深い海の底から浮上するように、ふっと意識が戻った。 全身の激痛に喘いだ瞬間、喉奥から血塊が溢れ出た。強い鉄の味に顔を顰めようとして、そうすることすら出来ない今の自分に気が付く。この体にはもう、表情を変える力も残っていないの。 優しい春風が、壊れた人形のように転がるわたしの髪を撫ぜた。視界に飛び込んできた若草色の髪が、見る見る淡いコスモスの色に変じていく。モシャスで変化していたわたしの体が、本来の姿に戻ったんだわ。 慌てて周囲を探ったけれど、魔物の気配はしなかった。良かった。あいつ等がいる間に呪文の効果が切れなくて。 ほっと息をついたその時、強さを増した風が傍に転がっていた羽根帽子を吹き上げた。帽子はあっという間に空の高みに舞い上がり、わたしから遠ざかっていく。 でもわたしにそれを追い駆けることは出来ない。虹色の羽飾りがついたそれが空の向こうに消えていくのを、ただ黙って眺めているだけ。 とってもとっても大切な、わたしの宝物だったのに。 今からほんの数時間前、草木もうっかりまどろむような春の日の昼下がり、わたしの村は魔物に襲撃された。 魔物の来襲に備えて日々警戒を怠らなかったはずの村なのに、魔族の王子が指揮する魔物達の攻撃には一溜まりもなかった。本当に、笑っちゃうくらい、呆気ない最期だった。 わたしと村の人達は戦って、戦って、戦い抜いて。一人、また一人、死んでいった。 ぎらぎら光る剣でお腹を貫かれた衝撃に、わたしは意識を失った。魔物はそれでわたしが死んだものと思って、止めを刺していかなかったみたい。 馬鹿ねとお腹の底で笑うことで、致命傷を与えられた悔しさを強引に飲み下す。 それにしてもどのみち燃え尽きる命なのに、最後の最後で意識を取り戻したのは神様の気まぐれ? 憐憫? それとも、この世の宝物を守り抜いたご褒美なのかしら? 今でもはっきりと覚えている。 村の神父様が、わたしに初めてその宝物を見せてくれた時のこと。 「わあ……! かわいい……!」 わたしは両手を打ち鳴らして、思わずそう叫んだわ。 神父様の腕には、おくるみに包まれてすやすや眠る赤ちゃんがいた。 今まで何人もの赤ちゃんを見てきたけれど、こんなにかわいい子は初めて。空に浮かぶ雲みたいにふわふわのほっぺた。柔らかそうなピンク色の唇。思わず突きたくなる小さな鼻。そして、かすかな光を放つエメラルドの髪。 男の子にしておくのが勿体ないくらいの綺麗な赤ちゃん。 「シンシア……お聞き。この子はやがて金色の太陽となって、世界を照らす天空の勇者なのだよ」 「……天空の、勇者」 わたしはその言葉を繰り返した。呪文みたいに神聖で、不思議な響きだった。 「でも神父様、どうしてそんなことが分かるの? この赤ちゃんは何処から連れてきたの?」 「私の夢に、金色の竜神が現われてそう教えてくださったのだよ」 その台詞は聖書を読む時の抑揚に似て、厳かに聖堂に響いた。 「世界を魔族から救う天空の勇者が誕生したと。そして魔族が、近い将来彼等の最大の脅威となるであろう勇者を血眼になって探していると」 魔族。その言葉を口にした時、神父様の穏やかな瞳の奥に、抑え切れない憎悪がちりちりと燃え上がったのをわたしは見逃さなかった。 「私はお告げに従い、ここから南にある樵の家へと向かったんだ。私がそこに到着すると同時に、樵がこの子を抱いて家から出て来た。聞けば彼も私と同じ夢を見たということだった。彼は悲しそうな顔をしてこの子を託してくれたよ。自分一人では魔族から守りきれないだろうと言ってね」 わたしの住んでいるこの村は、普通の村じゃなかった。 魔族や魔物に大切な人を殺された人達が、復讐を誓って山奥に切り開いた隠れ村。だから村人はみんな、何時か来るだろう戦いの日に備えて、それぞれの素質に合わせた戦闘訓練を行っているの。 金色の竜神が勇者を守る場所としてこの村を選んだのは、そう不思議なことじゃなかったのかもしれない。 わたしも、生まれた国を魔族によって滅ぼされた一人だった。 わたしは人間じゃない。永久に近い寿命と豊潤な魔力、そして短刀のように尖った耳を持つエルフ族。 わたし達エルフ族と魔族は、ずっと長い間戦争をしていたと聞いたことがあるわ。わたしが生まれて間もなく、エルフの国は魔族に焼き払われたんですって。 数少ないエルフ族の生き残りとなったわたしはお祖母ちゃんに連れられて、色んな国を転々として生活したわ。お祖母ちゃんが流行り病で死んでしまってからも、ずっと一人で旅を続けていた。そして数年前、ふらりと立ち寄ったこの村が気に入って住み着いたの。 「強い肉体と心を持つ青年に成長するまで、我々はこの子を守り育てるのだ。例えその結果、我々が命を落とすことになろうとも」 神父様の言葉に、わたしは思わず顔を顰めた。 「……嫌よ……そんなの嫌だわ。わたしは死にたくないもの。この赤ちゃんはとてもかわいいけど、この子を守る為に死ぬなんて嫌」 この子が魔族を討ち払うのは、間接的な仇討ちになるのかもしれない。 魔族が憎くないといえば嘘になるけれど……全てを捨ててまで故郷や両親の仇を討ちたいとは思わなかった。だってわたしには失われたものを嘆き、魔族を憎むだけの記憶がないんだもの。思い出せもしない過去に命を懸ける価値があるとは思えない。 そういう意味で、わたしは他の人達と少し毛色が違っていたかもしれないわね。 「死ねと言っている訳ではない。それ程の覚悟で守らねばならぬ存在だということなのだよ」 神父様は苦笑しながら、わたしに赤ちゃんを抱かせてくれた。 「弟だと思ってかわいがってくれればいい。それともシンシアはこの子が嫌いかい?」 わたしは慌てて首を振った。 だってその子は本当にかわいくて、一目見た瞬間大好きになっていたし、こんな子がわたしの弟になるなんてとても嬉しかったんだもの。 「わたし、この子をうんとうんとかわいがってあげるわ」 わたしは赤ちゃんのすべすべしたほっぺたにそっとキスをした。 ソロと名付けられたその赤ちゃんは、子供のいないディランとアリー夫婦の家で育てられることになった。 とはいうものの、ディランもアリーも日中は畑仕事に家畜の世話にと大忙し。二人が家を空ける間、ソロの面倒を見るのはわたしの役目だった。 ソロはたくさん食べて、たくさん笑って、たくさん泣く赤ちゃんだった。 赤ちゃんがむずかる時の力強さと重みを、わたしはこの時初めて知った。赤ちゃんが思い切り身を反らすと、予想外の力にこっちの体まで持っていかれそうになる。 それは多分、きのままの命の重み。 「ご飯もたくさん食べたしおしめも取り替えたばかりなのに、何がそんなに不満なの?」 何て言っても通じるわけがない。ご機嫌斜めなソロは頭を反らせ、手足をばたつかせて大暴れ。床に落とさないように抱っこするだけで、わたしは何時も汗びっしょりになった。 「おちびちゃん、あんたは男の子でしょう? 男の子が泣くなんておかしいわ。ほら見てごらんなさい、みんながあんたを見て笑っている。おかしいなって笑っているわ……」 わたしは泣き喚くソロを連れて、よく森に出かけたわ。 村の周囲はぐるりと森に囲まれていて、聖なる木の一本一本が結界を張っていた。神聖な力が宿るこの森に、魔族や魔物は入ってくることが出来ないの。 「ねえ、おちびちゃん。あんたは何時かこの結果を越えて外の世界へ行くんですって。強く逞しい勇者様になって、世界を魔族から救うんですって」 きらきら光る木漏れ日を掴もうと、小さな手を盛んに閉じ開きさせているソロに、わたしは微笑みかけた。 「でも本当におちびちゃんがこの世を救う勇者なのかしら? こんなにちっちゃくて泣き虫なのに? わたしにはとてもじゃないけれど信じられないわ」 ソロはうっとりするような綺麗な瞳でわたしを見て、だあ、とご機嫌な声を上げた。さっきまで散々むずかっていたくせに、泣いたカラスがもう笑ったとはこのことだわ。わたしが思わず吹き出すと、ソロも声を上げてきゃっきゃっと笑った。 「いいわ。おちびちゃんが勇者でも勇者でなくても構わない。わたしと一緒に楽しい毎日を送ろうね」 |