VALENTINE |
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アレフガルド学園一年生、アレンの朝は何時も早い。 窓から朝日が差し込むとほぼ同時、彼のどんぐり眼はぱっちりと見開く。サッカー部の朝練のため、今朝も早々に家を出ねばならぬ身の上だ。 布団から元気に起き上がり、学校指定の布の服(ジャージ)に着替える。教科書やら辞書やらを無造作に突っ込んだバッグを片手に階段を下りると、味噌汁の優しい匂いが鼻を擽った。 「おはよう、アレン」 「おはよー」 背にかかる母の声に答えながら、アレンは洗面所でざばざばと顔を洗った。タオルで水滴を拭いつつ向かった食卓には、早朝にもかかわらず大量の朝食が用意されている。朝飯はご飯派なアレンである。 「親父は?」 「出勤前に軽くマラソンに行ったわ」 「爺ちゃんは?」 「朝食前に軽くウォーキングに行ったわ」 「お袋はコアリズムやんねーの?」 「ご飯の支度前に軽く踊ったわ」 「ふーん」 どんぶり飯を片手に携えつつ、アレンは卵焼き、焼き魚、煮つけ、味噌汁、漬物と、大量の食品を景気良く消費していく。清々しいまでの食べっぷりは祖父から父へ、父から子へ脈々と受け継がれたものだ。 「これが早弁用のお弁当、これがお昼用のお弁当とパン代……今日は部活がないから放課後のおにぎりは要らないわね。腹が減っては戦が出来ぬが我が家の家訓なんだから、ちゃんと食べるようになさいね」 「うん」 最後の一口を味噌汁で流し込み、アレンは大量の食料をでかいバックに詰め込んだ。食べたら歯を磨くの家訓通り口を濯ぎ、どたばたと慌しく玄関に向かう。のんびりしている暇はない。 「そういえば昨日アンジェリカちゃんが、アレンに渡したいものがあるんだって張り切っていたわよ」 「アンジー?」 アンジェリカは隣家に住む幼馴染だ。嫁になると公言して憚らぬ彼女から、アレンは逃げ惑う日々を送っている。彼女のあけっぴろげな愛情表現を受け入れるにしろあしらうにしろ、彼の内面はまだまだ子供過ぎた。 人目憚らず恋心を押しつけてくる彼女が、母に宣言してまで渡したいものとは何なのか。思わずぶるりと肩が震えたのは寒気のせいばかりではあるまい。 「何か分かんないけどまあいいや。いってきます!」 「お母さんちゃんと伝えたからね! あと自転車で歩道は走らないこと! 家訓よ!」 「分かってるよ!」 追いかけてくる声を振り切るようにドアを閉め、アレンは自転車に跨る。ペダルを一漕ぎしただけで、世界は慌しくアレンの傍らを流れ出した。 コナンの朝は紅茶の香りで始まるのが常だ。 陽光に満ちたダイニングルームに優しい湯気が踊る。金色のバターを乗せたトースト、つやつやと形の良いベーコンエッグ、彩り鮮やかな温野菜に絞りたてのオレンジジュース等々、母の手料理は味は勿論盛りつけも完璧だ。朝飯はパン派なコナンは、満ち足りた思いで手作りジャムを手に取る。 「お父様とお兄様にお渡ししたいものがありますの。ニーナの愛の証ですわ」 先にテーブルに着いていたニーナが小さな包みを二つ差し出した。小等部の制服を可憐に着こなす少女はコナンの妹である。 「今年のバレンタインの一番乗りはニーナか。ありがたく頂こう」 コナンが柔らかく微笑めば、父のハーゴンも優しく愛娘の頭を撫ぜた。 「嬉しいプレゼントをありがとう、ニーナ」 「お兄様もお父様もモテモテですから、早くお渡ししないとニーナのチョコが埋もれてしまうと思いましたの」 「それがどのような形にしろ、愛が埋もれてしまうなどありえない。昨年は七百二十六の愛をレディ達から捧げられたが、そのどれもが眩しく輝き、僕の胸にとわの思い出を刻んでくれたものだ」 「私の息子は、今年はどれだけの愛に包まれるのだろうか」 「数は問題ではありません、お父さん。レディ達の愛は一つ一つが完璧で、一つ一つが至高なのですから」 余裕たっぷりに微笑むコナンとそれに頷くハーゴン、そんな二人の誇らしげに眺めるニーナ。誰もが入り込めないような一種独特の空間に、平然と足を踏み入れてくる人物がいる。 「二人とも、わたしからのチョコも忘れないでいてね」 母のエメリナが微笑みながら身を屈めると、ハーゴンはその頭を引き寄せて朝っぱらから熱烈なキスを交わした。十六と十の子持ちでありながら、新婚の熱気未だ覚めやらずといった風情だ。 「コナン、頂いたチョコを持ちきれなければタクシーで帰っていらっしゃい」 「はい。ですが捧げられた愛の重みを感じながら歩くのもバレンタインの醍醐味。僕はこの肌で、この心臓で、彼女達の想いを受け止めたいのです」 コナンが泰然と語ってのけるのに、ハーゴンが顎の辺りを撫ぜながら同意する。 「そうだね。愛とは全身全霊で受け止めるべき感情だ」 「お兄様素敵ですわ」 「ええ、美しいわ」 奇妙な一家の朝の一時は、こうして穏やかに流れていく。 アレフガルド学園の鐘の音が、厳かに朝の空気を震わせる。 「うわ〜、遅刻遅刻!」 凛とした空気に白い息を吐きながら、学園に続く坂道を一心不乱に駆け抜ける影がある。お約束通りパンを銜え、くすんだ葡萄酒のマフラーを靡かせる少年はケイン。アレフガルド学園高等科一年生である。 姉妹達はとっくに登校したらしい。何度起こしても起きなかったんでしょと母親にどやされて家を出たのは五分前。自己ベスト更新確実の速度で疾走したにもかかわらず、無常にも彼の鼻先で校門は閉じられた。 「あああ〜」 鈍く輝く格子を見上げながら、ケインはへたへたと座り込んだ。今月に入って通算五度目の遅刻、目出度くラーミア小屋の掃除当番である。 門の向こうにすっくと人影が立った。週番の腕章を輝かせるのはクラスメイトのグレンである。 「おはよう、ケイン。ぎりぎりで間に合わなかったね」 「後一歩だったんだからさ〜、見逃してくれよ」 「ダメだよ。決まりはちゃんと守らないと」 学級委員長を務めるグレンは生真面目を絵に描いたような少年だ。気の毒そうな顔をしながらも、手にしたチェックシートにしっかりと印を刻む。ボールペンを走らせる微音がケインに死刑宣告をくれた。 「ちぇっ、融通利かないなあ」 これが例えばアレンだったら、メガマック一つで容易く見逃してくれるはずだった。規則に忠実なグレンが当番だった不運を呪うしかない。 「常習犯だな、ケイン」 「ダ、ダグラス先生」 呆れた溜息と共に表れた教師に、ケインは忽ち緊張して背筋を伸ばした。生活指導のダグラス先生は、学園一生徒から畏怖されている教師だ。理不尽なことを押しつけるわけでもない。不条理な命令をくだすわけでもない。だがそんな彼だからこそ、羽目を外した生徒への仕置きは人一倍厳しいのだ。 「寝坊でもした?」 門を開けながら、グレンが小さく首を傾げる。 「うん、今日バレンタインだろ? 女の子がチョコくれた時、どんな風にお礼言おうかなとか考えてたら眠れなくなっちゃってさ〜」 学園一のお調子者は、そう笑って後頭部を掻いた。 「パンを銜えて走ったら出会いがあるかなと思ったけど、それもなかったよ。世の中甘くないなあ」 「……パン? 何かのおまじないか何か?」 「おまじないっつーかお約束だろ」 訳が分からないという風に、グレンは目をぱちくりとさせた。 |