VALENTINE









夜明けまで、あと一時間



 夜明け前の闇が一番濃いというが、今宵のラダトームに限ってその定説は当てはまらない。
 王城の窓という窓に揺らめく灯りは、弱々しい暁の月を掻き消す程眩しい。広い庭園に燃える灯篭やキャンドルの炎は、どんな狭い隙間からも闇を追い払う。時折閃く花火は春の夜空を眩しく彩り、その後光の滝となってラダトームの町と城を包み込むのだ。
 夜会を抜け出したグレンは、ローラと共に東翼のバルコニーに出た。舞踏会場から離れたそこに人の気配はなく、明け方独特の密やかな沈黙に満ちている。
「涼しくていい気持ち」
 馴れぬ酒杯に頬を上気させたローラが、涼風を浴びて心地良さそうに目を細めた。
 勇者の凱旋を寿ぐ祭りの最中だ。ラダトームでは夜通しの宴が催され、人々は眠ることも忘れて享楽のひとときを楽しんでいる。王からの贈り物として贅沢に噴水から吹き出す葡萄酒が、気分の高揚に拍車をかけているようだ。
 そうして疲れ果てた人々が眠りにつくだろう今日の昼下がり、ローラは大聖堂でラダトームにおける全ての権利を放棄する。王女から一介の市井人となって、グレンと共に広い世界へ旅立つのだ。
「お疲れになっていませんか?」
「大丈夫、ダンスは好きなの」
 ダンスの申し込みは引きも切らず、ローラは舞踏会が始まってから休憩らしい休憩も取らず踊り続けていたようだ。出奔する姫の最後の舞台とあって、人々が彼女に寄せる関心は何時もの比ではなかったように思う。
 グレンはその間、美しい貴族の娘達が群がってくるのにあたふたとしていた。ロトの勇者の称号が齎す影響は絶大で、彼の人生において初めての刺激的な経験である。たくさんの少女に囲まれる状況は、嬉しいけどドキドキしすぎて疲れるものだとグレンは学習した。
「見てグレン。町が凄くきれいよ」
 ローラが指し示す先には、至る所に篝火を揺らめかせる城下町がある。
 天空の近いこの場所まで祭りの喧騒は届かない。二人の耳朶を打つのは互いの声と、王宮から流れてくる宮廷楽団の演奏だけだ。
「宝石箱みたいですね」
「わたし、この眺めを一生忘れないわ」
 手摺から身を乗り出すようにして、ローラは故郷の風景を臨んだ。庭から吹き上げてくる微風が、彼女の亜麻色の巻き毛をそろそろと揺らす。
「わたしはここで生まれたの。ここで大きくなったの。ここでたくさんの人から愛情を貰って、ここで今日までの思い出を作ったの」
 空から闇が、地上から光が押し寄せるこの場所では、全てのものの輪郭が朧に霞む。掬い上げるようにグレンを見つめるローラもまた、幻想的な輝きの中にあった。
「そしてわたしは、ここであなたと出会ったの」
 柔らかく目元を細めて頷いたのち、グレンはふと心配になって尋ねた。
「ラダトームを離れるのは寂しいですか?」
「寂しくないといえば嘘になるわ」
 胸に手を当てて、ローラは長い睫を伏せた。
「でも大切なものは全部ここにしまったから大丈夫。何時でも思い出すことが出来るもの」
 故郷は愛しく懐かしいが、残していくものは何もない。グレンもローラも、ここでなすべきことは全てなし終えた。
「僕も忘れません。僕を育ててくれた町の風景を、ちゃんと胸の中にしまっていきます」
 窓越しに聞こえていた宮廷楽団の演奏が、軽やかなワルツに切り替わった。踊ることに馴染んだローラの肩が、反射的にぴくりと動いたのをグレンは見逃さない。
「……」
 グレンはごくんと喉を鳴らし、改めてローラに向き直った。一旦夜風で冷やされた顔が、再びかあっと熱を帯びているのが分かる。
「……どうかした?」
 グレンは胸に手を当て、ぎくしゃくと不器用な一礼を披露した。
「踊って、いただけますか?」
「……わたしと?」
 祈りの形に両手を組み合わせ、ローラは間抜けな問いを口にする。グレンからダンスを申し込まれるなど、彼女にとっては晴天の霹靂だったに違いない。
「練習してきました。上手ではありませんが、基本的なことは一通り覚えてきました。魔女さんがばあまあねと言ってくださったので、足を踏んだり躓いたり、そんなことにはならないと思います」
 魔女にどやされ、竪琴に笑われながらの猛特訓だった。ローラをドラゴンから救出する際に受けたしごきに勝るとも劣らぬ厳しさに、何度唇を噛み締めたか分からない。うっかり鼻血を出したり、むっつりスケベと罵られたりと、艱難辛苦の果てに手に入れたまあまあねの称号は、グレンの中で生涯変わらぬ輝きを放つだろう。
「わたしのために練習してくれたの?」
「は、はい」
 ただでさえ早い鼓動が、緊張と恥ずかしさで益々激しくなる。
「以前踊った時、僕は姫に助けられっぱなしでした。だから今夜は僕からと思って」
 固い決意を秘めて挑んだ舞踏会だったのに、結局大衆の目前でダンスを申し込むことは気後れして出来なかった。勇者よ救世主よと称えられても、グレンがグレンである要素は変わらない。
 じっとグレンを見つめていたローラが、ふわりと花のように笑った。一歩退くと、豪奢なドレスの裾を摘んでこうべを垂れる。
「喜んで」
 おずおずと差し出したグレンの手に、レースのグローブに包まれたローラの指先が触れる。互いに伝わる温もりは、これからの人生を共に歩んでいく愛しい人のものだ。
「わたしの勇者様」
 ローラの額で、今宵役目を終える王女のティアラが鈍く輝いた。
「王女ローラのラストダンスを、あなたに捧げます」