち目なんかねぇよ!」
 魔物の言葉が現実でも諦めるわけにはいかなかった。旅立ちのあの日、父に生きて帰ると約束したのだ。子供達に冒険譚を聞かせると約束したのだ。妻にムオルの雪景色を見せると約束したのだ。オルテガにはやるべきことが山のように残されていた。
 突き出した岩に仁王立ちになると、オルテガは両腕でバトルアックスを構えた。真っ直ぐに突っ込んでくる魔物をぎりぎりまで引きつけ、ぐっと低く腰を落とす。培われた戦士の勘が正しければ、この速度と角度で切り込めば確実に首を落とすことが出来る。オルテガは迷いなく跳躍した。
「喰らえ!」
 唸る刃が魔物の急所を捉える。魔物の顔に恐怖が、オルテガの唇に笑みが浮かんだ時、再び異変は起きた。
 水面に墨を滴らせたかのように、虚空に闇が滲んだ。闇はゆったりとした渦を巻きながら紫電を撒き散らし、みるみるうちに膨れ上がっていく。現状を把握出来ないオルテガは、ただ唖然とその有様を凝視するばかりだ。
 渦は他愛なくオルテガと魔物を飲み込んだ。美味い獲物にありつけて満足したように炸裂音を放つと、音もなく空気に溶け込む。二度の異変で命あるものが全て姿を消した結果、山は寂寥感に満ちた静寂に包まれた。
 一連の出来事が現実であることを示すのは、岩の上に放り出されたオルテガの盾だ。消失する寸前渦から飛び出した光の玉が、ふらふらと力なく北の方角へ流れていく様を、それは鏡のように映し出していた。