VALENTINE









哲学の昼下がり



 一日の中で、ふと時の流れが緩やかに感じられる昼下がりのこと。
 宿を出たナナはペルポイの商店街に立ち寄り、カスタードクリームのたっぷり入ったシュークリームとこがね色に焼けたクッキーを購入した。紙袋越しに伝わる甘い匂いは、昼食で満たされていたはずの胃袋を刺激する。
 紙袋を両手に抱え、ナナは大路を小走りで通過する。彼女が踏み出す都度、今日は頭巾に覆われていない巻き毛がふわふわと背に弾んだ。
 木を模した風変わりな魔女の家は、今日も柔らかい木の葉と愛らしい花々に囲まれていた。こんこんと扉を叩くと、やや時間を置いて主が姿を見せる。
「あら、いらっしゃい」
「こんにちは、アンナいますか? 一緒にお喋りしようって約束してたんです」
「お待ちかねよ。どうぞ、入って」
「お邪魔しまーす」
 招き入れられたナナは、短い廊下を渡って真っ直ぐにアンナの部屋を目指す。突き当たりのドアを開けると、ペルポイの歌姫がにこにこしながらナナを迎えた。
「この前話してたシュークリームとクッキー買ってきたの。ここのお店のお菓子、何でも美味しいのよ」
「ありがとう、いい匂いね。お母さんがお茶を淹れてくれるから待っててね」
「うん」
 魔女の淹れるハーブティは格別に美味い。ナナはにこにこしながら勧められた椅子に座った。
 ナナは時々こうしてアンナの家に訪れ、他愛のないお喋りを楽しんでいる。旅に出て以来、同じ年頃の少女と会話を楽しむ機会がほとんどなかったせいか、彼女と過ごす時間は時を忘れるほどに楽しい。
 流行の服やら好み俳優やら美味しいお菓子やら、話題の種が尽きることはない。ころころ転がる二人の会話は、やがてふとしたきっかけからそれぞれの恋愛事情へと発展を始めた。
「あたしはその人のこと、本気で愛してたわ。でもその人には奥様がいたの」
 遠い日の恋に想いを馳せ、ナナは切なげに呟いた。ときめき不足の日々を送っているせいか、自分に酔うのがこの上なく快感だ。
「やっぱり十の女の子が、三十五歳の近衛兵隊長に恋するのは無理があったのかしら……」
「ナナの十二番目の恋のお話も切ないわね。ナナって恋愛経験豊富なのね」
 より正しく言えば片思い経験なのだが、ナナは敢えて訂正しなかった。恋多き女なんて、何だかかっこいではないか。
「人を好きになるって楽しいわ、毎日がこれまでと違って感じられるもの。ねぇナナ、そこの戸棚に本が乗ってるでしょう?」
 アンナが指し示した方向に目をやる。深緑色の革表紙のそれに、ナナは何となく見覚えがあった。
「コナンが忘れていった本なの」
「ああ、そーいえば……」
「どんな内容か教えてくれる?」
 ナナがきょとんと瞬きすると、アンナは頬を染めて実に分かりやすく恥らった。
「コナンがどんな本を読んでいるのか気になって、その……」
 アンナがコナンに恋愛感情を抱いているのは知っている。ナナには全く理解出来ない趣味だったが、好みなんて人それぞれだ。
 ナナは本をぱらぱらと流し読みし、思わず顔を顰めた。勿体ぶった語句が難解な思考法で書き連ねられている哲学書だ。
「哲学書、みたいね」
「まあ。難しい本を読んでいるのね」
 アンナはうっとりと微笑み、それから興味津々の風情で身を乗り出してきた。
「ねえナナ、それでその本の内容は、具体的にどういうものなの?」
「え」
 ナナは言葉に詰まった。哲学の講義なんてサボりっぱなしだったから、正しく説明出来る自信がない。だが分からないと正直に答えるのも、何だかちょっと悔しい気がした。
「えーと、そうね、例えば、えっと」
 哲学は古人が確立してきた尊敬すべき分野であり、じっくり読み解けばそれ程難しいものではないのかもしれない。だが一度苦手意識を持ってしまったせいか、文字列を追う視線がとにかく滑るのだ。
 必死に書物を睨みつけていたナナは、そのうち見覚えのある文句を捕らえた。古い記憶を辿り、ナナのお転婆にほとほと手を焼いていた老講師の言葉を思い出す。
「我思う、故に我あり。例えばこれは……」
「まあ」
 ぎこちなく説明を始める前に、アンナは感心した声で頷いた。何やら一人で解釈し、一人で納得し、一人で答えを出したらしい。
「例えばこの世界が幻だとしても、考えるという行いをしている自分の存在は疑い得ないということなのかしら?」
「え。そうなのかな、うん、多分」
「それじゃこうしてあの人を想う心も、わたしが存在する証になるのかもしれないわ」
「そ、そうね、きっと」
「人を好きになるってやっぱり素敵なことね。ありがとう、ナナ」
「ええっと……どういたしまして」
 その時ハーブティの良い香と共に、魔女が室内に入ってきた。場の空気は一変し、魔女を交えての賑やかなお茶会が始まる。
 熱い茶を喉に流し込みながら、ナナは内心疲れた溜息をついた。


「ちょっと、コナン!」
 忘れ物を差し出しながら、ナナは眉を吊り上げてコナンを睨み上げる。それを受け取るコナンは、当然ながらナナの怒りの原因がさっぱり分からないようだ。
「今度忘れていく時は、もっとあたしの好きな本にして!」
「え?」
 首を傾げるコナンを残して、ナナはずかずかと自分の部屋に戻っていった。