アルス達が立ち去って以来、その小さなあばら家を訪なう者はいなかった。 忘れ去られた小屋では毎日同じ光景が繰り返されている。誰も飲まないスープを作り続けるからくり人形と物言わぬ主の間に流れる時間は、川底の水流のように静かに透き通っていた。 今日もエリーは台所でスープを作る。コンソメのスープはゼボットの大好物で、何時も美味しいと頭を撫でてくれた。今日のスープは特別上手に出来たから、きっとこれでゼボットは元気になるに違いない。 スープ皿を手にベッドへ向かおうとしたエリーの車輪に、床板から飛び出した釘が引っかかった。 前後左右に細かく動いてみたが、車輪の溝にがっちりと食い込んでしまった釘はなかなか外れない。そうこうしているうちにせっかくのスープがどんどん冷めていくのでエリーは焦った。一旦後方に大きく引くと、力任せに前進して強引に釘を抜こうとした。 ぐらりと重心が傾いた。 バランスを立て直す暇などなかった。大事なスープがぶちまけられるのと同時に、体が床に叩きつけられる。己の重みが加算された凄まじい衝撃が一瞬にしてからくりを伝播する。 体の何処かで、何かが壊れた決定的な音がした。 「スープガ零レタ」 起き上がろうと床についた両手が、がくんとあらぬ方向へ折れた。エリーは一瞬戸惑い、もう一度起き上がろうと腕を動かす。結果は同じだった。何度やっても鉄の手足は主の意志に反し、でたらめな方向へでたらめに突き出され、埃塗れの床をごりごりと擦るだけだった。 「ゼボット、ゼボット」 助けを呼んでもゼボットは答えてくれない。無理もない、ゼボットは病気なのだ。スープを飲ませて元気にさせなければ、動くことも出来ないのだ。 エリーは横たわるゼボットを見つめながら、ただ一心に手足を動かし続けた。 そうして一体何日もがき続けたのだろう。 塗装が剥がれ、ぼろぼろになった手足が痙攣するようにしか動かなくなった時、ふとエリーの頭上から優しい声が降り注いだ。 「大丈夫か、エリー?」 数年振りに聞く大好きな声は春の雨のように優しかった。声のした方向へ向かって、エリーは反射的に手を伸ばそうとした。 すると不思議なことに、それまでずっしりと重たかった腕があたかも羽のように軽やかに浮いた。いや、腕だけではない。体全体が嘘のように滑らかに動いて、エリーは何の苦もなく立ち上がることが出来たのだ。 「ゼボット? ゼボット?」 「ああ、随分痛んでしまったな」 エリーの体をあちこち調べて、痛々しそうに顔を歪ませるのは確かにゼボットだ。 「だが心配はいらないよ。僕がきれいに治すから」 「ゼボットハ病気。スープヲ飲マナイト悪クナル」 エリーは大慌てで落ちていた皿を拾い、ゼボットの前に差し出した。床に零れてしまったはずのスープは何時の間にかちゃんと元に戻っていて、美味しそうな湯気を立てていた。 ゼボットは皿を受け取り、とびきりのご馳走を恭しくスプーンで掬う。ゆっくりとスープを嚥下したゼボットの顔を満面の笑みが覆った。 「やはりエリーのスープは最高だ。とても美味しいよ」 「元気ニナル?」 「勿論だとも。エリーのスープのお陰で僕は元気になった……こんな風に空を飛べるくらいにね。さあ、行こうか」 「何処ヘ?」 「ここより温かくてきれいでたくさんの人がいる世界だ。そこでは僕もどうにか他人と上手くやっているよ。そうだ、お前と同じエリーという名前の人もいる。優しい人だからきっと仲良くなれるだろう」 ゼボットの手がエリーの頭を撫ぜた。欲しかったのはこの手の感触、この手の温もりだ。 「エリートゼボットハ一緒」 「そうだ、一緒だ。エリーは僕に寂しい想いをさせないと言ってくれたのに、僕の方がエリーに寂しい想いをさせてしまったな。だがこれからはずっと一緒だ」 差し伸べられた手を、エリーはしっかりと握った。 そのからくり人形が動かなくなって、一体どれ程の時が流れたのだろう。 足跡が刻まれるほど埃の積もった床に人形が横たわっている。開け放した扉から吹き込む風を浴びても、錆びついた鉄の体は動かなかった。 「壊れちゃってるぞ」 ガボがマリベルのスカートを引いた。 「うん……そうね」 「直せないかな? かわいそうだぞ」 「いや、これでいいんだ」 マルベルの代わりに首を振ったのはキーファだ。 「直してやってもエリーはゼボットのいない世界で永遠にスープを作り続けるだけだ。エリーはそれを幸せに感じていたのかもしれないけど、誰かのために一生懸命スープを作っても飲んでもらえないなんてやっぱり悲しいじゃないか。エリーには人間と同じ、もしかしたら人間よりも感じやすい心があったんだ。これ以上悲しい想いをさせる必要はないだろう」 「そうだね」 エリーの前に屈みこんで、鉄の体を覆う埃を払っていたアルスが頷いた。 「エリーは幸せだと思う。きっとゼボットが迎えにきたんだ」 「え?」 アルスは立ち上がり、横に一歩引いた。アルスの体で遮られていた光がエリーを優しく照らし出した。 「だって見てくれよ。エリー、笑っている。羨ましくなるくらい、幸せそうな顔をしているよ」 |