「中は少しましだな」 周囲を慎重に見渡しすつ、ケインは一人小さく頷く。巌のような外観と比べれば、内部は作られた当時の面影をところどころに留めていた。高い天井を支える柱の一本一本にまで、精緻な彫刻が施されていた形跡がある。 「上り階段はこっちだ」 ブレンダ、ケイン、セシリー、ルナの順で歩を進める。魔物に対する反応が早いのに加え塔に詳しいのもあって、ブレンダが一行の先頭を勤めていた。巣立ったばかりの新米勇者は、まだまだ姉達から庇護されている立場だ。 冒険者達の修練場だけあって、人の侵入した形跡が目立つ。魔術らしき炎に炙られた天井、刃が深く抉った壁、血液めいたものがこびりついた床。そこかしこに戦闘の傷が生々しく残されているのだ。 「ここの魔物ってどんくらい強いんだ?」 「そうだな……町の周りに出る奴らより少し手強い程度か。今のケン坊にはちょうどいい訓練相手になる」 「あら、早速お出ましね」 数歩進まぬうち、四人の前にも当然の如く魔物が立ち塞がる。 曲がり角から姿を現した魔物は全部で五匹。これまで幾度となく遭遇したスライムの他、しびれあげはやおおがえるなどの、書物でしか見たことのない魔物も見られた。 先手必勝とばかり飛び出すのはケインだ。ブレンダは未熟な弟のフォローをすべく、その一歩後ろを守っている。セシリーとルナはそれぞれの魔術を掌に紡ぎ始めた。 跳躍を繰り返すスライムは、動きさえ掴んでしまえばさほど苦労する魔物ではない。飛び上がるタイミングに合わせてケインは無造作に剣を振り下ろした。銅の剣は易々とスライムを両断し、青い液体がどろどろと重たく融解する。 ずるり、と剣が粘液から解放される反動を利用して、おおがえるの脳天に刃を叩きつける。飛び散る脳漿を避けて一歩退き、止めをばかりに腹を抉る。新たなる魔物の気配を感じて振り返ったタイミングで、毒々しい色の翅が視界の隅を過ぎった。 はっと身構える暇もなく、閃いた光が爆発する。 「うわっ」 網膜を焼く輝きが消失した後、周囲には濃い霧のようなものが立ち込めていた。白く濁ったそれは空間をいっぱいに満たし、鏡の如く魔物の姿を増大させる。耳障りな羽音までもが何倍にも膨れ上がった。 「あれ……何これ……」 「しびれあげはに〜、マヌーサかけられちゃったね〜」 何時の間にか背中合わせになったルナがのんびりと囁く。 「マヌーサ? えーと、幻影魔術の?」 「そうそう〜、今のわたし達は〜、しびれあげはの魔力を吸って五感が狂ってるの〜。だから幻が見えるだけでなく〜、音や気配も感じられちゃう〜。困った魔術だよね〜」 長々と解説した後、ルナはひょいと人差し指を立てた。 「さて〜、ここで問題です〜。マヌーサに惑わされた時〜、有効な対処方法は何でしょう〜。分かるよね〜、あんなにお勉強したもんね〜?」 あくまでのんびりした口調に、脅迫めいたものを感じるのはケインの気のせいか。魔物に対する緊張よりも強いそれを覚えながら、ケインはしゃんと背筋を伸ばす。 「はい、メラやギラのような攻撃魔術です」 魔力と精霊が紡ぎ出す奇跡の力は、幻影に惑わされることなく本体を攻撃する。当てずっぽうに剣を振り回すより、魔術で一掃した方が遥かに労力は少ない。 「大当り〜、良く出来ました〜」 「魔術で片付くんならさっさとやれ!」 ルナの拍手がぱちぱち響く頃になると、ブレンダが耐え兼ねた風に怒号を上げた。さしもの女戦士も、幻影相手には苦戦を強いられているようだ。 「ちょっと待ってよ〜、このくらいブレンダなら凌げるでしょ〜。わたしは〜、ケンちゃんにメラを使って欲しいの〜」 「う、俺が?」 ケインはぴくりと口元を引きつらせた。 「俺のメラってば、蝋燭に火をつけるのがやっとなんですけど……」 「だからやるんでしょ〜。ケンちゃんには普通に魔力変換能力があるんだから〜、ちゃんとした術が使えるはずなの〜」 魔王討伐を掲げた人間は、初期の段階で潜在能力を詳しく検査される。魔力変換能力保有者と診断されたケインだが、駆け出し勇者の魔術技術はお粗末極まりない。 「詠唱は出来てるし〜、精霊の反応もあるし〜、出来ないはずないんだからね〜」 命の形が千差万別であるように、それを源とする魔力の質も個人によって異なる。魔術師は三十二文字からなる精霊語を組み合わせることで、それぞれ独自の詠唱を編み出すのだ。己の魔力の形を知り、それに適応する詠唱を生み出し、精霊達と良好な関係を築き上げ、初めて魔術は完成する。 「ケンちゃんは〜、風の精霊とはあんまり相性良くないけど〜、火とはそこそこだからいけるはず〜。がんばれ〜」 「う、うん」 促されるまま神経を集中させる。試行錯誤を繰り返して完成させた詠唱を紡ぐと、体内でざわりと力が蠢いた。生命力から変じた魔力が、心臓を思わせる収縮を繰り返しつつ掌に蟠る。後は召還された精霊がこれを礎に炎を生み出すだけだ。 だが最後の発動詞を放つ寸前、魔力は花火のように拡散した。魔力を一定時間留めておくだけの集中力がケインには欠けている。平時でも術の発動が芳しくないのだから、戦闘時ともなればいわずもがな。魔物に囲まれた状況で、その動向を探りながら術を行使出来るようになるには、それなりの経験が必要なのだ。 「あ、やっぱだめだ」 「も〜、しょうがないな〜」 不甲斐ない弟に代わり、ルナは高々と杖を振り上げた。 「こうやってやるんだよ〜。ちゃんと見ててね〜」 蛇の道は蛇、餅は餅屋、攻撃魔術は魔法使いというべきか、瞬きにも満たぬ間で乱れのない魔力が練成される。精霊の助力を得て、それはみるみる紅の輝きを帯びた。 しびれあげはがルナの腕を掠めたが、彼女は一切動じない。どのような状況下にあっても魔術を編めてこその魔術師だ。 「ギラ〜」 気合の抜けた発動詞と共に炎が縦走する。紅蓮の嵐が大気を焼き、壁を焦がし、魔物たちを飲み込むと、塔内は戦闘前の静寂を取り戻した。 最上階へ続く階段を上れば、それまでとは違った風景が四人を迎えた。 そこは不思議な空間だ。がらんどうの鎧が一人でに会釈し、水晶のカナリアが美しい歌を奏でる。金枠の書物が柔らかい声色で物語を語り、絵画の中で少女と子犬が戯れる。見たこともないような魔術具が所狭しと溢れているのだ。 うららかな陽光が差す窓際では、一人の老人が椅子を揺らしていた。四人の気配を感じてか、皺めいた目蓋がゆっくりと持ち上がる。黒い瞳がトーマスと瓜二つだ。 「そろそろ到着するころと思っていた」 驚く風でもなく怪しむ風でもなく、老人は淡々と頷く。 「俺達が来ることをご存知だったんですか?」 「こやつが知らせてくれた」 老人の肩に止まった鳩が、四人を見渡して大仰に首を傾げた。白雪色の体に、尾羽の青色が印象的だ。 「ここまで来られたならまずは合格と言ったところだな」 「あなたが塔を管理されているモーゼスさんですね。これをトーマスさんから預かってきました」 「管理という程のことはしとらんよ。礼儀知らずな小僧供に仕置きをしているだけでな」 モーゼスはおどけたように両眉を持ち上げつつ、セシリーが差し出した紙片を受け取った。ざっと目を通した後、得たりと頷く。 「さして難しい品ではないな。一日もあれば完成するだろう」 トーマスはゆっくりと椅子から立ち上がった。 「お前に手伝ってもらおうか。魔術具の作成を見ておくのもいい勉強になる」 「え、俺ですか?」 真っ直ぐに視線を向けられて、ケインはきょとんと瞬きをした。 鉢に入った粉を磨り潰すだけの作業すら緊張する。何しろ魔術具作成の助手役など初めての経験だ。 「良い頃合だな。それにこちらの瓶を小匙三杯、さっくり混ぜたらこの粉を一摘みだ」 擂鉢を覗き込んだモーゼスが、ケインに二つの小瓶を渡した。青い小瓶には小麦に似た粉末が、緑の小瓶には砂に似た粒子が中ほどまで詰められている。 「これって何ですか?」 「乾燥ヤモリを磨り潰したものと、おおがらすの嘴を炒って砕いたものだ。この二つを入れることで強度が増す」 「へえ〜」 指示に従っていると、粉っぽかったものが次第に粘つき始めた。やがて鉢の中身は黒い粘土と化す。 「……お前ら少しは体を動かせ! 本を読むな!」 「だって〜、面白い本がいっぱいで〜、ついつい手が止まっちゃうの〜」 「この本の価値が分からないならちょっと黙ってて、ブレンダ」 「何でお前が偉そうなんだ? あたし達は掃除をしなくちゃならないんだろうが!」 「でも掃除の時に〜、古い本を読み耽っちゃうのはお約束でしょ〜」 「まあ、それはそうだけどな……」 分厚い緞帳で仕切られた向こう側からは、きゃあきゃあと騒がしいやりとりが聞こえてくる。魔術具製作の代金とばかり、モーゼスは三人娘に部屋の掃除を言いつけたのだ。 魔術書犇くそこはセシリーとルナにとってあまりに興味深く、なかなか作業が進まぬようだ。半刻に一度の割合で、一人好奇心をそそられることのないブレンダの怒声が聞こえてくる。 「それを軽く丸めてこちらへ」 言われるがまま粘土を丸めると、拳大の黒い塊が完成した。おっかなびっくりそれを両手で掲げ、ケインはモーゼスに従って歩き出す。モーゼスは懐から取り出した鍵で外に続く扉を開けた。 「わ」 一歩外に出た途端、ケインは思わず感嘆の声を上げた。 まず視界に飛び込むのは生い茂る木々の緑。今を盛りと咲き誇る花々の白。ひらひらと舞い踊る蝶の赤。それらを抱えて何処までも広がる空と海の青。ナジミの塔の最上階には、この世のありとあらゆる色を備えた空中庭園が広がっていた。 「へえ〜、塔にこんなとこがあるんだ」 庭園の中ほどに小さな建造物があった。四本の柱が支える半球状の屋根の下に、白大理石のテーブルが設置されている。華奢な猫足に絡みついた蔓草が小さな花を咲かせていた。 「テーブルに魔法陣を敷いてある。その中央に玉を置いてくれ」 モーゼスはテーブルを顎で示し、マンネンロウの茂みの向こうに消えていく。その後姿を見届けてから、ケインは大人しく指示された場所へと向かった。 テーブルには御影石の円盤が置かれ、そこには白い塗料で複雑な文様が丁寧に描かれていた。トーマスに渡された紙片にあった文字と記号の羅列を、丁寧に清書したものだろう。 「何が書いてんだかさっぱり分かんないな」 文字や図柄を組み合わせることにより、図形に魔術力を持たせたものを魔法陣という。魔力の源となる基本図形の上に、様々な付与図形を組み合わせて力を指示するのが一般的な作成方法だろう。図形そのものに魔術効果を持たせることは勿論、魔術具作成の礎として使用されることも多い。 ややあって戻ってきた老人の掌には、親指の爪にも満たない小石が幾つか乗っていた。無色透明な丸い石の中に赤、青、緑、黄、銀、黒の光が淡く明滅している。神秘的な輝きが肌に複雑な色味を投げかけた。 「これって精霊石ですか?」 「左様、死んだ精霊が結晶化したものだ」 精霊は魔族同様肉体を持たぬ存在だ。火の精霊は炎の揺らぎから、水の精霊は海の泡から生まれ、世界を司りながら十年程でその役目を終える。精霊は人里離れた静かな場所を死地に選ぶため、精霊石の入手は容易くない。それ故、石は高値で取引されることが多いのだ。 「四古塔に住んでいた神の使いとは有角族のことだ。神の眷属は精霊と懇意な種族で、だからこそ数多の魔術を操ることが出来る」 魔法陣の上に精霊石を並べながらモーゼスは続ける。 「この庭園は有角族が精霊のために造った楽園だ。今でもここには数多の精霊が安らぎを求めて集い、精霊石が生み出される」 明滅する精霊石の一つ一つが魔法陣に色を添えていく。白と黒で構成された卓上が、宝石箱にも似た彩を帯びた。 「精霊石の存在を嗅ぎつけて、以前賊が忍び込んでな。妙な鍵で入り込もうとしていたところを、簀巻きにして放り出してやったわ」 「あ、バコタって泥棒ですよね。ブレンダがここでコソドロを捕まえたって……」 「コソドロ? とんでもない、あいつは自覚がない天性の魔術具技師だ。こんな鍵を作り出すくらいだからな」 モーゼスは首から提げた鍵をゆらゆらと揺らした。一見何の変哲もない真鍮製の鍵だが、仄かな魔力の波動を感じる。 「心を入れ替えればわしの後継者としたい逸材だが、あの性根では難しいだろうな」 「天性の魔術具技師なんて凄いっすね。俺は魔術がダメダメだからなあ」 ケインの何気ないぼやきに、モーゼスの眉がぴくりと跳ね上がった。 「だめ? 何故そう思う?」 「何でって……ろくに成功したことないし、宮廷魔術師の爺さんにも才能ないって言われたし」 ケインは意識せず掌に視線を落とす。時折気紛れのように火の粉を弾くだけで、その指が神秘の力を紡ぐことはない。リアンは十二歳の時点で、独学にもかかわらず火玉を生み出すことに成功していた。嘗て嘯いていたように、彼女の方が素質に恵まれていたのは間違いない。 「十六の若さで己を判断するとは早計だな」 モーゼスは作業の手を休めてちらりとケインを見た。 「その魔術師の言うことが世の理と思うか? 彼の言うことが全て真実だと思うか? 形式通りの試験で判断されてしまうほど、人間は単純な生き物ではないとわしは思うがね」 枯れ木に似た指先が再び作業を開始する。六つの精霊石が、治まるべき場所で強く弱く明滅を繰り返した。 「もっと傲慢に自分を信じてみろ。自分は魔術の素質に恵まれていて、神の魔術さえ扱う力量があるとな。思い込むことで引き出される力というものもある」 モーゼスはおもむろに魔法陣に手を翳した。彼が低い声で詠唱を唱えると、魔力がはらはらと花びらの如く零れ落ちる。力を得た魔法陣は光を放ち、六つの精霊石をその内部に溶かし込んだ。 「あ、消えた」 驚く暇もあらばこそ、ケインが不器用に丸めた塊が艶を帯び、六色の光を交互に放つ。やがて玉の周囲をぐるりと一巡する形で、金色の精霊文字が帯状に浮かび上がった。 「これが魔法の玉だ。レーベの東の祠から通じる、誘いの洞窟の封印を解除することが出来る」 ケインはモーゼスに促されるまま魔法の玉を手に取る。ずっしりと重く冷たいそれこそが、彼をここではない場所へ導いてくれるのだ。 |