ふと気が付くと、夕焼けが部屋をいっぱいに満たしていた。 どっしりとしたマホガニーの調度品も、お気に入りの山の絵も、せわしく帳簿をめくっていたあたしの手も、みんな明るい薔薇色に染まっている。もうそんな時間になったんだと、あたしは机から顔を上げ、強張った首筋を撫でながら窓の外を見た。 シャンパンに浸したような空の中、今日の太陽が最後の光を振り撒きながらゆっくりと沈んでいく。 夕焼けはあまり好きじゃない。薔薇色に燃える空も茜色に染まる大地もきれいだとは思うけど、眺めているうちに酷く寂しい気分になるの。 あたしはふうと溜息をついて、あれから何年経ったのかと、改めて指折り数えてみる。 過ぎ去った年を示す指は、ゆっくりと内側に七本折れ曲がる。あたしは翳した両手を見つめて、今気付いたといわんばかりに目を見開く。 そう、七年。兄さんの仇討ちに始まって、七賢者の末裔を探して世界を廻り、神鳥の導きによって暗黒神を討ったあの大冒険から、もう七年経つんだ。 あの頃十八歳だったあたしに七年の歳月が加算されて、二十五歳になったあたしがいる。わがままで気ままだったあたしも、今や立派な女領主様。リーザス村の片隅に立つ瀟洒な屋敷を中心に日々忙しい。畑や果実園を見回ったり、天候を心配したり、領民の愚痴を聞いたり……それなりに充実した毎日を送っている。 平穏な日々は砂時計が引っ繰り返されるように規則正しく過ぎていく。戦いの末に勝ち取った日常生活は、いとおしいけれど少し退屈だわ。 だからあたしはよく執務の手を止めて、遠い過去に繰り広げた冒険の日々を追憶するんだ。 目を閉じれば蘇る風の感触、大地の匂い、馬のいななき、仲間達の声。辛いことや悲しいこともいっぱいあったけど、目標に向かって邁進していたあの頃のあたしはとても輝いていたように思う。あたしは時々過去のあたしに嫉妬して、そんな今のあたしに苦笑する。 思い出深い時間をともに過ごした仲間達は、今それぞれ別の道を歩んでいるわ。 エイトはミーティア姫と恙無く結ばれて、今や押しも押されぬ大国トロデーンの国王陛下。子供を四人も作っておきながら未だ恋人気分が抜けない二人は、この村にまで時々お忍びデートにやってくる。仲の良い子犬みたいにいちゃいちゃじゃれあう二人を、あたしは何時も苦笑しながら眺めている。 ヤンガスは山賊と堅気の間をふらふらしながら、自由気ままに世界を歩いている。時々旅の話を土産に尋ねてきては、屋敷中の食料を食べ尽くして去っていく。ゲルダさんとどうなったのか尋ねても、顔を赤くして答えないけど、あの様子からして、恐らくあの二人はこの七年間ちっとも進展していない。きっとあの二人は未来永劫このままで、それが二人にとって最上の幸せなんだろうな。 そしてククールは。 最後に会ったのは四年前。村中が燃えるように赤く染まった夕焼けの刻、ククールは何の前触れもなくふらりと現れたんだ。 「兄貴を探しにいく」 あいつはそう言ってあたしの手を取り、図々しく指を絡めた。 「どうか俺の無事を祈っていてくれ。どんな苦難が待ち受けていようとも、ハニーの祈りがあれば百人力だ」 「もう、馴れ馴れしいわね!」 あたしは何時もやっているように、ククールの手を振り解いて眉を吊り上げた。 「神様にあんたの無事を祈るなんて勿体ないから、いわしの頭でも拝んでおいてあげるわよ!」 「それでいい。神様よりもご加護がありそうだ」 ククールはにやりと笑うと、生臭坊主に相応しい台詞を残して夕日の中に溶けて行った。そしてそれっきり、姿を見せない。 マルチェロには会えたのかなと、あたしは時々空を見上げて溜息を吐く。 よしんば再会を果たしたとしても、二階から嫌味のこと、素直にククールを受け入れるとは思えない。マルチェロは本当にククールを嫌っていた。弟に対する憎悪と嫌悪を糧に息をしている男だった。 あの兄弟間に交錯する想いは複雑で、兄さんとは大の仲良しだったあたしがそれを完全に理解することはないだろう。二人の痛みを推し量ることは出来ても、あたしの心でそれを感じることは出来ないのだから。 憎まれていると分かっているのに、兄探しの旅に出たククールの気持ち、分かるようで分からない。にやにやと薄ら笑いを浮かべる端正な顔の下に、一体どれほど複雑な想いが潜んでいたのかしら。 あたしはそれを知りたいと思うし、知りたくないと思う。知ってしまった時、何て言葉をかければいいのか、幾ら考えても分からないから。
仲間達と同じように、あたしはあたしの道を選んだ。リーザス村に戻って、お母さんとも何とか上手くやりながら、女領主として生活を送っている。次から次へと仕事が舞い込む日々は、決して嫌ではないけど。 「ゼシカ姉ちゃんさあ……何で結婚しねぇの?」 領地のぶどう園を視察に行った帰り道。ぽくぽくと馬を歩ませるあたしに並んで、ポルクがそう尋ねてきた。 「あんたまでそんなことを聞くの?」 あたしはうんざりと舌を出した。 あたしは今年で二十五歳。十七、十八が結婚適齢期ということを考えると、一点の曇りもない完璧な嫁き遅れだ。二十歳を過ぎた頃から増え始めた見合い話は連日雪崩のように押し寄せてくるし、お母さんの眉間の皺も日に日に深さを増している。 あたしにはアルバート家の跡取りを生む義務がある。一刻も早く適当な旦那様を見繕って、一刻も早く立派な跡取りを生まなくちゃならない。 でも義務だけで結婚と出産に挑むほど、あたしは物分りのいい貴族の娘じゃない。あたしはあたしの気持ちで夫を選びたいし、生まれてくる子供を愛したい。それは女として当然の気持ちだと思うんだけど、いかんせん地方豪族の身分ってものが、あたしからあの手この手でその権利を奪おうとしている。 それにしてもお母さんばかりか、ポルクまであたしの結婚に興味があるなんて嫌になっちゃう。 「だってゼシカねぇちゃんの旦那は将来的に俺達の領主様になるわけじゃん。そりゃ気になるよ」 ポルクは悪びれる風もなくそう言って、ひょいと肩を竦めた。 小さい頃から生意気だったポルクは、最近別の意味で生意気な口を利くようになってきた。 村一番のやんちゃ坊主だったポルクも十九歳になる。サーベルト兄さんが言っていた通り立派な戦士に成長した彼は今、あたしの片腕として良く働いてくれている。肉体労働はポルク、頭脳労働はマルク。一対の優秀な青年達の助けがあるから、あたしはどうにか領主をやっていられるようなものだった。 「ゼシカ姉ちゃんはプライドが高いからさ。ちょっとでも気に入らない見合いを片っ端から断って、せっかくの恋のチャンスを逃しているんじゃないかってマルクが心配してた。俺もそう思う」 全く、あたしの知らないところで何を話しているんだか。 「あんた達が心配することじゃないわ。あたしはあたしがいいと思った時に、あたしがいいと思った人と結婚するから」 「でもさあ」 「あたしのことよりあんたはどうなのよ、ポルク。彼女とはどうなっているの? そろそろ結婚するって噂も聞いたけど……?」 「ゼ、ゼシカ姉ちゃんに関係ないじゃんっ」 真っ赤になったポルクが馬の歩みを速める。あたしは笑ってその後に続く。 大きくなったなと、あたしはポルクの広い背中に保護者めいた感慨を抱いた。 小さかったポルクをこんなにも立派な青年に変えた年月は、果たしてあたしにはどんな変化を齎したのかしら。この七年間、あたしは領主として必要な知識を身につけようと一生懸命勉強した。努力はそれなりに実を結び、あたしはどうにかアルバート家の領地と領民を守っていけるようにはなったけど。 夕日に染められた街道を渡って、あたしとポルクは完全に日が沈む前にリーザス村に到着した。何時ものように馬をポルクに任せると、あたしは疲れた体を引き摺るようにして屋敷へ向かう。元々乗馬が好きでなかったあたしは、今でも馬で遠出をするとぐったりと疲れてしまうのだ。 「ゼシカ姉ちゃん」 不意に呼び止められて、あたしは振り返った。 馬の手綱を握り締めたポルクが立っている。夕日を背にしたポルクの顔には濃い影が落ちていて、その表情を伺うことは出来ない。だけどポルクが酷く強張った、ともすれば怒りに似た表情を浮かべているのが雰囲気で分かった。 あたし何か、怒らせるようなことしたかしら? 「……何? どうかした?」 「姉ちゃんは待ってんだろ?」 「え?」 「俺、ゼシカ姉ちゃんには幸せになってもらいたい。だから、ゼシカ姉ちゃんを七年も放っておくような奴は嫌いだ」 あたしの胸がじくじくと湿った痛みを帯びた。 「一体何の話……」 「ゼシカ姉ちゃんを探しに塔までいってくれたあいつだったら良かったのに。あいつなら、ゼシカ姉ちゃんを七年も待たせなかった」 ポルクは悔しげにそう言い捨てると、くるりと踵を返して歩いていく。ポルクの後ろ姿が完全に消えた瞬間、あたしは足の力が抜けてその場にしゃがみこんでしまった。 どうして見抜かれたんだろう。そんな素振り、一度だって見せたことないはずなのに。 ポルクの言う通り。あたしはククールを待っている。 この気持ちが恋とか愛とかいうものなのかは、今のあたしには良く分からない。ただあの日、ふと振り返ったククールの最後の微笑みが、あたしの心に穴を開けていった。それを塞いで貰えない限り、あたしは一歩も動けない。あたしは未だに、夕焼けの色に染まった入り口で一人佇んでいる。 あたしは待っている。何時現れるともしれない……ううん、ひょっとしたら二度と現れないかもしれない男を。今頃何処かで、可愛い女の子とよろしくやっているかもしれない男を。 ……バカみたい。 |