散り行く花の呟き<3>


 男の子の成長は早いというけれど。
 本当に、十二歳を過ぎた頃からのソロの成長は目覚しかった。
 背丈はあっという間にわたしを越え、体はしなやかに逞しくなり、発せられる声は耳に心地良く低さを増していく。子供子供していた柔らかそうな頬は、何時しかナイフで削ぎ落としたように鋭い線を描き、何処かしら精悍さを漂わせるようになった。エルフのわたしと人間のあの子じゃ年の取り方が違うから、今では二人で並ぶとわたしの方が年下みたいに見える。
 やんちゃなくせに泣き虫で、すぐにめそめそしていた小さな男の子は、一体何処へ行ってしまったのかしら?
 わたしは嬉しいような、寂しいような複雑な気分であの子の成長を見守り続けてきた。
 あいつ等が、やってくるまでは。




 本当に何の前触れもなかった。
 神聖なる森の結界が魔族の王子によっていとも簡単に破られ、魔物の大群が土砂のように村へ流れ込んで来たのには。
 奴等は汚らしい牙や爪で、わたし達が長い年月を費やして作り上げた家や畑を徹底的に破壊し、蹂躙していく。健気に咲く花の蕾を食い荒らす、害虫のようないやらしさ。
 でもわたし達が守るべきものは家でも畑でもなく、我が身でもない。
 金色の竜神によって遣わされた、この世を救う天空の勇者。
「僕も戦うよ! どうして僕だけこんなところに隠れなくちゃならないんだ!」
 ブランドンが無理矢理地下の貯蔵庫に引き摺りこんだものの、すぐさま外へ飛び出していこうとするソロを引き止めるのに、わたしは必死だった。
「だめよ! あんたはここにいるの……何があっても絶対に外へ出ちゃだめ!」
「どうして? 僕はブランドン先生の次に剣が使えるし、君の次に魔法が使えるんだよ? それなのにどうしてみんなで僕を庇おうと……」
 そこまで言って、不意にソロの頬が凍りついた。
「魔物の狙いは僕……僕なのか?」
「聞きなさい、ソロ」
 わたしは緊張に乾く唇を何度も舌で湿らせた。
「あんたはこんなところで死んじゃだめなの。世界中の人があんたが来るのを待っている。今のソロはまだちっぽけな光だけれど……今にきっと、世界を照らす金色の太陽になるわ」
「シンシア? 一体何を言っているんだ?」
「あんたが新しい世界を切り開くのよ。魔族や魔物に脅かされることのない、平和な世界を。それが天空の勇者であるあんたの務め」
 ソロはじっとわたしを見詰めて、喉の奥から、はっと乾いた笑いを吐き出した。
「魔族? 勇者? 新しい世界? そんなの僕には関係ないよ。僕にとって大事なのは君や村のみんなだ。そうだろう? だって……」
 強がる口調とは裏腹に、ソロの瞳は自分の運命に怯えきっていた。
 あたうことならぎゅっと抱き締めてあげたかった。大丈夫だよって背中を擦ってあげたかった。
 でも昔のように慰めてあげるには、わたしのかいなはあまりに狭かった。改めて思ったわ。この子は何て大きくなったんだろうって。
「僕が天空の勇者だって……止めろ、止めてくれ! 僕が勇者だから、その為にみんな死んでいくのか? その為に村が滅ぼされていくのか? それじゃあ僕はただの疫病神じゃないか!」
 そしてソロは臓腑から搾り出すように、言ってはならない言葉を吐き捨てた。
「こんなことになるなら、僕なんて生まれてこなければ良かったんだ……!」
「ソロ!」
 わたしは思わずソロのほっぺたをひっぱたいた。視界の隅で、虹色の光沢を放つ羽根飾りがひょこんと揺れた。
「生まれてこなければ良かったですって? 馬鹿なこと言わないで!」
 ソロはぎゅっと唇を噛み締めた。抑えきれない悔しさが涙になってヒスイの瞳を滲ませている。
 かわいそうな、ソロ。この子はまた十七歳。なのに本人が望むと望まざるとに係らず、世界の命運が全てその肩に圧しかかってきている。
 でもね、わたしは思うの。
 ソロが強い子だから、その重荷に耐えられる強さを持っているから、金色の竜神はこの子を天空の勇者として選んだんだって。
「男の子が泣いたらおかしいわ」
 わたしは微笑み、今叩いたばかりのソロの頬を撫ぜた。
「ねえ、ソロ。あんたが生まれてきてくれたこと、あんたが一緒に過ごしてくれたこと、わたしはこんなにも感謝している。村の人達だってそうよ。そうでなきゃ幾らあんたが天空の勇者だからって、命を懸けて守ろうとするもんですか。覚えておいて……忘れないで。わたし達がどんなにあんたを愛し、慈しんだか」
 目を離すとすぐにたんこぶやら擦り傷やらを作って、何時も周りをはらはらさせっぱなし。無鉄砲で、向こう見ずで、やんちゃ坊主で……だからこそ、村中の人に愛されたソロ。
 初めのうちこそ、村の人達にとって、ソロは復讐の手段に過ぎなかったかもしれない。
 でも今は違う。ソロはこの村の愛し子。この子を通して、わたし達は平和な世界の夢を見た。そしてソロとその夢を心の底から愛したの。
 だからわたし達は、この子の為に笑って死んでいける。
 わたしは一歩退き、唱えた。この日の為に訓練していた、特別な呪文を。
「モシャス」
 金色の光が大気中から溢れ出し、くるくると細かな渦を巻いてわたしの体を包み込む。わたしの骨と肉、髪と肌、わたしを形成するありとあらゆるものが、わたしのイメージ通りに変形していく。
 光が全て消えた時、わたしの目線はぐんと高くなっていた。これはソロの目線。わたしの体はモシャスの魔法によって、髪の毛一筋に至るまでソロとそっくりに変化しているはず。
「シンシ……ア? 何のつもりだ……? まさか僕の身代わりに……?」
 ソロがひゅうっと息を飲んだ。
「だめだ、絶対にそんなことさせない! 言っただろう? 僕が君を守るんだって……!」
 ソロがわたしの両手を痛い程握り締めた。今は見えない火傷の跡が、引き連れて皺を刻んだ気がした。
「君が火傷をしたあの日以来、僕は強くなろうとひたすら修行に明け暮れてきた。僕が誰よりも強くなりたいと願ったのは君の為、世界の為なんかじゃない。僕は世界で一番君が大切で……世界で一番君が好きなんだよ!」
 わたしは目を閉じた。一瞬早く瞳を焼いた紅の涙が、頬を転がり落ちた。
「ありがとう……ソロ。わたしはとっても幸せよ。これ以上望めない最高の人生だわ。それもこれも、ソロがわたしの側にいてくれたから。あんたという眩しい太陽に照らされて、わたしは本当に幸せだった。だから……」
 わたしはゆったりと手を振り解き、囁き声でラリホーを唱えた。
「シン……」
 信じられないと言った風に見開かれた瞳が、睫の重みに耐えかねたように閉じていく。意識を失ったソロの体は、ずるずるとわたしの足元に崩れた。
「これからも輝いて。誰よりも強く大きく。そしてわたしにしてくれたように、この世界の人達を照らしてあげて」
 わたしは完璧にソロを演じて、敵の目を欺いて見せる。どんなに才能ある役者より、わたしはずっと上手に勇者の役をこなせるわ。だってわたしは、この世で一番この子のことを知っているんだもの。
 ああ、わたしはどんなに、この子を愛したかしら。
 ソロを抱いて、森を散策した日々。ソロの手を引いて、稽古場からの家路を辿った日々。ソロと肩を並べて、水車を回した日々。そのどれもがいとおしい時の結晶。
 ソロと暮らした十七年間で、わたしは本当に強くなった。
 誰かの為に戦えて、死すら怖くないと思える程強く。




 ソロの為に死ぬなんて嫌だと、神父様に言い放ったことが、随分と昔の出来事のように思える。
 あの日あの時あの場所から、何て遠くまで来たんだろう。振り返っても思い出が通り過ぎるばかりで、決して戻ることの出来ない道を、無我夢中で駆けて来た気がするわ。
 少し急ぎ過ぎた気はするけれど……後悔はしていない。



 次の風が吹き抜けた時、わたしの魂は大気に散る。光の粒より細かく砕け散って、この世界に溶け込んでいく。


 ごめんね。一緒に外へ行く約束、守れなかった。
 ああ、ほら、また泣く……みっともないったら。涙を拭いて鼻をかみなさい。
 男の子が泣いたらおかしいって、ずっとそう教えてきたでしょう?


 さあ、歩いて行きなさい。
 まっすぐに顔を上げて。決して振り返らないで。
 勇者としての旅路は、きっと長く険しいでしょう。でも行く先に転がるのは苦しみや悲しみだけじゃない。冷たく乾いた岩の隙間に咲く花があるように、どんなところにも必ず喜びや希望が存在するわ。
 繰り返される出会いと別れを大切にしてね。
 そこに、あんたの新しい宝物があるはずよ。


 さようなら、天空の勇者ソロ……いいえ、やんちゃで泣き虫でちょっぴりガンコな、わたしだけのおちびちゃん。


 わたしもあんたを、世界で一番、愛している。