散り行く花の呟き<2>




 わたしは全力で子育てに勤しんだ。
 世の中の母親がそうであるように、あの子が泣けばあやし、あの子が笑えば微笑み、時々一緒に癇癪を起こしながら、戦争のような日々を心の底から楽しみながら過ごしていった。
 ソロが初めてお座りした時、掴まり立ちした時、歩きだした時、回らない舌で「ちんちゃ」とわたしの名を呼んだ時……その度にわたしは飛び上がって喜び、村中に報せて歩いたものよ。
「シンシアったらお嫁さんを飛び越えてお母さんになっちゃったのね」
 そんな台詞でからかわれる自分が、どれだけ誇らしかったかしら。
 忙しくて楽しい日々は光の速さで過ぎていき、ソロはあっという間に七歳になった。




 その日もわたしは何時も通り、夕飯の買い物をした帰り道、村の寺小屋に足を運んだ。
「シンシア!」
 門を潜るや否や、わたしの大事なおちびちゃんは、野原に放たれた小犬のように喜色満面で駆け寄ってきた。
「今日ね、剣術のブランドン先生に誉められたよ! 太刀筋が随分良くなってきているって! あと、その前には算数のリンディ先生に五重丸貰ったよ! ほら見て!」
 鞄の中からくしゃくしゃになった紙を取り出すソロの、得意げな顔と言ったらなかった。
「すごいわ、ソロ。最近頑張っているもんね」
 わたしはソロの頭を撫ぜた。癖のないエメラルドの髪は絡まることなく、さらさらと指の間から零れ落ちていく。
「さあ、帰りましょう。おやつにくるみのクッキーとミルクセーキを用意したわ。食べたら外で遊んでらっしゃい。晩御飯にはあんたの大好きなシチューを作ってあげる」
「ホント? 鶏肉いっぱい入れてくれる?」
「ええ、たくさん入れてあげる。でも人参も食べなくちゃだめよ」
「ちゃんと食べるよ! 僕はもう赤ちゃんじゃないんだから!」
 頬を膨らませて抗議したソロが、不意にきょとんと瞳を瞬かせた。興味深そうな視線がまっすぐにわたしの頭へ向けられる。
「シンシア、それ……新しい帽子?」
「ああ、気付いてくれた? 素敵でしょう?」
 わたしは昨日手に入れた真新しい帽子に手を添えて、ちょっと首を傾げた。淡いラベンダーの色をした帽子はシンプルだけれどとてもかわいらしくて、わたしが持っている帽子の中で一番素敵だった。
「うん……似合うよ。シンシアのピンクの髪にぴったりだ」
「ふふ。ありがと」
 わたしとソロは、手を繋いで家路を辿り始める。
「でももうちょっと個性が欲しいな。こんな小さな村じゃお店も少なくて、みんな同じものになっちゃうでしょ?」
「こせい?」
「そう。女の子はね、他人と同じじゃ我慢できないのよ」
「ふーん?」
 難しそうに眉を寄せるソロの顔がおかしくて、思わずくすくすと笑った時、森の方からフルートみたいに優しく響く鳥の声が聞こえた。
「ウリオウ鳥が鳴いているわ。外の鳥なのに森にいるなんて珍しいわね……そうだ、この帽子にウリオウ鳥の尾羽根をつけたら素敵だと思わない?」
 ウリオウ鳥っていうのは、ラピスラズリのように輝く外界の鳥。その尾羽根は特にキレイで、微妙に交じり合った色が日に透ける様はまるでオーロラを見るようなの。
「シンシア……ウリオウ鳥の羽が欲しいの?」
「そうねえ。運良く手に入れば嬉しいなあ」
 軽い気持ち交わしたその会話が、その後の大騒動を引き起こすなんて、わたしはその時考えてもみなかった。


 その日の夕方、ソロが行方不明になった。
 友達の家にいない。寺小屋にもいない。花畑にも水車小屋にも森にもいない。村中の人間が総出で探しているというのに、若草色の髪をしたやんちゃ坊主の姿は何処にも見当たらないの。
 山奥の小さな村は、嘗てない程の大騒動になったわ。
「これだけ探してもいないなんて、やっぱり森の外に出たんじゃないか?」
 刻一刻と時が過ぎ去り、誰の顔にも疲労の色が濃くなってきた頃、誰かがぽつんとそんな台詞を呟いた。
 考えたくなかった現実に、わたしの膝ががくがくと笑い出す。
 ……ああ、どうしよう!
 外の世界は魔物で溢れている。ここ数年間、魔物はどんどんとその数を増し、凶暴になっていると聞いたわ。奴等は人間の肉、特に小さな子供の柔らかい肉に目がないのよ。
 確かにあの子は来るべき未来に備えて、日々剣術や魔術の修行をしている。けれどそれはあくまで訓練。とてもじゃないけれど今のあの子の腕で、外の魔物と対等に戦えるとは思えなかった。
 わたしは真っ白な頭のまま、ふらふらと森の外に向かって駆け出した。
「シンシア! 何処へ行く気だ! 明るくなってからじゃないと危険だ……シンシア!」
 その時、ブランドンが怒号に近い声でわたしを止めたと聞いたのは後のこと。わたしにはその時、周囲の音なんてこれっぽっちも耳に入っていなかった。


 森を抜けて暫く行った小さな原っぱに、捜し求めていたソロの姿はあった。
 でもそこにいたのはソロだけじゃなかった。うちわのような耳と鋭い牙を持つみみとびねずみが、血の色に濡れた口蓋を開けてソロに食らいつこうとしている。
 どくん、と心臓が跳ね上がって、全身の血流が滞った。
 でも恐怖に立ちすくんだのはほんの一瞬。わたしは右手を空に向かって掲げ、口中で呪文を唱えた。大きく広げた指の間に、そこらを漂っていた火と風の精霊が引き寄せられる。
「ベギラマ!」
 わたしの指先から迸った炎の帯は、夜の闇をジグザグに切り裂いた。
 凄まじい悲鳴を上げながら、魔物は炎の中で悶絶する。生き物が生きたまま焼かれる不吉な匂いが辺りの空気を汚した。
「ソロ! 早くこっちへ!」
 だけどソロはぶるぶると首を振るばかりで、一向に立ち上がる気配を見せない。あまりの恐怖に腰が抜けているみたいだった。
 もたもたしていたら、死体の匂いを嗅ぎつけて他の魔物がやってきてしまう。
 駆け出そうとしたわたしのマントを、不意に何かが強い力で引き戻した。首ががくんと反り返り、靴の裏が草を滑る。バランスを失ったわたしの体は、鈍い音を立てて仰向けに引っ繰り返った。
 何が起こったのかを理解するより早く、生臭い息がぬるりと頬を撫ぜる。
「!」
 わたしは反射的に両腕を突っぱねて、迫り来る死のあぎとを寸でのところで食い止めた。
 赤く濁ったみみとびねずみの瞳は、びっくりする程近くにあった。は、は、と息を吐き出す口蓋から、幾筋もの涎が糸を引いて滴り落ちる。その鋭い牙は少しずつ、けれど確実にわたしとの距離を縮めていた。
 このままじゃ数分も経たないうちに、わたしの顔は食い千切られてしまうわ。
 わたしを殺し、血と肉を一滴残らず食らい尽くした後、魔物はソロに襲いかかるだろう。満腹になった魔物は愉悦性を増すというわ。こいつはソロを追い駆け回し、弄び、散々いたぶって殺すに決まっている。
 それだけは許さない……それだけは!
 わたしは食い縛った歯の奥で呪文の詠唱を始めた。掌が魔物に密着したこの状態で呪文を放てば、行き場を失った炎がわたしの肌まで焼いてしまうけれど、今はそんなことに拘っている場合じゃない。
 わたしの詠唱に応えて、火の精霊が両手に宿った。
「メラミ!」
 くぐもった爆発音と共に、わたしの手と魔物の顎の合間で火の玉が弾ける。
 魔物は悲鳴を上げて飛び退き、わたしはその隙に起き上がって体勢を立て直した。
 運良く指も手も失わずに済んだみたい。両手はどす黒く火膨れして血が滲んでいるけれど大丈夫、ちゃんと動かせる。
 わたしが放った二発目のメラミは、のたうち回る魔物を確実に仕留めた。


 火傷の痛みを感じている余裕なんてなかった。
「怪我は? 怪我はないの?」
 安全な森の中へ転がり込むと同時に、わたしはソロの顔を覗き込んだ。返事を待つ間ももどかしく、服の上から体を触って傷の有無を確かめる。あちこちかすり傷はあるものの、どうやら大した怪我もないようだと安心した途端、眩暈がする程の強烈な怒りが込み上げてきた。
「馬鹿!」
 わたしの怒号に、ソロの体がびくんと跳ね上がった。
「こんなに心配させて! こんなに迷惑かけて! 森から出ちゃいけないって、何時もあれ程言っているでしょう! どうしてそんな簡単なことが守れないの!」
 泣きながら怒鳴り続けたのは、後にも先にもこれが初めてだったわ。
 ソロはべそべそ泣くばかりで何も話そうとしなかった。そんなソロを眺めていると、たくさんの感情が絡まり合ってぐちゃぐちゃになっていたわたしの心も、徐々に平静を取り戻していく。
 わたしは大きく溜息をつき、改めてソロを眺めて……その右手にしっかりと握られているものに漸く気が付いた。
「なあに、これ……鳥の羽根……?」
 ぼんやりと呟いた一瞬後、わたしははっと顔を強張らせた。昼間ソロと交わした会話が、一字一句欠けることなく頭の中に蘇る。
「どうしても、シンシアに、プレゼント、したかったんだ」
 しゃくりあげながら、ソロは一生懸命に言葉を紡いだ。
「僕はもう赤ちゃんじゃないって……ちゃんと大きくなっていて、ちゃんと強くなっているってこと、シンシアに分かって欲しかったんだ。一人で羽根を手に入れて、シンシアをびっくりさせたかったんだ。でも……」
 ソロはわたしの焼け爛れた手を取って、ぽろぽろと涙を零した。
「ごめんなさい……こんなことになるなんて、思わなかったんだ……」
「……平気よ、こんな火傷。だってあんたが無事だったんだもの。ほら、もう泣かないで。男の子が泣くなんておかしいわ」
 わたしはソロの涙を拭った。ほんの少し、涙が火傷に染みた。
「でもね、ソロ。わたしはあんたに、そんな風に急いで大きく強くなって欲しいとは思っていないの。どうしてだか分かる?」
「……分かんない……どうして?」
「あんたがわたしとお別れして、この村を出て行ってしまうのが寂しいからよ」
 言ってから、わたしは自分の言葉にびっくりした。そんな気持ちが胸の内にあったなんて、わたし自身、全然気付いていなかったから。
 ……気付いてなかった?
 いいえ、それは嘘だわ。
 わたしはちゃんと自分の感情を自覚していた。ただ今の今まで、それを認めようとしなかっただけ。
 だってソロが何れ旅立つのは分かりきっていたことだもの。覚悟を決めてこの子を育ててきたはずなのに、そんな弱い心になる自分が情けなかったの。
 今まで努めて考えないようにしていたけれど、ソロがいなくなった後の日々を思うだけで、心の中に暗雲が立ち込める。空も花も色を失った灰色の世界。一体何を拠り所にして、残された長い時間を生きていけばいいのかしら。
「……大丈夫だよ。僕が村を出る時は、シンシアを連れて行くから」
「え? 何ですって?」
 思わずきょとんとするわたしに、ソロは力強く頷いた。顔は涙と土埃でべとべとだったけれど、大きな二つの瞳はすっきりと晴れ上がっていた。
「僕はうんと強くなるんだ。剣も魔術もいっぱいいっぱい勉強して、世界で一番強くなって、シンシアを守るんだ。そしたら一緒に外の世界へいけるよね。その時、僕はシンシアをお嫁さんにするよ」
 ソロは照れ臭そうに鼻の下を擦った。
「世界で一番好きだよ、シンシア」
 嬉しかった。
 胸の奥がきゅうっと痛くなって、鼻の奥がつんとして、涙が零れ落ちそうになった。ソロが本当に大切だったから、わたしを世界で一番好きだと言ってくれたその気持ちが、凄く凄く嬉しかったの。
 わたしはたまらなくなって、あらん限りの力でソロを抱き締めた。
「……そうね、わたしも一緒に行くわ。外にはあんたを苛める悪い奴がいるかもしれないもの。わたしが全部やっつけてあげるわ」
「違うよ! 僕がシンシアを守るんだよ! どんな強い魔族からも、魔物からも!」
 肩を怒らせた後、ソロはわたしの背中に手を回してぎゅっと力を込めた。
「だから寂しいなんて思わなくていいよ。僕はずっとシンシアと一緒にいるから」
「うん……そうね……」
 頷いた瞬間、ふと心の隅に湧き上がった苦い囁き。
 わたし達は、本当にずっと一緒にいられるのかしら。
 だけどわたしは固く目を瞑って、不吉な考えをわたしの中から追い払った。今、わたしはソロをしっかりと抱き締めている。この温もりに勝る現実があるとは思えない。
「シンシア。この尾羽根、こんなになっちゃったけど……貰ってくれる?」
 ずっと握り締められていたウリオウ鳥の尾羽根はすっかり変形して、柔らかな羽毛も汗で固まってしまっていたけれど。
「嬉しいわ。こんな素敵なプレゼントは初めてよ。ずっとずっと大事にするわ」
 それは世界に二つとない、わたしの宝物になった。