そんなあたしの鬱々たる想いを余所に、あいつはある日突然、何の前触れもなく現れた。いい加減で気ままで自由で、風のように捉えどころがなく水のようにつかみ所のない、あいつらしい登場だった。 「よお、久し振りだなゼシカ」 七年目の再会とは思えない軽い言葉におどけた口調。振り返ると、夕焼けの中にククールが立っていた。 万年雪を想わせる銀髪も、猫みたいに薄い色の瞳も、何処か人をおちょくったような微笑もあの日のままで、あたしは一瞬幻を見ているんじゃないかと思った。 ああ、でも。 「ますます色男になった俺を見て、口も聞けないほどびっくりしてるみたいだな」 幻は軽口を叩かない。幻はあたしの手に触れない。優しい力で指先を握らないし、温もりを伝えることもない。だからこれは。 「感極まって俺の胸に飛び込んでくるかと思っていたのに、あてが外れてがっかりだ」 「あ……相変わらず自意識過剰ね」 からからに干上がった喉からやっと声が出た。それをきっかけに昔の勘を取り戻したあたしは、軽く足を広げ、腰に手を当てて臨戦体勢を取る。 「変わらねぇな、ゼシカ」 「あんたもよ、ククール」 ククールは嬉しげに喉を鳴らす。ふてぶてしくて元気そうで、あたしはほっとした。 「本当に久し振りね。元気だった?」 「この俺が病気するとでも?」 「思わないわよ。何とかは風邪引かないっていうし」 「ひでぇなぁ」 立ち話もなんだからと、あたしはククールを屋敷へ招待する。ククールは芝居がかった風に深々と頭を下げた後、にやりと笑った。 「兄貴は死んだ」 応接間に通して、簡単なお茶とお菓子をメイドに言いつける。良い匂いのする紅茶と焼き菓子を持ったメイドが下がった瞬間、ククールはさらりとそう言った。 あたしは紅茶のカップを唇に当てたまま動けない。 兄さんが死んだ時、あたしはどんな言葉が欲しかっただろう。慰めとか哀れみとか同情とか……ううん、そうじゃない。 言葉なんて要らなかった。あたしの話を聞いて、それがどんなに矛盾や不条理に満ちていても、黙って頷いてくれる強い瞳が欲しかった。残念ながら、あたしにはそんな友人も肉親もいなかったけど。 だからあたしは、ククールの話を黙って聞くことにした。 「兄貴の勝ち逃げだ。俺の完敗だ。蛇蠍の如く嫌っていた俺を弟と認めさせることこそ最大の復讐だったのに、それも叶わなくなった。俺の心はこっぴどく傷ついたね」 殊更軽い口調で言うククールの、青い瞳が寂しそうに揺れる。 ククールは何時もそう。人一倍感じやすくて繊細な心を、乱暴な言葉や皮肉で隠そうとする。ククールが明るく軽薄に振舞えば振舞うほど、心の傷が血を滲ませるようで痛々しかった。 「なあ、俺にとってマルチェロって、どういう存在だったのかな」 「大好きなお兄さん、ではなかったわね、少なくとも」 「大嫌いな兄貴、だったな。でもガキの頃の刷り込みには逆らえなかった」 ククールは前髪を掻き上げ、忌々しそうに溜息をついた。 「初めてマイエラ修道院に行った時、神に祈りを捧げるのに夢中な敬虔な僧侶様達は、みすぼらしいガキの俺なんか見向きもしなかった。怖くて思うように足が進まなかった中、たった一人、優しく声を掛けてくれたのが兄貴だったんだ。……その時どんなに嬉しかったか、ちょっと言葉では説明出来ない」 想像は出来るわ。知らない土地、知らない人々に囲まれて不安だった時、誰かが手を差し伸べてくれたらどんなに嬉しいかしら。きっと無条件で、あたしはその人のことを好きになると思う。小さな子供なら尚更だわ。 「俺はあの瞬間、あいつが優しかった最初で最後の一瞬で、あいつを親とも兄とも慕っちまったってわけさ。ほら、鳥が生まれて最初に見たものを親と認識するっているだろう? あれと同じさ」 ククールが自嘲して肩を竦める。 「その一瞬の親愛の情が、俺の心の一番奥深いところへ食い込んだ。後から知ったあれこれの事情も相俟って、俺の中で奴は特別な存在になったというわけだ。どうせなら俺の心には美女に住んで欲しかったんだけどね、全くついてねぇよ」 「今もマルチェロは、ククールの心に住んでいる?」 「住んでいるね。薄ら笑いを浮かべて嫌味を連発していやがるよ」 ククールは低く笑ってカップに唇を付ける。予想外に熱かったのか、軽く顔を顰めて舌を出す。 「だけど兄貴は死んだ。もう俺とは違う世界の人間だ。俺にはもう、兄貴を追いかけることは出来ない。俺の旅は終わった」 「寂しい?」 「寂しいね。寂しくて悔しくて腹立たしい。そして……少しほっとした」 「……」 「薄情なもんだな、たった一人の兄貴が死んじまったってのに。でもこれは俺の正直な感情で、嘘をついても始まらない」 あたしは頷いた……頷く以外に何が出来ただろう? 「この世界に兄貴がいると思えば、俺は弟と認めて欲しくて躍起になる。でもそれも不可能となったら……諦めるしかねぇだろ? だから俺は俺の人生を生きることにしたんだ」 「そうね」 何時までも過去の亡霊に囚われてちゃいけない。ククールは生きていて、幸せになる義務があるんだから。それを自覚しているからこそ、ククールはこんな風に微笑むことが出来るんだろう。 「それにしても短い人生の中、随分長い間兄貴に拘り続けちまったな。俺が修道院にぶち込まれてからだから……かれこれ二十年か」 「月日が経つのって本当に早いわ。あたし達が出合ってからだって随分経つもの」 「全くだな。旅が終わってから五年……初めて会ってからもう七年。俺とゼシカの付き合いも七年だ」 ククールは指折り年月を数えて、やれやれと頭を振った。 「女性とこれほど長い友情を築いたのは初めてだ。すぐに恋人になってしまうから、友情が長続きしなくてさ」 「あーそうですか」 あたしは呆れた思いで紅茶のカップに唇を寄せる。兄を探す旅の傍らで、何をしてたんだが想像出来てしまうわよ。 「ゼシカと友人でいるのもそろそろ飽きたな。ここらでそろそろ、友人を止めて恋人になってみないか?」 「バカバカしい。じゃあ恋人に飽きたらどうするのよ。また友達になるわけ?」 あたしが小さく肩を竦めると、ククールは得たりとばかりににやりと笑った。 「恋人に飽きたら夫婦になって、夫婦に飽きたら両親になろう。両親に飽きたら祖父母になって、祖父母に飽きたら同じ墓の住人になろう」 「……」 あたしは眉を潜めて、ゆっくりとククールの言葉を反芻した。 あたしはひょっとして、結婚を申し込まれているのかしら? こんなにやにやした顔で、こんな軽い口調で、こいつは何処まで本気なのかしら? 「……それって、プロポーズ?」 「勿論。分かりにくかったならやりなおそうか?」 ククールは椅子から下りてあたしの前に立った。どぎまぎするあたしの前に跪き、騎士さながらに手を取って掌に求愛のキスを落とす。 「君が望むなら天の星を集めて首飾りを作ろう。その白い肌が星明りに輝き、花のかんばせが微笑みで彩られるというのなら、俺は地の理を断って空を飛ぶことも出来る。願わくはこの切なる想いが、愛しき君に受け入れられますように」 「……」 かあっと顔に血が登るのが分かる。こんな時はどう振舞えばいいの? どんな風に微笑めば一番綺麗に見えて、何て答えれば一番かっこいいのかしら? 忽ち溢れ出た疑問符が、あたしの頭の中をぐるぐると廻る。 「俺の想いは受け入れて貰えないのか? 「そ、そんなこといきなり言われたって……」 「恋人が無理なら使用人でもいいや」 「……は?」 ククールはそんなあたしを見て、小さくウィンクした。 「いざ旅が終わってみると行くところがなくてね。頼むよゼシカ」 「……」
あたしは。 「お断りよ! あんたみたいな男、使い物にならないわ! お茶を飲んだらさっさと出て行ってちょうだい!」 「おお、我が麗しの君よ。使用人でいいから側にいたいという純情なククール青年の気持ちをこっぴどく傷つける気か? 寄る辺のない俺を追い出さないでくれよ」 「野宿でもすれば? 今時期は暖かいからいい夢が見られるわよ」 「野宿か……大地の懐に抱かれてゼシカと星空を眺めるのも悪くないかな」 「な、何であたしまで野宿しなくちゃならないのよ!」 「ハニー、連理の枝とも比翼の鳥ともならん。恋人が一緒にいないなんて不自然だろう?」 「あんたと恋人になった覚えはないわね!」 頭から湯気を出して怒鳴りながら、今日の夜は何をご馳走しようかと思うあたしも相当おめでたい。そんな自分を蹴飛ばしてやりたいと思うあたしの肩を、もう一人のあたしが肩を叩いて慰める。自分の心が思うようにならないなんて理不尽極まりないわ。 ああ、それにしても、明日からのことを考えると頭痛がする。 お母さんは困惑するだろう。ポルクは怒るだろう。マルクはおろおろするだろう。村の人たちもびっくりするだろう。 それでもあたしの心は不思議と弾んでいる。心が温かいお湯で満たされたような、不思議な充実感。こんな満ち足りた気持ちは、旅をしている時以来かもしれない。 その日の夕日を眺めても、不思議と寂しい気分にはならなかった。 |