からくりの心<1>


 ようやく家に戻されたからくり人形は、歌うように歯車の音を響かせながら部屋の奥へと駆け込んだ。
 部屋のベッドには白骨化したからくり人形の主が横たわっている。彼が何時、何が原因で、どのような状態で息を引き取ったのか知る者はいない。全てを拒絶して生きた男の寂しく孤独な末路だった。
 あばら家に放置された白骨死体とそれを慕うからくり人形。怪談めいたその光景が少しも不気味に見えないのは、主を覗き込むからくり人形の仕草があまりにも優しいからだろう。
「ゼボットハ病気。スープヲ飲メバ元気ニナル」
 エリーはぶつぶつと呟きつつ、台所に向かって食事の支度を始める。未来永劫、彼女はこうして誰も飲むことのないスープを作り続けるのだ。
 黙ってその光景を見守っていたアルスが感極まったように一歩踏み出した。そんな彼の袖を引いて、小さく首を振ったのはマリベルだ。
「アルス。これがエリーの幸せなのよ」
「……うん。分かってる」
 アルスは黒目がちな瞳を伏せて唇を噛んだ。
「分かっているつもりだよ。でも、見てられないんだ」
 アルスはそっとマリベルの手を払ってエリーの元へ向かった。その背中を追うように宙を掻いたマルベルの指は、結局それ以上縋ることなくゆるゆると脇に垂れ下がる。一歩遅れて小屋にやってきたキーファとガボもアルスを止めようとはしなかった。
「エリー。ゼボッドはもう死んでいるんだ。だからスープは必要ないんだよ」
「死ンデイル?」
 エリーが首を傾げると、古くなった連結部分が軋んだ音を立てた。
 死ぬというのがどういうことなのかエリーには理解出来なかったし、理解する必要もなかった。ゼボットがベッドに横たわり、スープが出来上がるのを今か今かと待っているのがエリーにとっての全てだ。美味しいスープを作って彼に元気になってもらう以外、一体何を考える必要があるのだろう。
「ゼボットハ病気。スープヲ飲メバ元気ニナル」
 エリーは縁の欠けた皿にスープを盛ると、アルスの傍らをすり抜けてベッドに向かった。
「エリーノスープハトテモ美味シイ」 
 エリーは変色した歯の隙間にスープを一匙流し込んだ。暖かい豆のスープは乾ききった骨の間を流れて、薄汚れたシーツに染み込んでいく。
「ゼボット飲マナイ。ドウシテ?」
「ゼボットは死んでいるから、スープが飲めないんだ」
 アルスは根気良く同じ言葉を繰り返してエリーの頭を撫でた。
 優しく撫でてもらえるのが嬉しくて、エリーはしばしその感触を楽しんだ。スープが上手に出来た時、世話をしていた鉢植えの花がきれいに咲いた時、ゼボットもこんな風に頭を撫でてくれたものだ。
 もう一度ゼボットに頭を撫ぜてもらいたいとエリーは思った。アルスの手も温かくて優しいけれど、ゼボットのそれとは違うのだ。
「ねぇ、エリー。僕達と一緒に行こう。世界の何処かにきっと君と同じからくり人形がいるから。僕達、君の友達を探して上げるから……」
「エリーハ何処ニモ行カナイ」
 エリーは不意に緊張し、恐ろしげに身を捩りながらアルスとの距離を置いた。
「エリーガイナイトゼボットガ悲シム」
「……エリー?」
「エリーハズット側ニイルト約束シタ」


 エリーは知っているのだ。
 誰が尋ねて来ても怖い顔で追い返してしまうゼボットが、ふとした瞬間にとても寂しそうな目をしていたことを。
 沈む夕日が草原を薔薇色に染める頃、ゼボットは椅子から立ち上がり、窓枠に両手をついて外の光景に目をやった。夕焼けを映す瞳は氷の珠のように透き通っていて、今にもそこから透明な雫が滴り落ちんばかりだった。
 そんなゼボットに気付く度、エリーは何時も大慌てで駆け寄ったものだ。
「ゼボット、泣ク?」
 エリーがハンカチを差し出すと、ゼボットは弾かれたように頬に手をやった。驚愕を浮かべた顔が次に苦々しく顰められる。
「僕が泣く?」
「ゼボット泣キソウ。悲シイ? 寂シイ?」
「馬鹿な、寂しいはずないだろう。僕は僕の意思で人里を離れて生きているのに、何を寂しく思う必要があるんだ?」
 見えない何かを威嚇するかのように、ゼボットの双眸が厳しく凍りついた。
 だがそれも長くは持たなかった。分厚い氷の仮面が滑り落ちるかの如く、ゼボットの表情に急激に変化が表れる。意識的にそびやかされた眉の力が抜け、堅く引き結んだ唇が緩むと、その表情は酷く疲れたものになった。
「……お前に意地を張っても仕方ないか。そうだな……僕は寂しいのかもしれない。誰とも関わりたくないと願いながら、誰かが側にいてくれることを望んでいるのかもしれない」
 ゼボットは顔を片手で覆い、震える唇から長く細く息を吐き出した。肺の空気を押し出してしまうと、ゼボットは壁に背を押しつけたままずるずるとその場に崩れ落ちた。
「……エリー」
 愛した人の名を紡ぐ声が軋んだ。
「ずっと側にいてくれると言ったのに何故死んだ? 僕の魂をがんじがらめにしたまま、僕の手の届かないところへ行ってしまうなんて君は本当に酷い人だ。あの日の約束は君とって一時の戯れに過ぎなかったとでもいうのか?」
 苦しげに呻いたしばし後、ゼボットはゆるゆるとかぶりを振る。
「違う。そうじゃない。君の言葉が偽りであった筈がない。君は確かに僕を愛してくれて、それなのに僕を置いて逝ってしまったんだ。運命は稲妻のように突然、何の感情もなく僕達を引き裂いてしまい、僕達にはそれを拒む手立ても抗う手段もなかった。二度とあんな想いはしまいと、僕は全ての関わりを断ち切ってここに逃げてきた」
 つらつら綴られる囁きは木枯らしのよう。一音一音発する毎に乾いた音が声帯を痛め、声は益々低く、しわがれていくのだ。
「失うことを恐れるのなら最初から何も持たなければいいんだ。君に出会ったのも君を愛したのも、何もかもが間違いだった。君への想いも思い出も、今となっては僕を苦しめるだけじゃないか……!」
 血が吹き出すような声を上げた後、ゼボットはくたりと力を失って項垂れた。
 町から遠く距離を隔てたこの小屋には雑踏も喧騒も届かない。しんと静まり返った部屋にことこととスープの煮える音だけが響く。
「……ゼボット?」
「……僕は弱いのだろうな」
 長い長い沈黙の後、ゼボットは声にならない声で自嘲気味に呟いた。
「喪失の痛みに耐えられぬほど、僕は弱い人間なのだろうな」
「……」
 エリーはそろそろと手を伸ばし、震えるゼボットの肩に触れた。
 びくんと弾かれたようにゼボットが顔を上げる。普段とはまるで違う、酷く無防備であけすけなその表情に、エリーは冷たい鉄の体の奥が……感覚など持ち得ないはずのからくりが……ぎゅっと傷むのを感じた。
「エリーハゼボットノ側ニイル」
 ゼボットの目を覗き込んで、エリーは小さく頷いた。
「エリーハ何処ニモ行カナイ。エリーハゼボットヲ一人ニシナイ。ダカラゼボットは寂シクナイ」
「……」
 ゼボットの面を嘗てないほどの優しい微笑みが覆った。
「……そうか。エリーはずっと僕の側にいてくれるのか」
「イル。今日モ明日モ明後日モ。エリーハズットゼボットト一緒」
「……ありがとう、エリー」
 大きな掌がぐいぐいとエリーの頭を撫ぜた。エリーは嬉しくて、からからとからくりの音を弾ませた。